甘くて苦い、ヴェデルの話――ポーランドが誇るチョコレート会社
ポーランドを代表する製菓会社の一つ、ヴェデルは、19世紀半ば、チョコレート専門の小さな家族経営の会社として始まった。今ではさまざまな菓子を製造しており、有名な「鳥のミルク」を始め、そのうちいくつかはポーランドの定番商品となっている。この企業が生まれ、素晴らしい成長を遂げた過程、特に創設者の家族の物語と、彼らが製菓業界やポーランド文化に与えてきた影響について見てみよう。
カロル・ヴェデル。写真:雑誌『Mówią Wieki(世紀は語る)』第5号/1972/ Wikipedia
プタシェ・ムレチュコ(Ptasie Mleczko、「鳥のミルク」)やヴェデル・ケーキ(Torcik Wedlowski)を食べたことはあるだろうか?食べたことがないという人は、たぶんまだ、ポーランドに行ったことがないだろう。というのも、これらの菓子はポーランドでめちゃくちゃ人気があり、どこにいても目に飛び込んでくるからだ。実際、この二つを食べたことがない、少なくとも聞いたことがないというポーランド人はほぼいない。その長い伝統の始まりは1930年代。ヴェデル(Wedel)という、ポーランドで最も古い製菓会社によって作られた。この会社のルーツは、さらに昔へと遡る……。
ヴェデル社は、1813年にイーレンフェルト(Ihlenfeld)で生まれたカロル・ヴェデル(Karol Wedel)というドイツ人によって設立された。カロルは1845年にワルシャワに引越してきた時、既にパリやロンドンなどで専門的な経験を積んだ菓子職人だった。ワルシャワの菓子店で数年働いた後、自分の店を開くことに決め、高品質チョコレートの製造を独自のセールスポイントに定める。当時、ポーランドでチョコレート作りはほとんど行われておらず、チョコレート製造の技術や適切な知識・経験を携えてやって来たカロル・ヴェデルは、これをチャンスと捉えた。その考えは当たり、1851年、旧市街に近いカピトゥルナ通り(ul. Kapitulna)とミョドヴァ通り(ul. Miodowa)の角に建てられた店はすぐ、ワルシャワっ子の間で評判になり、1日に500杯のホット・チョコレートが注文される勢いだった。同年、カロルは製菓会社を設立した。
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エミル・アルバート・フリデリク・ヴェデル(Emil Albert Fryderyk Wedel)。カールスバードにて。写真:エルジュビエタ・ヤシンスカ(Elżbieta Jasińska)のアーカイヴ/ Fotonova / East News
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ヴェデル社は飲用や固形のチョコレートのほか、キャンディや加工した果物も販売した。カロル・ヴェデルは定期的に新製品を発表し、常に顧客の関心を高めるよう努めた。妻カロリーナ(Karolina)との間に生まれた息子エミル(Emil)も店で働いた。1841年生まれのエミル・ヴェデルはやがて、父親がしたように、さまざまなヨーロッパの菓子会社についての知見を得るため、旅をするようになる。父が設立した会社の共同経営に数年携わった後、晴れてオーナーとなった。1871年、カロルは繁盛している会社を結婚祝いとして息子に譲る。エミルは父の故郷ドイツではなく、ポーランドにより強い絆を感じていたと言われ、ポーランド人女性、エウゲニア・ボーム(Eugenia Bohm)と結婚した。
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ヴェデルの主要製品の一つ、プタシェ・ムレチュコ。写真:Tomasz Adamowicz / Forum
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エミルの経営のもと、会社は成長を続けた。彼は高名な建築家、フランチシェク・ブラウマン(Franciszek Brauman;1838-1904)の設計に基づいて、市の中心部、シュピタルナ通り(ul. Szpitalna)8番地に優美な石造りの家を建て、店をそこに移転した。店の隣にはチョコレート「サロン」、つまりホットチョコレートを飲むラウンジ(談話社交場)を開く。オーナーは2階にあるアパートの一室に住み、裏庭では菓子製造の工場が稼働していた。会社はウエハースやキャンディ、そしてさまざまな種類の固形のチョコレートを販売するようになっていた。
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店には二つの部屋があった(今もそうだ)。金の装飾が施された青磁色の天井は、名高い画家、ブッフビンダー(Józef Buchbinder;1839-1909)が描いた女性の寓意像によって飾られていた。〔…〕豊かな装飾を施したカウンター、金色のスタッコ(化粧漆喰)、金文字の「E.W.」が輝く青い盾。鏡張りの棚は天井に届かんばかりだった。〔…〕店に隣接するサロンは、様式化された家具と、MS船ピウスツキ号の装飾を手がけたイェレミ・クビツキ(Jeremi Kubicki;1911-1938)の壁画が飾られ、会社のショーケースとなっていた。喫煙が禁止されていたにもかかわらず、人々はいつも喜んで訪れていた。
出典:ヴォイチェフ・ヘルバチンスキ(Wojciech Herbaczyński)『W dawnych cukierniach i kawiarniach warszawskich(昔のワルシャワの菓子店とカフェ)』PIW(国立出版協会)、1983年
すぐにワルシャワの人気スポットとなったヴェデルの店は、ヘンリク・シェンキェヴィチ(Henryk Sienkiewicz;1846-1916)やボレスワフ・プルス(Bolesław Prus;1847-1912)など、著名な作家たちが常連だった。ヴェデルの製品は非常に人気があった(市内に開設された他の場所でも販売された)ため、偽物が出回り始める。こうした偽造品をなくすため、エミルは商品に他にはないしるしをつけることにした。自分の署名のファクシミリ(複製)だ。こうして今でも使われている、ヴェデル社を象徴するロゴが誕生した。
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エミルの息子、ヤン(Jan)も家族の製菓業の伝統を引き継ぐことを望んだ。1874年生まれのヤンはポーランドで育てられ、スイスのフリブール大学で食品化学の博士号を取得。各国を旅して見聞を広め、ポーランド語の他、ドイツ語、フランス語と英語を話した。そして、チョコレートの専門家と見なされていた:
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〔彼は〕カカオ豆の原産地を当てることができた。つまりカカオ豆の外見、香りと味に基づいて、どの農園で作られ、どの品種かを判断することができた。
出典:ミェチスワフ・コズウォフスキ(Mieczysław Kozłowski)『E. Wedel – krótka historia rodzinnej firmy(E. ヴェデル――家族会社の小史)』、キャドバリー・ヴェデルにより出版、2004年
ヤンはヴェデルに入社した当初からさまざまな仕事を経験し(事業を十分に理解するために必要と父親が考えたため)、1923年にようやく社長となる。当時、会社は繁栄し、チョコレート、ビスケットやキャンディ等を製造していた。
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シュピタルナ通り、ヴェデル本店が入った石造りの建物。再現されたヴェデル社のネオンサインの点灯式。写真:Adam Stępień / AG
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ヤン・ヴェデルは会社をさらに拡大したいと考え、そのために、ヴィスワ川右岸のプラガ地区、ザモイスキ通り(ul. Zamoyskiego)28/30番地に新しい工場を建設する。シュピタルナ通りの本店の裏にあった既存の施設は、彼の計画には小さすぎたからだ。ナポレオン・チェルヴィンスキ(Napoleon Czerwiński;1870-1940)により設計された工場は1931年にできあがった:
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建設はかなり大規模な事業だった。街全体が工場の完成を待ち望んでいた。ついに、全国で最も近代的な製菓産業施設の一つができあがった。建物や設備はインパクトがあり、人々の語り草となった。ドイツとフランスから持ち込まれた機械は最高の技術レベルだった。
出典:タデウシュ・シフィョンテク(Tadeusz Świątek)『Rody starej Warszawy(往日のワルシャワの家族たち』Bis-Press出版社、2000年
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グラフィック・アーティスト、カロル・シリフカ(Karol Śliwka)によってデザインされたヴェデル・チョコレートの包装紙。写真:Daniel Dmitriew / Forum
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企業の成功は、ヤン・ヴェデルが細心の注意を払い、製品の高い品質を保ったおかげだった。会社が巨大な組織となってからも、彼は、工場に運ばれてくるココア豆の質を自分で確かめていた。従業員の一人は、「ヴェデル氏とチョコレートの間に店員は存在しない」と述べている。1930年代はヴェデルの代表的な商品がいくつか生まれた時でもある。前述のプタシェ・ムレチュコはマシュマロの一種だが、鳥がミルクを出すことをほのめかす奇妙な名前は、従業員による即興の思いつきだったと言われる。マグダレナ・カスプシク=シュヴリオー(Magdalena Kasprzyk-Chevriaux)がCulture.plの記事で描写しているように、これは「軽く、ミルキーなヴァニラ味のフラフ〔スフレのようなふわふわの食感のマシュマロ〕をチョコレートでコーティングしたもの」。同じ記事で、ヴェデル・ケーキ(トルチク・ヴェドロフスキ)は「手作りの、ヘーゼルナッツ・クリームとチョコレート味のウエハース・ケーキ」で、「有名な菓子」と説明されている〔より厳密には、ヘーゼルナッツ・クリームではなく、ピーナッツ・チョコクリームを挟んだ数層のウエハースがチョコレートでコーティングされている。表面には手書きでE. ヴェデルのサインを中心にした模様が描かれる。〕。もう一つ、この時代の有名な商品で、現在まで売られているのが板チョコの「チェコラーダ・イェディナ(Czekolada Jedyna)」(唯一のチョコレート)だ。
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ゾフィア・ストリイェンスカによる、ヴェデル社のチョコレート箱のデザイン。1934年頃。写真:DESA
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ヤン・ヴェデルは起業家として壮大な視野を持ち、文化もその大きな一角だった。彼の事業と最も密接に関連する芸術分野は、もちろんグラフィック・アートだ。人々がいわば「目で食べる」ことをよく知っていたヤンは、製品パッケージに中身の品質の高さを反映させたいと考えた。ゾフィア・ストリイェンスカ(Zofia Stryjeńska;1891-1976)やタデウシュ・グロノフスキ(Tadeusz Gronowski;1894-1990)といった卓越したアーティストを雇い、ヴェデルのためにデザインするよう依頼した(彼の父も以前に同じことをした)のはそのためだった。格調高いデザインは商品パッケージの枠組を超え、ポスター広告等、他の媒体へと広がった。ヴェデル社のために作られた応用デザインはポーランドの古典的な存在であり、ミュージアムで見ることができる。
例えばワルシャワの歴史がさまざまな事物を通して語られるワルシャワ歴史博物館(Muzeum Warszawy)では、ポーランドの首都の風景が描かれた、戦間期のヴェデル社の洒落た菓子缶が展示されている。もう一つ、この時期のヴェデルのパッケージで、カカオ豆農家、カカオの実とホットチョコレート・カップの絵がつけられたココアの缶は、グディニャ市博物館(Muzeum Miasta Gdyni)の展示の一つだ。1934年頃にゾフィア・ストリイェンスカがデザインしたヴェデルのチョコレート箱は最近、オークションにかけられ、6,000ユーロ近くの高値で落札された。民俗的なテーマを好むことで知られるストリイェンスカは、タタール人騎手に扮した伝統的なクラクフの仮装者「ライコニク(Lajkonik)」を中心としたグラフィックに仕上げている。
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タデウシュ・グロノフスキによる、ヴェデル社のココア・オートミールの広告。写真:Dagmara Smolna
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もう一つ、ヴェデルのために作られた由緒あるデザインは、タデウシュ・グロノフスキによる、戦間期のココア・オートミールの広告だ。ストリイェンスカと同様、グロノフスキも民俗の美学に則り、派手なクジャクで見る者の注意を引いている。一方、シマウマの背に乗り、板チョコを手に持った少年の有名なロゴ(E. ヴェデルの自署のロゴとともに使われた)は、イタリアのポスター画家、レオネット・カッピェロ(Leonetto Cappiello;1875-1942)によって1926年にデザインされた。
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『ヴェデルの贈り物の物語』掲載のヴェデル社のロゴ、1931年。写真:国立ポローナ・デジタルライブラリー
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ヴェデル社には出版物もある。その中には、1931年出版の『Baśń o podarkach Wedla. Książeczka do kolorowania dla grzecznych dzieci(ヴェデルの贈り物の物語――よい子のための塗り絵)』がある。これは著名な作家・詩人であるアルトゥル・オップマン(Artur Oppmann;1867-1931)の詩が添えられた、子どものための塗り絵の本だ。一方、1930年代後半、ヤン・ヴェデルがシュピタルナ通りの本店とサロンの内装を改装しようとしていることが明らかになる。すると人々の間から、この場所には独特でかけがえのない雰囲気があるため、元の姿のまま残すべきだという抗議の声が上がった。そのためヤンは自分の計画を諦め、その代わり、店にまつわる思い出を描く短編小説の文学コンテストを立ち上げた。その結果、1938年に『Staroświecki sklep(古風な店)』という、この店についての短編集が、人気作家・詩人のユリアン・トゥヴィム(Julian Tuwim;1894-1953)の序文とともに出版されることになった。これまた人気の作家、ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィチ(Jarosław Iwaszkiewicz;1894-1990)も物語を書いた一人だ:
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私はいつも、店を出る際に目につく、飾り天井に鎮座する3人の女性像を見上げる時、最も興味をそそられた。私がこの店をこんなに素晴らしいと感じるのは、この善良な魔女たちのおかげだった。彼女たちは私にほほえみ、話しかけてきた:〔…〕「わたしたちは芸術の神、ミューズよ!」
ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィチ「Wspomnienie(追想)」より抜粋、『Staroświecki sklep(古風な店)』所収の短編
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ワルシャワ博物館のコレクションにある、ヴェデルの古風な菓子缶。写真:Adrian Czechowski & Igor Oleś / Muzeum Warszawy
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ヤン・ヴェデルは、従業員の文化の発展にも貢献した。工場では劇団とオーケストラが組織され、500人の観衆を収容できる特別の公演会場まで作られた。労働者たちは工場内の幼稚園や診療所も利用することができ、ヴェデル社の労働条件は良好と見なされていた。
ヤン・ヴェデルの先駆的な取り組みは、ポーランドの産業の発展にとって非常に重要とされ、彼はポーランド復興勲章(Polonia Restituta)を授与されるに至った。
悲しいことに、家族で代々営まれて来たヴェデル社の甘く幸せな物語は、第二次世界大戦の勃発により、苦い結末を迎える。ポーランドを占領したナチス・ドイツ当局が、ドイツ人のためだけにチョコレートを生産するよう、ヤン・ヴェデルに強制したのだ。ヴェデルは工場を動かし続けた。少なくとも仕事を提供することで、従業員や関連する職業の人々を助けることができたからだ。彼は困窮化したアーティストや独立を目指す地下組織を支援し、ナチスによって高等教育機関が全て閉鎖されると、工場内で秘密の教育集会を組織した。
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ワルシャワのシュピタルナ通りのヴェデル本店の前で、2列になって並ぶ人たち、1982年。写真:Edmund Uchymiak / CAF / PAP
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ポーランドとヴェデル社の工場は戦争によって廃墟となった。戦後、ヤン・ヴェデルは事業を再建しようとするが、ソ連の影響下、ポーランドの政権を得た共産主義者たちにより、すぐに追放される。国が主導する共産主義経済に、自由な企業活動の場所はなかった。共産主義国家・ポーランドの設立文書である「7月宣言(Manifest lipcowy)」を記念し、1949年、ヴェデル社の名称は「Zakłady Przemysłu Cukierniczego im. 22 Lipca(7月22日菓子産業工場)」に変更される。この何とも言いがたい社名は、ポーランド人にとってブランドとしての説得力がなく、最終的にE. ヴェデルの署名の古いロゴが製品に復活することになる(多くの製品は古いレシピに従って作られ、今も高く評価されている)。新しい名前の横には、会社の「以前の」名称であることを示す「d.」(dawny)の文字とともに、おなじみのロゴのコピーが表示された。
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ヴェデル・ケーキの飾り付け。写真:Jakub Ostałowski/Forum
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ヤン・ヴェデルは工場を取り戻すことなく、1960年に亡くなった。父親のエミル・ヴェデルの署名は、共産主義政権が存在する間ずっと、名前を変えられた会社のロゴとして用いられた。
新しい社名のもと、1970年代にプウォンスク(Płońsk)〔ワルシャワ中心部から北西およそ66キロメートルに位置する町〕に開かれた新しい工場では、非常に人気のある菓子、デリツェ(Delicje)〔いわゆるジャッファ・ケーキ(Jaffa Cakes)。直径5センチほどの丸いビスキュイ生地にオレンジ、木いちごやチェリー味の薄いゼリーの層を載せ、ミルクチョコレートで上部をコーティング〕が生産された。1989年の体制転換後、会社は晴れて元の名前に戻り、民営化された。
昔ながらのヴェデル本店とワルシャワ工場は今も以前と同じ場所にあり、訪問者に開放されている。さらに重要なのは、この会社の伝統的な菓子が今も販売され、多くの人々の味覚を喜ばせていることだろう。興味深いことに、これらの菓子の時代を超える魅力について、ヴェデルの工場を設計した建築家、ナポレオン・チェルヴィンスキが、1930年代に述べている:
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ポーランドには素晴らしいチョコレートがたくさんあるが、ヴェデルは一つだけだ。
執筆:マレク・ケンパ(Marek Kępa)、2018年11月
日本語訳:柴田恭子(Yasuko Shibata)2024年8月