1798年12月24日生、1855年11月26日没。主な著作として、詩集『バラードとロマンスBallady i romanse』、『クリミアソネット集Sonety Krymskie』、物語詩『コンラド・ヴァレンロドKonrad Wallenrod』、『戯曲父祖の祭りDziady』、国民的叙事詩『パン・タデウシュPan Tadeusz』がある。
青年期
ミツキェヴィチはリトワニアのノヴォグロデクNowogródekで生まれ、最期までリトワニアを自分の故郷と考えていた。ヴィルニュス大学で学び、卒業後、カウナスの学校で教鞭をとった。愛国的秘密結社「フィロマト会Towarzystwo Filomatów」の設立者で活動家の一人であったため、仲間とともに逮捕され、ヴィルニュスのバジィリアン修道院に監禁される(1823-1824)。1827-1829年は中央ロシア、オデッセ、モスクワ、ペテルスベルグで過ごし、ロシアの急進的エリート知識人の仲間に入った。1829年、欧州旅行に出る。ドイツ、スイス、イタリアを見て回り、ベルリンではヘーゲルの講義を受けた。国際的な芸術界で多くの親交を結ぶ。1830年11月蜂起の勃発以降、帰国を試みるも叶わず。1832年以降は、ラテン語文学を講義したローザンヌ滞在(1839年)と、自由獲得運動、いわゆる諸国民の春に教皇ピウス9世の支援を求めようとしたローマ滞在(1848年)を除き、パリに住んだ。
パリ時代
ミツキェヴィチのパリでの生活は困難なものであった。生活のための定収入がなかった。亡命者仲間は政治的に分散していた。ミツキェヴィチはある一時期表舞台で活動し、文学者協会やポーランド国民協会などと協力関係をもった。1833年には「ポーランド巡礼Pielgrzym Polski」誌編集長、評論家。また、フェリシテ・ド・ラムネー神父Hugues- Félicité-Robert de Lamennaisやシャルル・ド・モンタランベールCharles de Montalembert、ジョルジュ・サンドGeorge Sandなどと交流した。1834年には、ツェリナ・シマノフスカCelina Szymanowskaと結婚し、6人の子を授かる。その後、コレージュ・ド・フランスCollège de Franceに新設されたスラブ文学講座を任される1840年まで、ミツキェヴィチは表舞台から遠ざかっていた。コレージュでは、ジュール・ミシュレJules Micheletとエドガール・キネEdgar Quinetとともに、7月王政に対抗する民主主義的反体制派であった。1841年、新たな啓示と精神世界のルネサンスを唱える宗教一派トヴィアニズムTowianizmのサークルと関係を持つ(当時のフランスには、このような宗教各派が幾十もあった)。後にトヴィアニズムのプロパガンダに加え、急進的な政治的社会的思想により教授職からの追われることになった。
ポーランド・レギオン軍団とイスタンブールでの最期
ミツキェヴィチは、ローマ滞在中の1848年にロンバルディアで戦うポーランド・レギオン軍団を開設。その目的と計画を『原則の蓄えSkład zasad』に記している。その後、フランス人とポーランド人亡命者のグループで、急進的な社会的構想を掲げる「La Tribune des Peuples」を創刊。しかしロシア大使館の干渉により発行中止にされ、1851年のクーデター後は、ミツキェヴィチは警察当局の監視下におかれる。彼の最後の愛国的活動は、フランスのクリミア戦争参戦後の対ロシア戦想定ポーランド・レギオン軍団設立の試みになった。その目的のために1855年9月イスタンブールを訪れるが、期せずして亡くなってしまったのだった。亡骸はフランスのモンモランシーのポーランド人墓地に葬られた。1900年になり、ミツキェヴィチの棺はヴァヴェル大聖堂の墓碑に改葬された。
作品
- 『バラードとロマンスBallady i romanse』
ミツキェヴィチは、未完成の作品や部分作品を含め、叙情詩、叙事詩、戯曲、評論など多様で膨大な文学作品を遺した。古典的な形を踏襲する初期試作の後、後にポーランド・ロマン主義の始まりとされる『詩集Poezje』第1巻を1822年に刊行(1829年第2版増補版発行)。その「前書き」とバラード『ロマンティシズム』で、民族的な信仰や空想、「学者のレンズと目」に対して、感情と空想による世界や、自然や目に見えない存在に対する繊細さを主張する新しい文学論を打ち立てた。この詩では、ジャンルを区切る境界が打ち消され、民話・バラード・物語的叙情挽歌ドゥマの詩学が使われている(中でも『ロマンティシズムRomantyczność』、『シフィテシ湖Świteź』、『シフィテズの娘Świtezianka』、『ブドゥリス三兄弟Trzech Budrysów』、『パリスParys』が有名)。
『詩集Poezje』第2巻(1823年)は、『父祖の祭りDziady』第2部と第4部と歴史的叙事詩『グラジナ リトワニアの物語Grażyna. Powieść litewska』を掲載。後者は、スコットとバイロンの流れを汲んだ、男装してドイツ騎士団との戦いの先頭に立つリトワニアの王女の歴史物語である。愛国心と地域共同体のロマン主義的観念創出への初めての試みであった。
1829年、ロシア旅行の結果、ミツキェヴィチは『ソネット集Sonety』(クリミアとオデッサ)を出版する。洗練された古典的形式で、神秘的な自然との一体感とその経験を神聖なものとして描いた。
- 『コンラド・ヴァレンロドKonrad Wallenrod』
1828年に発表された『コンラド・ヴァレンロド リトワニアとプロシアの歴史物語Konrad Wallenrod. Powieść historyczna z dziejów litewskich i pruskich』は、14世紀設定の物語、きめ細かい地域性、相反する価値観のシステムに苛まれる主人公という、ロマン主義歴史叙事詩の手本と言える作品。
自らのリトワニア人ルーツを発見し、祖国愛に導かれ、騎士道の誇りと規範を曲げて騎士団を敗北に招くドイツ騎士団グランドマスターの物語で、愛国的密謀に関わる者が経験する良心の葛藤の比喩と読まれた。
この叙事詩の中で『ヴァイデロタ物語Powieść Wajdeloty』と『アルプハラAlpuhara』は独立して、生ける伝統の詩である(今も詩の朗読コンクールで好まれている)。
『父祖の祭り第3部』(1832年)はドレスデンで執筆。先に発表の第2部第4部とともに、統一感がなく部分的で、相互関係が希薄で、文体にも変化が見られるという、ロマン主義戯曲に特徴的な性質を全体に持つ。第2部第4部は、死者の霊を呼び起こす土着宗教の儀式を取り上げる。目に見える世界と見えない世界が一つであり、互いに影響を与え合う民俗的信仰と、素朴で直感的な道徳感を称賛する。第4部でも、ロマン主義的な主人公の一つのタイプである不幸な恋人(グスタフ)を創り上げる。第3部は、ミツキェヴィチの同時代の現実に置かれ、フィロマト会の若者の拘禁と裁判を取り上げる。監獄の一室と帝国役人のサロンでの物語である。第4部と第3部を結ぶのは主人公で、不幸な恋人グスタフが、愛国者で反抗者のコンラッドに変化する。この部の盛り上がりは、いわゆる大即興(民族に対する罪を許容する神に反抗するコンラッドの独白)と、ピョトル神父の予見(敬虔さと神の愛に将来のポーランドの再起する姿を見る。)である。ドレスデンの『父祖の祭り』最終章は『旅Ustęp』で、ロシア帝政専制政治に対抗し、『モスクワの友人へ』という詩で締めくくられている。
パリでミツキェヴィチは、その一番の名作とされる「パン・タデウシュ リトワニア最後の襲撃。1811年のシュラフタの物語叙事詩全12巻」を1834年に執筆し、出版した。歴史小説、詩的小説、叙事詩、物語詩などの伝統を使い、文学で他に例のない独特の「国民的叙事詩」を作り上げた。叙情性、ペーソス、アイロニー、レアリズムなどさまざまな手法を使いながら、ナポレオン軍の到来前日のリトワニアの士族の世界を再現した。しばしばけんかし陰謀を掛け合う、色とりどりなサルマティズムの人々が、この叙事詩の中では一刻も早い自由奪還を夢に、愛国の絆で結ばれ、一つになる。
主人公の一人は、ナポレオンの密使、秘密に包まれたロバク神父で、実はその過去は乱暴者士族だったため、祖国への勤めで若き日の罪を償おうとしているという人物である。
現実には物語のようにならないのは、作者には既にわかっていたのだが、叙事詩の結末は、歓喜と希望に満ちている。この作品は、明るい未来に期待し、読者の「心温まる」作品を狙ったのだった。
ミツキェヴィチの作品で他に列挙すべきは、1939-49年に書かれたローザンヌ詩集である。時間、永遠、変遷についての考察をした、神秘的な自然との一体感があふれる詩のシリーズである。ミツキェヴィチの評論は、フランスの思想(サン・マルタンSaint-Martin、ド・メストールde Maistre、ド・ラムネー、サン=シモン派de Saint-Simon)やドイツ哲学と文学にも見られるロマン主義救世主信仰の流れとみなされている。苦難と混乱の時代の末には、救世主の再来とも比べられるような偉大な変化が訪れ、社会的政治的生活にキリスト教の原則の実現をもたらすという信念が、救世主信仰のさまざまな流れを繋いでいた。救世主信仰はいろいろあったが、救世主の役割は、優れた人物または集団に当てられていた。
既に以前からミツキェヴィチの作品に見られていた救世主信仰(主に『父祖の祭り』第3部)の論点は、『ポーランド民族と巡礼の書』に著された(1832年)。聖書のスタイルを思わせるミサ用の小冊子という形での出版は、歓喜の「書」であり、11月蜂起の後、フランスに辿り着いた多くの亡命者たちの指針となるべきものであった(無料頒布)。人々と専制政治の独裁者との戦いにおける、ポーランドの持つ特別な先導者的役割や、人類史上における宗教的政治的責任という信念を著した。しかし、これは、教皇勅書によって、宗教上の論点を急進的な社会的構想(農民による農地取得、女性・ユダヤ人を問わぬ普通公民権など)の根拠に利用したと批難されることになっった。
彼のコレージュでの講義は、聴講者の記録を元に『Cours de la litterature slave』(1849年最終刊行)として出版された。第1回第2回のコースで、ミツキェヴィチは西欧の知識人たちに、ポーランド、ロシア、チェコ、セルビア文学について、それらの民族の歴史的文化的背景から解き明かした。第3回コースでは、当時の現代文学を、懐疑的に紹介。スラブ民族の哲学的宗教的生活について独自の観点から解説した。狭窄な合理主義による西欧の精神世界の衰退を指摘し、それに釣り合うものとして、「生きた真実」を保ち、人類を道徳的再生に導きうるスラブ民族の深い精神性を指摘した。これにより、救世主信仰の使命は全スラブ民族世界に拡大され、フランスもまた「実行する国民」という名を受けることになった。
影響
ミツキェヴィチの作品は、集団意識や文学や芸術といったポーランド文化に、恒久的な影響を与えた。2世紀にわたり、文学教育と愛国教育の構成に決まって組み込まれてきた。彼の詩は、ポーランド語とその発想に影響を与え、俗語にまで取り込まれた。ポーランドの19〜20世紀文学は、ミツキェヴィチ作品の比喩や引用や隠喩で溢れている。ユリウシュ・スウォヴァツキJuliusz Słowacki、ボレスワフ・プルスBolesław Prus、スタニスワフ・ヴィスピアンスキStanisław Wyspiański、ステファン・ジェロムスキStefan Żeromskiといった作家たちにインスピレーションを与えた。そして今日に至るまで、チェスワフ・ミウォシュCzesław Miłoszやタデウシュ・ルジェヴィチTadeusz Różewiczなどの現代詩人もミツキェヴィチに繋がっているのだ。
『父祖の祭り』のコンラッドは、ポーランドの悲劇的ヒーローの原型となった。『父祖の祭り』はポーランド演劇にとって、「偉大な即興」は著名な俳優にとって、最高の挑戦である。
舞台化は毎回、文化における事件になった(主な演劇上演;ヴィスピアンスキSt. Wyspiański – クラクフ1901年、レオン・シラーLeon Schiller –リヴィウ1932年、ワルシャワ1934年、カジミェシュ・デイメクKazimierz Dejmek –1967年、コンラッド・シフィナルスキKonrad Swinarski –クラクフ1973年)。2000年にはアンジェイ・セヴェリンAndrzej Seweryn が一部をフランス語で上演した。
『パン・タデウシュPan Tadeusz』の舞台化や映画化も試みられた。舞台という生きる絵画の形態は、ミエチスワフ・コトラルチクMieczysław Kotlarczyk(1945年、クラクフ)。アダム・ハヌシキェヴィチAdam Hanuszkiewiczはテレビドラマ化(1970-71年)。1928年にはリシャルド・オルディンスキRyszard Ordyński、そして2000年にはアンジェイ・ワイダAndrzej Wajdaが映画化した。ワイダの映画は世界で高い評価を受けることになった。
ミツキェヴィチは、画家やグラフィックアーティスト(ゲルソンGerson、アンドリオッリAndriolli、スモコフスキSmokowski、レセルLesserなどが作品にイラストを描いた)や作曲家(ショパンChopin、モニューシコMoniuszko、シマノフスキ Szymanowski、パデレフスキPaderewski、チャイコフスキーCzajkowski、リムスキー・コルサコフRimski-Korsakowなどは音楽を書いた)にもインスピレーションを与えた。
ミツキェヴィチ自身も、国民的大詩人の象徴として詩や描画やメダルのテーマとされた(ヴァレンティ・ヴァンコヴィチWalenty Wańkowicz、ユゼフ・オレシキェヴィチJózef Oleszkiewicz、ノルヴィド Norwid、ドラクロアDelacroix)。
ミツキェヴィチの銅像では、現在、ワルシャワ(Cyprian Godebski)、クラクフ(Teodor Rygier)、ポズナニ(Bazyli Wójtowicz)、パリ(Émile Antoine Bourdelle)のものが有名である。
ミツキェヴィチの哲学や社会的考え方も大きな影響を与えた。特に、宗教とロマン主義的愛国心と社会的な急進主義の統合は、左派から極右までに至るいろいろな政治的グループが彼を担ぎ出した。彼のスラブ救世主主義は、独自の国家を持ち得なかった中東欧の国々の民族意識の形成に大きな意味を持った。
現在、ヨーロッパ連合の将来像についての議論では、ミツキェヴィチは、自由な民族と市民の連盟という見方の先駆者であり、文化的繋がりと価値観システムの上に築かれる共同体としての祖国という理想の発想者として捉えられている。これについては、パリで出版の『Le Verbe et Histoire. Mickiewicz, la France et l'Europe』(共同著作、2001年)に取り上げられている。
ミツキェヴィチの遺品は、詩人の息子ヴワディスワフが1903年に記念博物館を設立したパリのポーランド図書館Biblioteka Polska w Paryżuに、多数収められている。
ミツキェヴィチの作品は、作品全体や一部抜粋という形で、20を越える言語に何度も翻訳されている。ポーランドにおける重要な出版物としては、『著作集Pisma』全11巻、1860-61年、『作品集Dzieła』全16巻、1948-55年(Wydawnictwo Narodowe出版)、『作品集Dzieła』全16巻、1953年 (Wydawnictwo Jubileuszowe出版)がある。ミツキェヴィチ関連書籍は非常に豊富で、今なお増え続けている。Instytut Badań Literackich出版の『ミツキェヴィチの生涯と作品記録Kronika życia i twórczości Mickiewicza』全9巻予定(第2巻第3巻準備中)は、この詩人についての貴重な情報源である。
出典:"Literatura polska. Przewodnik encyklopedyczny", Warszawa 1984 (zbior.), A. Witkowska, R. Przybylski, "Romantyzm", Warszawa 1997
筆者: Halina Floryńska-Lalewicz、2003年2月