ショパン音楽の「日本的」な特徴とは?【インタビュー】
現代ポーランド人とメシアニズム、日本人にとって参考になるポーランド・ロマン主義の要素、ショパン作品の感情の幅、ポーランド語の魅力について、ポーランドで社会学を学んだ柴田恭子と考える。
柴田さんは『Polonicum(ポロニクム)』〔ワルシャワ大学付属外国人向けポーランド語学校の季刊誌〕で、慶應義塾大学の旧図書館の中で、ポーランドの知識人のロマン主義と遭遇したエピソードを紹介しています。この図書館で、どのような本と出会ったのでしょうか。同じ記事に、「この美しい思想は、今も自分のアイデンティティの基礎となっている」とも書いています。
『ポロニクム』掲載の記事は20年前、毎年開講されているポーランド語夏季講座に参加した時に、宿題として書いた文章の一つです。ヴァルンケさんが引用なさった部分はとてもドラマチックに聞こえて、恥ずかしい限りです。ポーランド・ロマン主義についての私の考え方は、今はもっと理性的になっています。ポーランド科学アカデミー哲学・社会学研究所のヨアンナ・クルチェフスカ(Joanna Kurczewska)教授のもとで文化社会学を学び、ポーランド・ロマン主義の思想も、文化現象の一つとして捉えています。
2002年の秋、慶應大学で卒業論文を書いていた時、ポーランドの著名な政治思想史家、アンジェイ・ヴァリツキ(Andrzej Walicki, 1930-2020)によるPhilosophy and Romantic Nationalism: The Case of Poland(Oxford University Press 1982)という本を読みました。ヴァリツキ教授は、私をポーランド・ロマン主義とポーランド文化の探究へと導いてくださった人物の一人と言えるかと思います。その3年前、1999年3月、高校の終わりにポーランドを初めて訪れたことも、今につながる貴重な経験でした。その折に、フリデリク・ショパン音楽アカデミー(現ショパン音楽大学)のエルジュビェタ・タルナフスカ(Elżbieta Tarnawska)教授に2時間、ピアノ演奏を指導していただきました。
ヴァリツキによるポーランドのロマン主義思想・文学の分析は明快で、非常に面白いものでした。とりわけ、世界のあり方をさまざまな方法で捉えている思想家や詩人たちが、それぞれのアプローチの違いにかかわらず、未来への道を「作り出す」ことを目指している点に興味を持ちました。また、ポーランドのロマン主義者たちが主権と自由を渇望するとともに、個人の力を信じ、ポーランドの状況を変えることができると考えていたことにも強い印象を受けました。私がまだ若い学生で、世界における自分の居場所がわからなかった時、自由を求め、存在するための空間を自ら生みだそうとする彼らの姿勢に引き込まれたのだと思います。本から得た知識やポーランドの素晴らしい人々との出会いから、ポーランドという国とポーランド文化を、自分にとって大切な「他者」として選び、ともに生きていこうと決めました。
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原宿の竹下通り。写真:Lukas Vallecillos / Zuma Press/Forum
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ロマン主義においてはポーランドの思想、そして文学の潮流の一つとして「メシアニズム(mesjanizm)」が形成されました。その中心にいるのが詩聖と呼ばれる詩人たち、つまりアダム・ミツキェヴィチ(Adam Mickiewicz, 1798-1855)、ユリウシュ・スウォヴァツキ(Juliusz Słowacki, 1809-1849)とジグムント・クラシンスキ(Zygmunt Krasińki, 1812-1859)ですが、彼らはメシアニズムをそれぞれ異なる方法で理解していました。ポーランドのメシアニズムについて、柴田さんはどのように考えていますか?
大まかに言って、ポーランドのメシアニズムは、ポーランドの歴史によって形作られた宗教的な意識としてとらえています。人間の世界と神の世界の間を取り持つ仲介役となり、天国へとつながる「経路」を開く能力を持った「英雄=救世主」の出現を待望するとともに、「諸民族の中のキリスト」であるポーランド人に与えられた、地上における神の国を建設する使命を信じる思想です。このような信仰やそれにまつわる想像力が、ポーランド文化、また現代ポーランド人の意識にどのような影響を与えているかが、社会学的には興味深いところです。
詩人によって世界のとらえ方は異なり、メシアニズムの中に多様なアプローチがあるのが大変面白いと思います。どのような答えであっても豊かな思想を単純化せざるを得ないので、詩人たちも不満でしょう。教科書的には、ミツキェヴィチが後期になって描いたポーランド民族のビジョンは、より開かれていて明るく、クラシンスキに見られるように悲観的で、「他者」に対して敵対的なものではなかったとされています。ポーランド文化・ポーランド社会では、ミツキェヴィチをはじめとする偉大なロマン主義詩人の傑作がポーランド民族にまつわる「幻想」を生み出し、ジェンダー意識を含めた文化構造の基礎となって、永続化させる力を持っています。これはポーランドに限ったことではなく、どのような国民国家にも同じようなしくみがあると思います。学問の視点から言えば、これらの作品が持つ、疑いようのない、素晴らしい芸術的な価値や美しさは別にして、作品によって幻想が生成され、それがイデオロギー的な機能を発揮することに、受け手に気づいてもらうことが重要です。イギリスの社会学者・ナショナリズム研究の泰斗、アントニー・D・スミスの言葉を借りると、このような民族の幻想は、ナショナリズムの「聖なる資源」として教義に取り入れられ、利用される可能性・危険性があります。
スウォヴァツキの戯曲『リッラ・ヴェネダ(Lilla Weneda)』(1840)をジル・ドゥルーズの「マゾヒズム契約」の概念から分析した柴田さんの論文を興味深く読みました。ポーランド・ロマン主義文学作品におけるさまざまな解釈の可能性と、現代的な意義について考えさせられます。
ロマン主義作品の中で結晶化されているさまざまなイメージを批判的に分析することは意義があると思います。ポーランド社会にとってこれらの作品がどのような意味を持っているか、現代のポーランドや世界各国の受け手に対して問題提起をし、広く議論をすることが可能になるからです。ポーランド・ロマン主義の作品は、各国で書かれ、読みつがれている文学作品と同様、多様な手法や視点を用いて、さまざまに解釈することができます。大切なのは「意味を刷新する」可能性です。19世紀に作りだされた幻想は、現代ポーランド人の考え方に何か影響を及ぼしているのか、もしそうだとしたらどのような影響か、論じるのは面白いのではないでしょうか。
「蛇の塔」で竪琴を奏でるリッラ・ヴェネダ。ユリウシュ・スウォヴァツキによる戯曲『リッラ・ヴェネダ』第3幕への挿絵。写真:ワルシャワ国立美術館
スウォヴァツキの『リッラ・ヴェネダ』についての論文は、2012年に、長い伝統を誇るポーランド文学研究誌『Pamiętnik Literacki』に掲載されました。ポーランドで敬愛されている文学史家、マリア・ヤニオン(Maria Janion, 1926-2020)教授の有名なセミナーで発表を行い、それに基づいて書いた論文です。ポーランド民族の神話を編もうとしたスウォヴァツキの戯曲を、ヤニオン教授の提唱する「幻想批判」の手法、またジル・ドゥルーズの概念を用いて分析する試みでした。スウォヴァツキの抱いたポーランド民族のビジョンにおいて、主人公のリッラ王女が「無辜の犠牲」の役割を担う点などを論じています。
ポーランド・ロマン主義は、自分なりに探究を続けるつもりです。たとえばミツキェヴィチの作品における復讐の概念に関心を持っています。ロマン主義者たちが他者性や異質なものに対して興味を抱いていたことや、スウォヴァツキがヨーロッパの二元的な世界観を越えようとしていたことも、気になっている点です。
ポーランドのメシアニズムには「苦難」と「英雄主義」の概念が刻み込まれています。これらは日本文化にも見られますか。
ポーランドのメシアニズムと日本文化に固有の価値観を比較するのは簡単ではありませんが、あえて例を挙げるとするならば、ジグムント・クラシンスキによる英雄のとらえ方かと思います。『反・神曲(Nieboska komedia)』(1835)の主人公、ヘンルィク伯爵は、パンクラツィ率いる革命勢力が拡大するのを目の当たりにし、自分が属するポーランド貴族の世界の終焉を予感し、苦悩します。伯爵は「聖三位一体城」に立て籠もり、最後まで革命勢力と闘います。民族が新たな秩序を築くことができるよう、伯爵はあくまで古い世界の価値を守りつつ、死に向かいます。これはちょっとステレオタイプ的な見方ですが、特定の価値にあくまで忠実で、それを守ろうとする意志は、誇り高い侍が自死を厭わない姿勢にある程度似ていると言えるかもしれません。
日本がポーランド・ロマン主義から学ぶべきことは何かありますか。
自由の追求と、個人の存在に価値を認める点は、現代の一部の日本人にとって参考になるかもしれません。ポーランドの大学で学生と話していると、仕事や人生に対する「日本的な」姿勢は理解できないという、もっともな意見がよく出てきます。自己を殺し、集団が掲げる目標に向かって無批判に、何も考えずに邁進することに違和感を覚えるといいます。もちろん日本にも強い個性を持ち、独創的で、率先して物事を起こしたり、新たな解決策を提示したりすることができる人物がいます。現在も続くグローバリゼーションや人口構造の変化の影響で、政治・経済の中枢を担う方々は「日本的な」働き方の文化を変えようと試みています。一方、日本社会の内部では今も変わらず同質化の圧力が働いており、一般的な振る舞い、ものの考え方、時間の感覚や外見など、既存の規範から逸脱するありとあらゆる「違い」や異質なものを、社会全体にとって厄介な問題、または有害な異分子として監視しているように思います。ポーランドのロマン主義的な価値観は、勇気を持って自分の意見を表明し、個人の意思や人生を往々にして押しつぶす強大なシステムに異議を唱えるよう、一部の日本人の背中を押してくれるかもしれません。
2007年の時点では、国民という考えについてより深い議論が望まれると書いていますね。この時から日本社会に何か変化はありましたか。
国家や国民という概念を当たり前のものだと思わず、深く議論することは、今も日本に必要だと思います。グローバリゼーションが進む中、国民国家(nation-state)は依然として世界の政治的な秩序の主な枠組みになっています。国民という概念のもと、ひとくくりにされ、個人の意志がないがしろにされることがあります。市民が一人ひとり、自分自身の価値を感じて尊厳を持ち、安心感をもって幸福な人生を目指すことができるような社会のしくみを作ることが大切だと思います。
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渋谷駅の若者たち。写真:Enno Kapitza / Focus/ Forum
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日本では、若い世代を含めて、日本が好きな人が多く、外国人の目から見た日本の価値観や美徳を称える本やメディア番組も人気です。これは1970年代に見られた「日本人論」にも少し似ています。もっとも、日本人が単一民族であるという当時の考え方は今は主流ではなく、日本の組織文化の問題や、秩序や調和に重きを置く道徳や社会規範についても議論が続いています。
日本の規律のポジティヴな側面を強調する社会言説の中で生活していると、国民という概念に含まれている象徴的な暴力について忘れがちになります。社会における少数派や移民はもちろん、各個人という存在がよく見えなくなってきます。ちょっと違うテーマですが、世界における日本のイメージと現在の地政学的な状況を背景に、若い世代の日本人が日本文化のソフトパワーをどのようにとらえているか調査するプロジェクトを、ポーランドの研究者とともに行おうと試みています。若い日本人にとって国民という概念が何を意味するかも、可能な範囲で考察できればと思います。
ポーランドではショパンの音楽が、ロマン主義詩人の作品と同じような意味を持っています。柴田さんは論文の一つで、ショパンの作品に愛国心を感じて表現しようとする日本のピアニストがいる一方、多くはそのように演奏する義務を感じていないと分析しています。このようなアプローチの違いはどこからやってくるのでしょうか。
この10年、私がお話を伺ってきた日本の音楽家の皆さん(2012年から日本人によるショパン音楽受容についてのプロジェクトを実施しています)は、ショパン作品に込められている感情はきわめて豊かで幅が広く、民族というカテゴリーは自然に超えてしまうと口を揃えて言います。一方でもちろん、ショパンがポーランドを愛し、愛国者だったことは皆さん知っています。マズルカやポロネーズを演奏する際にはポーランド文化に根ざした美しさを表し、ショパンの祖国への思いを伝えようと努めます。多くの日本のピアニストの方が、マズルカの演奏には「ポーランドの」時間や空間の感覚、自由の意識が必要だと言っています。
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第18回ショパン国際ピアノコンクールで演奏する反田恭平氏。写真:Wojciech Grzędziński / NIFC
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第18回ショパンコンクールで銀メダルを獲得した素晴らしいアーティスト、反田恭平さんはメディア出演の際によく、ショパンの音楽における愛国心を強調していました。ただ、私がインタビューを行った日本のピアニストの方々は、国や民族というカテゴリーにそれほど大きな意味は見出していませんでした。ポーランド社会が繰り広げるショパン言説の外で育ったところから、ショパン作品を理解する上で、国や民族という枠組みにとらわれていないのではと推測します。ピアニストの皆さんは、ショパンの作品は彼に近しい人たち、人類の理想、自然そのもの、はたまた広く宇宙に捧げられていると言っていました。数名のポーランドのピアニストに予備的なインタビューを行った際も、しばしば同様の答えが返ってきました。
ショパンの音楽に「日本的なもの」は存在するのでしょうか。
ポーランドで学んだり仕事をしたことのある日本のピアニストの方々は、「繊細さ」がショパン音楽の「日本的な」性質の一つだと示唆しています。私がお話を伺ったピアニストのうち多くは、抒情性と洗練されたさまざまな感情を表現できる可能性に惹きつけられ、微妙な感情の動きに対する感性がショパン作品において重要だと言う人もいました。ショパンの繊細さは、個々のピアニストがショパンの音楽の「隠れた美」をその人だけの方法で感じ取り、表現することを可能にするとともに、アーティストそれぞれの内面の深い部分を明らかにします。1987年からポーランドに住んでいるピアニスト、西水佳代さんもインタビューに応じてくださった一人ですが、ショパンの作品を通して、日本にいる時は理解できなかった「日本人の感性」を新たに学んだそうです。ショパンの音楽は、素直に自分の感情を表現できないことが多い日本の人々に合うとも仰っていました。
ショパン作品を演奏するには、非常に高いレベルの技術のほか、精神と身体が「自然な」状態にあることが求められます。演奏者は自分自身に対して正直になり、集中すると同時に、リラックスしていなければなりません。これはほかの作曲家の作品に対しても言えることだと思いますが、私が話を伺った皆さんは、ショパンの場合はこれが特に重要だと強調していました。素晴らしいアーティストと、一人ひとりがとらえて表現するショパンの繊細さに触れたいという願いは、日本人に限らず、世界中のクラシック音楽愛好家がワルシャワのショパンコンクールにやってくる理由の一つだと思います。
柴田さんは、ポーランド文化についての知識を、ポーランド語という視点からまとめた英語の本『Quarks, Elephants & Pierogi――Poland in 100 Words』(2018)の翻訳者でもあります。ポーランド語の学習にまつわる経験について話してもらえますか。
私のポーランド語の学習は、ポーランドでの生活とポーランド人との直接の交流と密接に結びついています。日本語版では100語に1語が足され、『素粒子、象とピエロギと――101語のポーランド』というタイトルになったこの本を訳しながら、ポーランドにやってきた当初のことを懐かしく思い出していました。2002年、大学4年生の夏休みにヤギェウォ大学のポーランド語夏季講座でこの言語を学び始め、2003年秋に修士課程に入学した折にもポーランド語の授業に通いました。素晴らしい先生に恵まれ、ポーランド人の友人たちが辛抱強く相手をしてくれたこともあって、2-3ヶ月すると次第にポーランド語で話すことができるようになり、修士論文に必要なデータを集めるため、ポーランド語でインタビューを行いました。友人との会話、インタビューと書き起こし作業の経験により、生きたポーランド語の世界に浸ることが可能になりました。
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Quarks, Elephants and Pierogi:Poland in 100 Wordsの日本語版『素粒子、象とピエロギと――101語のポーランド』の表紙。翻訳:柴田恭子、著:ミコワイ・グリンスキ、マシュー・デイヴィス、アダム・ジュワフスキ、編集:アダム・ジュワフスキ、イラスト&ブックデザイン:マグダレナ・ブルジンスカ、出版:アダム・ミツキェヴィチ・インスティテュート、2021、2024。写真:Grażyna Makara/ Culture.pl
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何が一番、難しかったですか。日本語とポーランド語はまったく異なるように思いますが、何か共通する性質や考え方はありますか。
日本人にとって、ポーランド語の発音は英語よりもとっつきやすいと言われます。日本語の単語と同じように聞こえるポーランド語の単語もいくつかあります。もっとも意味は異なり、例えば「人」を意味する「osoba オソバ」は日本語の「お蕎麦」、「どうにかこうにか、良くも悪くもない」という意味の「jako tako(ヤコタコ)」の「tako(タコ)」は日本語の「蛸」に音が似ています。ただ、強い母音「y(イ)」や摩擦音「sz(シュ)」、「cz(チュ)」、「szcz(シュチュ)」、「rz/ ż(ジュ)」など、日本語にない音を発音するのは困難です。のどの奥から出す「h/ch(ハ)」の音は、私は未だに発音できません。様々な接頭辞を持つ動詞など、日本語にも多くの可能性がありますが、ポーランド語のニュアンスをどう理解して表現するかなど、難しいことは非常にたくさんあります。
似ている点としては、他者への敬意と結びついた丁寧な表現が挙げられるかと思います。私はこれについては愛着があり、親友とのコミュニケーションでも敬語を使うことがありますが、ポーランドではよく友人たちから、いい加減もう、丁寧な言葉遣いをやめてくれと頼まれます。日本でも情報社会化とSNS文化により、コミュニケーションはかなりくだけたものになってきています。翻訳者にとって、口語に触れることは非常に重要です。生きたポーランド語の鮮やかな表現をとらえ、ごくその一部でも自然に使えるようになることは、ハードルが高いですが、目標です。
インタビュアー:アグニェシュカ・ヴァルンケ(Agnieszka Warnke)、2023年4月6日
日本語訳:柴田恭子(Yasuko Shibata)、2025年10月