『ピアノ協奏曲ホ短調』も前作同様、まず仲間の家でエルスネルやクルピンスキ、ドブジンスキ、ソリヴァSolivaなどを呼んで試した。ヴィトゥヴィツキは9月25日付の新聞"Powszechny Dziennik Krajowy"で「これぞ天才の作品」と断じた。
10月11日、ショパンはアンナ・ヴォウコフAnna Wołkowと、白いドレスと頭のバラの花が目を引いたコンスタンツィア・グワトコフスカとともに国立劇場に出演した。コンサートでは、カロル・ゲルネルの交響曲も演奏され、ショパンの『協奏曲へ短調』に次いで、ゲルネルは自身の『ホルンのためのディヴェルティメントDirivertissement na waltornię』を演奏。指揮はカルロ・ソリヴァCarlo Soliva。ショパンは満足だった。
亡命への道
11月2日、ティトゥス・ヴォイチェホフスキとウィーンへ出発(ヴロツワフとドレスデン経由)。エルスネルは、ルドヴィク・ドゥムシェフスキLudwik Dmuszewskiの詩に彼が作ったカンタータを歌う学生たちと、ヴォルスカ通行税関で見送った。『ポーランドの地に生まれた君の才能よ、世界に轟けZrodzony w polskiej krainie, niech Twój talent wszędzie słynie』(参照:Marita Albán Juarez、Ewa Sławińska-Dahlig共著"Polska Chopina"2007年)。
ヴロツワフでは、コンサートマスターのヨゼフ・シュナベルJoseph Schnabelと会い、思いがけず『ロンド』と『ピアノ協奏曲ホ短調』を演奏し、オベールAuberの『ポルティチの唖娘Niemej z Portici』のテーマを即興した。その後、プラハでポーランド人宅を数軒訪問すると、ティトゥスとウィーンへと向かった。
ウィーンでの数日後、彼らにワルシャワで蜂起との報せが入った。ティトゥスは、自由のための戦いが自分の定めではないと葛藤するフリデリクを残して帰国した。ショパンは音楽家たちと交流をし始め、コンサートに通った。自身は、7ヶ月経ってやっとコンサートで演奏した。それはチャリティーコンサートだった。ショパンは、ウェーバーの『オイリアンテEuryanthe』前奏曲のあと、まず『ピアノ協奏曲ホ短調』の第1楽章、そして男声四重唱に次いで、第2楽章『ロマンス』と第3楽章『ロンド』を演奏した。作品の出版は望めなかったが、ピエトロ・メケッティPietro Mechettiが『序奏Introdukcja』とチェロとピアノのための『ポロネーズ ハ長調Polonez C-dur』を買ってくれた。
イタリアへの旅行計画は断念した。ザルツブルグ、バイエルン、ヴィルテンベルグを経由してパリへ向かった。しかし、革命後(1830年)のパリは、ロシア当局にもオーストリア当局にもよく見られなかったため、旅券はロンドンを目的地とするものであった。ミュンヘンではフィルハーモニー協会でコンサートを成功させたが、シュトットガルトでは蜂起陥落の報せを受け、大きく動揺した。当時書き記された「日記」がその衝撃が証している。
パリで
1831年10月5日、ショパンは、いわばチェスのアンパッサンen passantのごとく一時的にパリまで来たのだが、後に生涯この地に残ることになる。アントニ・オルオフスキAntoni Orłowskiや、ヴォイチェフ・ソヴィンスキWojciech Sowiński、ルドヴィク・プラテルLudwik Plater、ヴァレンティ・ラジヴィウWalenty Radziwiłłなどのポーランド人に囲まれ、徐々に町を知っていった。ロッシーニやオベールやヘロルド、マイアベーヤなどのオペラを堪能し、女性歌手のマリア・マリブランMaria Malibran、ジュディッタ・パスタGiuditta Pasta、ロール・サンティ・ダモローLaure Cinti-Damoreau、そして男性歌手のジョヴァンニ・ルビーニGiovanni Rubini、アドルフ・ヌリAdolphe Nourrit、ルイジ・ラブラーシュLuigi Lablacheに感激した。音楽院での音楽会も彼にはとても興味深かった。パリは、ロマン派の流れが起こりつつある、ルイ=フィリップ1世の新しい世界が動いていたが、ポーランド人との連帯も街頭運動などによって忘れられてはいなかった。
ウィーンのヨハン・マルファティJohann Malfatti博士の推薦状で、フェルディナンド・パエールFerdinand Paërがショパンを親身に受け入れ、滞在許可取得を支援し、ロッシーニ、ケルビーニCherubini、バイヨBaillot、カルクブレンナーKalkbrenner、ヒラーHiller、メンデルスゾーン、リストといった多くの一流作曲家たちと引き合わせた。ただ、当初計画していたカルクブレンナーの3年間のピアノコースには至らなかった。とはいえ、これはショパンの作曲家としての才能開花のためには功を奏することになった。
パリでの最初の演奏会開催には、カルクブレンナーと、ショパンと親しい絆のオーギュスト・フランショームAuguste Franchommeが師事していたポーランド系チェリスト、ルドヴィク・ピョトル・ノルブリンLudwik Piotr Norblinが尽力した。コンサートは1832年2月25日、プレイエルPleyelホールで開かれた。観客の注目を集めるプログラムは、カルクブレンナーの6台のピアノのための『大ポロネーズGrande Polonaise précédee d’une Introduction et d’une Marche』だった(2人の独奏者にカルクブレンナーとショパン、伴奏者にフェルディナンド・ヒラー、カミーユ=マリー・スタマティCamille-Marie Stamaty、ジョルジュ・アレクサンダ・オズボーンGeorge Alexander Osborne、ヴォイチェフ・ソヴィンスキ)。
ショパンは、弦楽五重奏の伴奏で『ピアノ協奏曲ホ短調Koncert e-moll』を演奏したほか、夜想曲とマズルカを数曲、そして『変奏曲作品2』を披露した。他の音楽家たちも出演した。
『ピアノ協奏曲ホ短調』の第一楽章は1832年5月20日に音楽院でも演奏した。そして、1832年12月30日アポニーApponyi公国でのコンサートは、芸術家としても教育家としても大事な経歴となった。また他のピアニストたちとも共演を始める。1833年3月23日、ヒラー、リストとともにバッハの『3台のチェンバロのための協奏曲』からアレグロを演奏した(12月15日音楽院で再演)。1833年4月2日、ベルリオーズの婚約者ハリエット・スミスソンHarriet Smithsonのためのチャリティーコンサートでは、リストと一緒にアンドレ・オンスローAndré Onslowの四手のためのピアノ『ソナタへ短調』を弾き、翌日にはアンリ・エルツHenri Herzのコンサートで、彼とその弟ジャックとリストとともに、マイアベーヤの『エジプトの十字軍』のテーマによる2台のピアノと8手のためのエルツの作品を演奏した。4月25日には、アテネ=ミュージカルAthénée Musicalで自身の『ピアノ協奏曲ホ短調』第2、第3楽章を披露した。
フランス公演
1833年7月から8月にかけて、ショパンはブリュッセルで数日を過ごす。そこへの道中、リールに立ち寄った。プレイエルは楽器を送ったが、カルクブレンナー用だった。ただ、ショパンの公式なコンサートにはついて情報がないものの、サロンでこの楽器を演奏したのはわかっている(カール・カンシュタットCarl Canstattの記述のソフィー・ルーマンSophie Ruhlmann解釈による)。8月末トゥーレーヌへ、フランショームと親しいフォレストForest家へ行く。彼らの娘アデルAdeleにはパリで数回レッスンをしていた。
ジャン・ジュードJean Judeの最新調査(『プレイエル1757-1857世紀の情熱Pleyel 1757-1857. La passion d’un siècle』2008年)によると、ショパンは1833年9月3日にトゥールToursの市庁舎のサロンでコンサートをしたという。ヒポリト・フェランドHippolyte Ferrand指揮、トゥールのオーケストラによるボイエルデューの『隣村の祭りLa fête du village voisin』前奏曲の後、フランショームは自身の幻想曲とエール・ヴァリエair variéを演奏した。コンサートの後半でショパンは『ピアノ協奏曲ホ短調』からロマンスとロンドを演奏、続いて、オーケストラ付きでモーツァルトのテーマの『変奏曲作品2』、次にはフランショームとマイアベーヤの『悪魔のロベール』のテーマで『二重奏』を披露した。鳴り止まぬ拍手に、ボイエルデューの『白衣の婦人』、マイアベーヤの『悪魔のロベール』のそれぞれのテーマで即興、『L’air patriotique des Polonais』には自身のマズルカ2曲を組み込んで即興演奏をした。
批評は様々だった。ショパンとフランショームの才能は高く評価され、観衆を選ぶショパンのスタイルの貴重さが強調された。しかし、一流の栄冠は取り下げられた。ショパンは帰路、リールを訪れた。
1834年、ショパンはコンサートを3回した。まず、2月16日、モーリス・シュレジンガーMaurice Schlesingerの夕べ、12月14日スミスソン嬢の第3回チャリティーコンサート、そしてモシェレスMoschelesの四手のための『大ソナタGrande Sonate』作品47と、メンデルスゾーンの2台のピアノのための『無言歌集Lieder ohne Worte』のテーマによるリストの『大二重奏Grand Duo』をリストと共演した12月25日だ。
1835年、ショパンはヒラーと彼の2台のピアノのための『大二重奏Grand Duo』作品135(2月22日)に出演し、スタマティのコンサートに参加し(3月15日)、ポーランド人亡命者チャリティーコンサートでオーケストラと『ピアノ協奏曲第1番ホ短調』(?)を演奏(4月5日)、また先述のコンサートで指揮をした『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』作品22も、フランソワ・アブネクFrançois Habeneckのチャリティーコンサートで(4月26日)演奏した。
ショパンのパリ初公演について書いたジャン=ジャック・アイゲルディンガ("L’ univers musical de Chopin"(『ショパンの音楽宇宙』)、1987)は、その後の1938年の公演を示している。ピエール・ジメルマンPierre Zimmermannとシャルル・V・アルカンCharles V. Alkanとアドルフ・グートマンAdolph Gutmannとで、ベートーベンの第7交響曲からアレグレットとフィナーレを2台のピアノと8手のために編曲して演奏したアルカンのコンサート(3月3日)、そして学友のアントニ・オルオフスキのルーアンでのチャリティーコンサートだ。そこではショパンは『ピアノ協奏曲ホ短調』と『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』作品22を演奏した。
それより先の1837年には、ピアニスト6人(リスト、タールベルグThalberg、チェルニィ、アンリ・エルツHenry Herz、ピクシスPixis、ショパン)でベッリーニBelliniの『清教徒』のテーマの変奏曲を書くというベルジョイオーゾBelgiojoso神父の企画に参加している。
つまり、ショパンは自分の作品のみならず様々な作品を演奏しながら、同時に新しい作品を制作していた。30年代前半は、ロマンチックな小品やマズルカ、作品10と25の二つの練習曲シリーズ、『バラード第1番ト短調』など、すばらしい傑作でいっぱいだ。
ヨーロッパ巡り
ショパンはピアノ教師としても引く手数多だった。1834年5月、ヒラーとライン川下流地方音楽祭にアーヘンへ出かけた。ヘンデルを聞き、ベートーベンの『第九交響曲』、モーツァルトの『交響曲ジュピター』を聞いた。メンデルスゾーンと彼のデュッセルドルフの家へ行き、演奏し合い、議論をした。翌日、ショパンとヒラーはライン川をに沿ってコブレンツKoblenzへ行き、メンデルスゾーンはケルンまで同行し教会を見て歩いた。
1835年、ショパンは初夏をモンモランシーMontmorencyに近いパリ郊外の保養地アンギャンEnghienで過ごす。そこには、ニェムツェヴィチNiemcewiczがいて、ショパンは好んで立ち寄った。そこから、ショパンがよく演奏をしたアストルフ・ド・キュスティーヌAstolphe de Custine侯爵の城があるサン・グラティアンSt. Gratienは近かった。両親がカールスバードに滞在と聞くやいなや即断して、すぐに両親の元へ向かった。3週間を両親と過ごす。その喜びは終わりを知らなかった。テチェンTetschen(現在のジェチンDiečin)のトゥーン=ホエンシュタインThun-Hohenstein公の元に滞在した。この家の息子2人にパリでレッスンをしていたのだった。公爵の屋敷に滞在中には娘たちにレッスンをし、そのうちのヨゼフィンJosefineには『ワルツ変イ長調』作品34-1を献呈した。