1945年1月ワルシャワは瓦礫の山だった。その凄まじい光景は複数の写真が記録している。戦前は100万人以上が暮らしていた町がほぼ廃墟と化していた。共産主義政権は首都を別の町に移そうと考えていたほどだった。未来の世代が戦争を忘れないように、記念碑としてワルシャワを廃墟のまま保存しようという案もあった。
破壊
ワルシャワの破壊は、第二次世界大戦中に徐々に進行した。1939年9月には町の建造物の10%が既にダメージを受けていた。1941年ソ連による爆撃が始まると状況はさらに悪化、1943年ワルシャワゲットーが撤去されると、被害は今までにない規模に拡大した。ゲットー蜂起の結果、ワルシャワの北部地区全域が文字通り地上から消滅した。最後にワルシャワ蜂起が起こると、旧市街の大部分、ポヴィシレPowiśle地区、中心部、ヴォラWola地区が壊滅した。蜂起終結後もドイツ軍のVernichtungskommandoとVerbrenungskommando(破壊部隊、火炎放射部隊)による徹底的な破壊活動が1945年の1月半ばまでも続き、町の残った部分も廃墟と化した。
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結果的に1945年の初めにはワルシャワは建築物の約84%を失った。産業インフラと歴史的建造物が90%、住居が72%だった。ワルシャワ蜂起の後、町はほとんど壊滅状態となり、100万人以上だった町の人口は数千までに減った。
ヤルタ会議でスターリンはワルシャワが必要だった
ワルシャワの復興はほぼ不可能に思われた。1945年初め共産主義政権は、建物の被害がほとんどなかったウッチに首都を移そうと考えてさえいた。ワルシャワを戦争記念碑として廃墟のまま保存しようという計画も真剣に議論されていた。
ではどうしてワルシャワは再建されたのだろうか。理由は二つ。一つ目は人の動きだ。1945年1月から、以前の住人だけでなく、家を失った人々が極寒のワルシャワに絶えず流れ込み、自分たちの手で再建を始めていた。そしてもう一つは政治的な理由。ヤルタ会談に備えていたスターリンは、ワルシャワを首都とするポーランドの復興を掲げることで国際的な承認を得ようとしたのだ。1945年2月3日国民評議会Krajowa Radaは首都再建の決議を承認、2月14日には早くも首都復興局Biuro Odbudowy Stolicy (BOS)が組織された。
ワルシャワ1945年:再建
首都復興局の設立により、稀に見る壮大な事業が実行に移された。戦争で破壊された町の建造物の再建をこのような規模でやり遂げようとした例は未だかつてなかった。この決断は当時一般的だった復興の方針とは大いに異なっていた。ドイツ、イギリス、オランダ、フランス、イタリアでも戦争で破壊された数多くの町の復興を急務としていたが、これらの国々では再建するのは選ばれたいくつかの歴史的な建造物だけだった。だからワルシャワではこれらと正反対の戦略を取ったことになる。「Budujemy nowy dom(新しい家を建てる)」の著者イェジ・S・マイェフスキJerzy S. Majewskiとトマシュ・マルキェヴィチTomasz Markiewicz,によれば、この例外的な方策はある人物に依るところが大きいという。
「当時、首都復興局歴史的建造物課の課長だったヤン・ザフファトヴィチJan Zachwatowicz教授は『戦時中にドイツ人によって破壊されたポーランドの歴史建造物である場合、しかもそれがポーランドの首都である場合は、例外的に街全体の再建が妥当だ』と言って、当局および建築家、保存修復家らを説得した。」
ザフファトヴィチを駆り立てていたものは愛国心だった。「国家とその文化的建造物は一体」だと考えていた。しかしこの見解が復興に関わる全員の同意を得ていたわけではなかった。再建作業が続いた1952年までの間、首都復興局は内部抗争が絶えなかった。ザフファトヴィチを中心とする「歴史建造物派zabytkarze」と局長ロマン・ピョトロフスキRoman Piotrowskiと局長代理ユゼフ・シガリンJózef Sigalin率いる「近代化派modernizatorzy」とが激しい論争を続けていたのである。この分裂は政治的見解の違いも反映していた。ザフファトヴィチの派閥は国内軍(AK)地下組織出身の人々で、ピョトロフスキとシガリンは新体制に所属していた。
実際のところ、建造物や記念碑全てを再建するというザフファトヴィチの計画は、一部は記憶に頼り、一部は資料に基づいて実行されることになっていたが、その資料には18世紀のカナレットの素描も含まれており、つまり再建される町の大部分はかつてのワルシャワのレプリカということになるのだった。
ザフファトヴィチが当初計画していた再建の規模は大幅に縮小されることになったが、一方でザフファトヴィチ派の奮闘の甲斐あって、旧市街と王の道Trakt Królewskiの大部分が細部に至るまで復元された。
この他に類を見ない先駆的なワルシャワ復興事業は1980年ユネスコの世界遺産に登録され、世界的に認められた。2011年には首都復興局の史料が、人類の歴史の最重要記録遺産としてユネスコ「世界の記録」に登録された。
社会主義国の首都の建設
歴史的建造物の再建は、もちろんワルシャワの復興事業の一部にすぎない。ワルシャワの人口増加に伴い、新しい都市計画、新しい道路、新しい建物が必要になった。
戦後まもない時期には東西道路Trasa W-Zなどの規模の大きい建設が進められた。東西道路は1949年に完成し、王宮広場の下を通るトンネルが技術的に極めて高い到達点だと考えられた。マリエンシュタットMariensztat地区はワルシャワで戦後最初の住宅地となり、(興味深いことに17世紀の商家風の)住居が記録的な速さで次々と建設された。
復興事業の初期、少なくとも1949年に社会主義リアリズムが公認芸術とされるまでの期間、美的に自由な建築を行うことが可能だった。当時の建築からは驚くくらいモダンな印象を受ける。例えば、コウォKoło地区のワルシャワ集合住宅(Warszawska Spółdzielnia Mieszkaniowa, WSM)は、ヘレナ・シルクス、シモン・シルクス夫妻Helena i Szymon Syrkusowieによる設計で、30年代の機能主義を源流とするデザインだ。モスクワ映画館Kino Moskwaも社会主義リアリズム導入の前に設計されている。社会主義リアリズムは1949年に義務化され、それ以降数年間自由を制限することなる。この時期の典型的な建築はムラヌフMuranów地区の集合住宅(1948 -1953)や文化科学宮殿Pałac Kultury i Nauki(1953-1956)である。
復興事業の第一段階は1952年に終了し、首都復興局は解散されたが、再建作業の多くが60年代にも引き続き行われた。1974年に王宮の再建が終了したように、もっと遅くまで続けられたものもある。
国全体で首都を復興
さて、このような大規模の事業が、戦争で経済が崩壊していたポーランドでどうして可能だったのだろうか。今日ではとても考えられないことだが、復興資金の一部は首都復興社会基金Społeczny Fundusz Odbudowy Stolicy(SFOS)によって集められた国民の寄付によって賄われていた。SFOSは1945年設立、1965年解散。再建資金を集める目的で設置された唯一の国家機関であった。
ワルシャワは実際、社会主義の有名なスローガンの言葉通り、国全体で再建された。寄付金は国全体から、労働力も様々な地域から集まった。多くの人がボランティアとして作業に従事した。この国を挙げての熱心な取り組みは当時のニュース映画に記録されているが、社会主義プロパガンダの作り事などではなかったのだ。国民の熱意が復興を実現したと言って過言ではない。
ワルシャワ再建には社会的な側面もあり、それは多くの人に生きる場所と再出発のチャンスを与えたのだった。社会のあらゆる階層、以前は都市生活から除け者にされていた層もまた参加することができた。
古い建物の取り壊し
新しい社会主義国の首都を建設するためには、しかしながら以前のワルシャワ、正確に言えばその残った部分を取り壊す必要もあった。イェジ・S・マイェフスキとトマシュ・マルキェヴィチによれば、新しいポーランドの首都は模範的な社会主義国の都市になることになっていた。それは土地の国有化と、戦争を耐え抜いた多くの建物を解体することを意味していた。主に取り壊しの対象となったのはカミェニツァkamienicaだった。これは19世紀後半から20世紀初頭にかけて建設された共同住宅で、戦前のワルシャワに特徴的な建物だった。
「首都復興局の緊急整備班Pogotowie budowlane BOS-uは、19世紀の建築物を、既に再建されたものまで含め数十軒解体するという賛否両論の決断を下した。このような決定はしばしば私的所有者が建物に戻って来られないようにするため行われた。」
共産主義政権にとっては、この世紀の変わり目の建造物は典型的なブルジョワの象徴であり、モダニズムの建築家にとっては、労働者階級のための新しい、より良い都市環境を整備するのに邪魔だった。
戦前は数軒の建物を建てられればいい方だった都市計画家や建築家たちは、今や思う存分創造力を発揮して、以前の私有地の区分を気にせず、地区全体の設計を行うことができたのだった。
国有化の長い影
再建の道程とそれを成し遂げた方法は、ある意味大成功だった。しかしやはり問題点もあったことは今日ようやく認識され始めている。復興事業円滑化のため、1945年10月いわゆるビェルト法dekret Bierutaが施行された。この法は戦前ワルシャワと定められていた土地の全てを国有化するものであった。建物は対象外だったが、実際には建物も国有化された。この法がなければ首都再建は不可能だったとする歴史家は多い。
しかしながら、この社会主義の法律は、憲法で定める所有権に違反しており、戦前の所有者およびその相続人からの土地建物返還申立ての根拠となっていることは事実だ。この再私有化の動きは近年拍車がかかり、1990年以降、約3700の土地が戦前の所有者および相続人あるいは法律上の権利の所有者に返還された。しかし、まだ2000件が未決である。この手続きはいくつかの理由で困難が伴うとされている。最大の理由は、この返還要求が多くの場合公共利用に供されている土地や建物に関わっているため、社会機構を脅かすことになるためだ。
ワルシャワの戦後の歴史に深く根付いたこの問題の解決には、まだ長い道程がある。
執筆:Mikołaj Gliński, 2015.02.03
日本語訳:YA,2017.12