以下からあなたの理想の部屋を選んでください。好みにぴったりのポーランドのデザイナーをご紹介します。
- 重厚な布地に、優雅な曲線。壁にはクリムトの『接吻』。私も毛布にくるまって壁紙の柄に溶け込んでしまいたい。
- 壁には伝統工芸の切り絵、テーブルクロスは民族模様、そこに籐籠を置けば完璧。民族調家具の間を行けば、こっそり民族舞踊を踊っちゃう。
- 私はミニマリスト。だから部屋はほとんど空っぽ。いるのは猫のミースと犬のマルセルだけ。
- 豆型テーブルのそばには、円柱状の黄色いアームチェアと木の足付きの簡易本棚。私は有機的な形のオレンジ色のソファに座って「マッドメン」の登場人物について空想中。
- 家具を買う前には、環境と次世代にどんな影響があるかを考える。私の家具は、藁の腰掛けとボール紙のアームチェア。
- リビングには黒のバルセロナBarcelonaと黄色のチューリップTulip。丸いサーリネンSaarinenテーブルの周りには白のイームズEamsが六脚。私は三本足のスタルクStarckでのんびりレモンを絞っている。
- 部屋は適当な家具でいっぱい。でも会話ではちょっと気の利いたことが言いたいし、デザイン好きのかわいい女の子にもてたい。

クラクフ医師会館Towarzystwo Lekarskie w Krakowieの階段の手摺り, 1904, 写真: ミハウ・コルタMichał Korta
ヨーロッパでアール・ヌーヴォーの曲線とウィーン分離派の幾何学模様が大流行していた時代、ポーランドではクラクフが文化の中心となっていた。19世紀末から20世紀初めにかけて、強い求心力を持っていたのはスタニスワフ・ヴィスピャンスキStanisław Wyspiańskiである。ヴィスピャンスキは「若きポーランドMłoda Polska」(視覚芸術、文学、音楽の分野にまたがるポーランドのモダニズム芸術運動, 1890-1918年)を牽引し、文学・絵画・ステンドグラス・家具の分野で創作性を発揮した。このクラクフでスタニスワフ・プシビシェフスキStanisław Przybyszewskiは自らの演劇を発展させ、タデウシュ・ボイ・ジェレンスキTadeusz Boy Żeleńskiはキャバレー「緑の気球Zielony Balonik」のためにナンセンスな諷刺詩を書いた。若きボヘミアンたちは自らの表現方法を探して、保守的な町を揺るがした。ボイは以下のように書いている。
「デカダン!この流行の言葉に、若者がこれほど夢中になった場所は、当時のクラクフの他にはなかった。私の世代の運命はひどいものだった。何を糧に生きればいい?かつては日々の糧であったあのロマン主義はどこへ行った?ポーランドの苦難に愛国心を滾らせることはもうできなかった。「クラクフ派」が歴史の土台を食い荒らしてしまったから。若者にとってクラクフは死ぬほど退屈で、朽木のようなものだった。クラクフ!あのちっちゃな町、どん詰まりの町、生活には閉塞感が漂い、絶望するには十分だが、しかし反抗の気力を起こすには不十分だった町。デカダンスとは、自らの絶望を理念の高みに持ち上げ、その観念の世界の中だけで生きること。¬——他になすすべはなかったのだ。」(ボイ・ジェレンスキ,『Baudelaire(ボードレール)』草稿)

スタニスワフ・ヴィスピャンスキ, クラクフ医師会館のスタンドグラス, 1904, 写真: ミハウ・コルタMichał Korta
当時クラクフでは様々なことが起きていた。地元の手仕事を再評価する理念が展開されたり、ウィリアム・モリスWilliam Morrisの本が何冊か出版されたりした。モリスの理論「Arts&Crafts(アーツ・アンド・クラフツ)」はクラクフのアート界に影響を及ぼした。1901年に創設されたポーランド応用美術協会Towarzystwo Polska Sztuka Stosowanaは美術家、建築家、職人を一つにまとめ、職人の制作を援助することを目指した。当時のクラクフでは複数の芸術潮流が混在していた: アール・ヌーヴォー、ウィーン分離派、アーツ・アンド・クラフツ。スタニフワフ・ヴィスピャンスキのデザインは、ステンドグラス、聖フランシスコ教会の花の内壁装飾、医師会館の家具などがあるが、どれも洗練された線と色で見る者を魅了する。手摺りとシャンデリアには栗の葉のモチーフが使われているが、その有機的な形を幾何学的な形に置き換えて表現されている。

スタニスワフ・ヴィスピャンスキ, 紅茶とコーヒーセット, 製造: Józef Niedźwiecki i Spółka, 約1902, プライベートコレクション, 写真: ミハウ・コルタMichał Korta
ウォヴィチŁowiczの民族衣装の縞々や、孔雀の羽、チュパガ(ciupaga)と呼ばれる山岳民族が使う斧付きの杖は昔からポーランドのデザインの発想の源となってきた。1890年代、ポーランド分割により国家が消滅していた時代、民族スタイルなるものを見つけようとする動きが高まった。ヨーロッパの地図上からポーランド文化が消されようとするのに抗う動きだった。オーストリア領となったガリツィア地方は、他の分割領(ロシア領・プロイセン領)に比べ、自治権をより多く認められていた。そしてこのガリツィアにあったクラクフが中心となって、ポーランド的なるもの、民族スタイルを探そうという理念が展開された。

ゾフィア・ストリイェンスカ, 木製のおもちゃ, 展覧会『ゾフィア・ストリイェンスカ1891 - 1976』からの眺め, クラクフ国立博物館, 写真: Lasyk / Reporter / East News
この理念の発展に大きく貢献したのが、当時のボヘミアン芸術の立役者となったスタニスワフ・ヴィトキェヴィチStanisław Witkiewiczである。幻覚剤を使用して制作することがあり、描いた肖像画には使用した薬物名を記している。タトラ山脈の山岳民族の風習、特にザコパネそのものに心酔していたヴィトキェヴィチは、この地方特有の建物の特徴に基づいて民族スタイルの理念を発展させた。土台部分の高い石垣、急勾配の屋根、木の彫刻といった特徴を家屋の設計や小さな実用品のデザインに適用した。
ザコパネ・スタイルがポーランド民族のスタイルと見なされることはなかったが、しかし郷土性への回帰は1920年代に再燃している。1918年に独立を回復したポーランドはこの時期、再び国家・民族のアイデンティティを探していたのだ。この立場を押し進めたのがクラクフ工房Warsztaty Krakowskieグループの芸術家たちだった。この時は民族的なモチーフをそのまま引用するのではなく、広義の現代性の方向へ舵を切りつつ、創造的な方法で作品に生かそうと努めた。この新しい取り組みが最も成功した例が1925年パリ万国博覧会のポーランド館である。ユゼフ・チャイコフスキJózef Czajkowskiおよびカロル・ストリイェンスキKarol Stryjeński、ゾフィア・ストリイェンスカZofia Stryjeńska夫妻の共作で、アール・デコ、ザコパネ・スタイル、民族芸術を一つに合わせた驚くべき混成体だった。

パリ万国博覧会(現代産業装飾芸術国際博覧会)のポーランド館(ユゼフ・チャイコフスキ設計), ヘンリク・クナHenryk Kunaの彫刻『リズム』, 1925, 写真: ザヘンタ国立美術館の厚意による
民族芸術を作品に取り入れるのは、現代ポーランド・デザインの重要な流行にもなっている。この一番いい例は、MOHO Design(モホ・デザイン)の今や大評判のカーペットだろう。栄えあるレッド・ドット・デザイン賞を最初に受賞したポーランド製品の一つでもある。このカーペットは郷土工芸の切り絵の柄を大きく引き伸ばした形になっており、伝統工芸のモチーフに着想を得ながら、圧縮フェルトをレーザーカットするという新しい技術を応用して作られている。MOHOHEJ!DIA(モホヘイ!ディア)は民族芸術をそのまま写すのではなく、巧みな方法で取り入れ、現代的かつ郷土に根付いた製品となっている。

『Mohohej! DIA』, カーペット, デザイン: マグダレナ・ルビンスカMagdalena Lubińska, ミハウ・コパニシンMichał Kopaniszyn, 写真は作者の厚意による
カタジナ・ヘルマン=ヤニェツKatarzyna Herman-Janiec(Protein Studio)もまた、民族的なモチーフをひと味違った方法で使っている。多機能の『Pleciaki(プレチャキ)』はカゴ・椅子・収納を兼ねる。籐工芸の技術で編まれているが、材料になっているのは新聞紙を丸めた「tutki(トゥトキ)」だ。シートの部分には、色鮮やかなザリピエZalipieペイントの模様があしらわれ、楽しい雰囲気を作り出している。

『Pleciaki(プレチャキ)』, 写真は作者の厚意による
Zako New!(ザコ・ニュー!)チェアはザコパネの伝統を新しい素材の中で再現した。アクリル樹脂製の背もたれと腰掛けの部分に郷土模様が透けて見えるデザインは、儚ささえ感じさせる。She!ランプではさらに一歩踏み込み、郷土伝統を大胆に、そしてユーモラスに引用している。かさの部分はウォヴィチ民族衣装のスカートの縞模様、足の部分はアクリル樹脂でブーツが模られている。

ランプ『She』, 写真は作者の厚意による