ワルシャワを読み解く:町の見どころとシンボル案内
街角に描かれた錨(いかり)、メイン広場の人魚、文化科学宮殿の「ウェディングケーキ」型のシルエット––これらは町中で見られるワルシャワのシンボルだ。でも、見慣れない目には、あまり意味がないものに映るかもしれない。Culture.plでは、ワルシャワを「読み解く」ための、ポーランドの首都の「視覚言語」をご紹介します。
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ポヴィシレ地区の人魚、写真:Dawid Lasociński / Forum
町にそびえ立ち、川を見守り、市バスに描かれ、あらゆるお土産品を彩っている――彼女はシレンカ、ワルシャワの人魚だ。でもどうして、内陸の町であるワルシャワが、その紋章に人魚を選んだのだろうか。
誰も本当のことを知らないときの常として、ワルシャワに人魚がやってきた説明には、多くの物語が語られてきた。町の紋章に初めて人魚が現れるのは1622年だが(1390年に登場した、もっと怪物的な「男・鳥・獅子・牡牛のハイブリッド」の姿から発展したもの)、人魚がヴィスワ川にやってきた物語はさらに昔に遡る。
ある伝説によると、「昔々」、ふたりの人魚が、大西洋からバルト海まで泳いできたという。ひとりはデンマーク海峡でとどまり、今日でもコペンハーゲンの港で会うことができる。もうひとりは(どうやらこちらの方が先見の明があったらしい)、ポーランドの海辺の町グダンスクまで泳ぎ続け、そこからヴィスワ川を辿ってポーランドの中心部まで至った。人魚は現在のワルシャワに着くと、そこを家と定め、川岸で休んだ。彼女が到着してまもなく、地元の漁師たちは、誰かが網を絡ませて、魚を逃していることに気づき始めた。それは生活の糧を失うことであったが、漁師たちは人魚の歌声に魅せられて、彼女を捕まえることはなかった。しかしそれも、裕福な商人が、人魚を見世物にしたら儲かると気づくまでのことだった。商人はヴィスワの人魚を捕らえると、小屋に閉じ込めた。人魚の哀れな鳴き声を聞いた若い農夫が、仲間たちと協力して、彼女を川に返した。人魚は助けてくれたお礼に、彼らが困ったときには必ず助けると約束した。だからワルシャワの人魚は、約束を守って町を防衛するために、剣と盾を構えて武装しているのである。
二つ目の物語も、町の守護者として武装した人魚に焦点を当てているが、由来は異なる。この話によると、「古代」にはグリフォンが町を守っていた。グリフォンは地元の漁師のお供をして、バルト海まで赴くことが多かった。ある時、旅の道中で人魚に出会った。一目惚れした神話的なカップルは、ワルシャワに戻り、幸せに暮らしたのだった――スウェーデンの侵攻により、グリフォンが致命傷を負うまでは。ワルシャワの包囲戦が激化すると、人魚は瀕死の恋人の武器を取って、町の防衛に参加した。ワルシャワの人々は、彼女の功績と犠牲に感謝して、その姿を市の紋章に留めた。
神話的なラブストーリーは苦手という方のために、最後にご紹介する伝説では、人魚はカジミェシュ1世復興公の案内役を務めている。現在のワルシャワである湿原で狩りをしていたところ、道に迷ってしまった王は、方角を知ろうと夜空を見上げた。彼の窮地を察した人魚は、近くの漁師小屋に王を導くために、空に向かって燃える矢を放った。漁師とその娘たち、ワルス(ヴァルス)とサワ(サヴァ)は、王を丁重に迎え入れた。救い主たちに感謝した王は、新しい町「ワルシャワ」を建設し、人魚をその紋章とした。
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ワルシャワネオン博物館の人魚、写真:Krzysztof Zuczkowski / Forum
このように、「昔々」から1811年まで、人魚はワルシャワを見守ってきた。しかし、ロシアによる分割統治下では、ポーランド国家の象徴を根絶するため、ワルシャワの紋章は禁じられた。公式の象徴を自由に掲げることができなくなったワルシャワ市民は、人魚を町中の建築の細部や商標などに取り入れた。1918年、人魚は市の紋章に復活したが、第二次世界大戦後には「編集」された。人魚の王冠が、共産主義国のシンボルには不適当とされ、1990年まで取り除かれたのである。現在、人魚は手に剣を持ち、町を防衛する準備を整えて、自由と繁栄を謳歌するワルシャワを再び見守っている。
人魚は町のあらゆる場所で目にすることができるが(その姿は様々なお土産物にもプリントされている)、特に注目すべきワルシャワの人魚の表象には以下のものがある。
- 旧市街広場の中央にある人魚像。コンスタンティ・ヘゲル(Konstanty Hegel)の作品で、1855年に旧市街広場に設置された。1928年に設置場所が変わり、その後も市内を転々とした後、2000年に元の場所に戻った。2008年以降、オリジナルの彫刻はワルシャワ歴史博物館で保管され、広場にはレプリカが設置されている。
- ポヴィシレ地区(Powiśle)の人魚像。ルドヴィカ・ニチョヴァ(Ludwika Nitschowa)の作品で、1939年4月にヴィスワ川のほとりに建てられた。この人魚は、ワルシャワ蜂起二日目に亡くなった、詩人でスカウト運動にも参加していたクリスティナ・クラヘルスカ(Krystyna Krahelska)がモデルである。
- ネオン博物館の人魚。かつては公共図書館を見守り、冷戦時代を照らした人魚は、現在はネオン博物館で、その輝きを保存されている。
これらは最もよく知られているものだが、ワルシャワには他にもたくさんの人魚が存在し、訪れる人を魅了している。
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写真集『Warszawskie autobusy: Najpiękniejsze fotografie(ワルシャワのバス:最も美しい写真)』より、オストロブラムスカ(Ostrobramska)車庫に停車中のイェルチュ(Jelcz)バス、MZA設備アーカイブ、写真提供:RM出版
ワルシャワの町ではあちこちに「人魚」が見られるため、「町の色」である赤と金は、人魚とそれが描かれた市の紋章が起源なのだと、人々が考えるのも不思議はない。金は人魚の盾と剣、髪の毛の色であり、赤は紋章の地の色だ。金色と赤色は町の至るところにある。とりわけ旗と公共交通機関で目にするだろう。この色自体の歴史はさらに古いが、市旗(上が黄色、下が赤色の横二色旗)は1938年に正式に承認され、現在はポーランドの白と赤の国旗と並んで、町中に掲揚されている。旗の柄にならって金(黄)と赤に塗られた市営バス・トラムの模様も魅力的で目を引く。この配色は、公共交通の黎明期、1904年に、路面馬車が黄と赤に塗られたことに起源を持つ。公共交通はそれから大きな発展を遂げたが、町を走る赤と金のトラムは、かつての時代を偲ばせる。
コトヴィツァ(Kotwica) – 蜂起の錨(いかり)
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ワルシャワ蜂起博物館、写真:Adam Chelstowski / Forum
ワルシャワの町を行けば、特に8月1日の前後には、あちこちでコトヴィツァ(錨)が目に入る。建物の壁の落書き、記念碑や記念物の飾り、Tシャツのプリント、ピンバッジ、一時的なタトゥーなど。しかし、その意味を知らない人にとっては、錨が至るところに現れるのが、奇妙に思えるかもしれない。このコトヴィツァは、ただの錨ではない。ワルシャワ蜂起のシンボルなのだ。過去を記憶することに力を注いでいるこの町で、ワルシャワ蜂起ほど記念・追悼されている出来事もないだろう。1944年8月1日から1944年10月3日まで続いた、ナチスの占領に対するポーランドの戦いは、容赦なく弾圧されたものの、自由を求める国民の献身と、抑圧との戦いで犠牲となる覚悟の象徴として記憶されている。
では、錨はナチスとの戦いとどのような関係があるのだろうか。コトヴィツァは、PとWを組み合わせた記号になっていて、この文字はポーランド国内軍(AK)のワルシャワを奪還する戦いとの関連で、さまざまな意味を持つ。1942年以降、ポーランド地下組織の破壊工作部隊「ヴァヴェル(Wawer)小隊」のメンバーが、「ヴァヴェルの仇を討とう(Pomścimy Wawer)」の頭文字を取った「PW」を使用し始めた。1939年12月26-27日に起きた「ヴァヴェルの虐殺」は、ナチス占領下で起きた最初期のポーランド人虐殺の一つであり、その記憶はワルシャワの抵抗運動の原動力となった。「PW」の意味は、やがて「戦うポーランド(Polska Walcząca)」へと拡大された。
「PW」は抵抗や破壊行為の「サイン」として、町で見られることが増え、1942年にポーランド国内軍は、簡単に印刷できるエンブレムのデザインを募集した。PとWを組み合わせて錨(コトヴィツァ)に見立てたデザインが、アンナ・スモレンスカ(Anna Smoleńska、コードネーム「ハニャ」)より提出され、地下組織のシンボルに選ばれた。スモレンスカは、地下組織で運営されたワルシャワ大学の美術史の学生で、1942年11月に逮捕され、1943年3月にアウシュヴィッツにてわずか23歳で亡くなった。スモレンスカが独立したワルシャワを見ることはなかったが、彼女が作ったシンボルは戦争を生き抜き、現在まで残った。
コトヴィツァはひとたび作られると、ワルシャワ地下組織に広がった。市内の各大隊や編隊はそれぞれ独自のエンブレムを持っていたが、そのほとんどがコトヴィツァを取り入れたものだった。その表象は、抵抗運動の存在を示し、自由を求めるポーランドの戦いが続いていることを確信させた。抵抗のシンボルであり、希望のしるしだった。初期の使用例としては、ポーランド亡命政府の大統領(ヴワディスワフ・ラチュキェヴィチWładyslaw Raczkiewicz)と同首相兼ポーランド軍最高司令官(ヴワディスワフ・シコルスキWładyslaw Sikorski)の守護聖人の日を記念して、占領当局(ドイツ)が発行していた(ポーランド人向けの)プロパガンダ新聞にコトヴィツァがスタンプされたことがある。1944年のワルシャワ蜂起までに、コトヴィツァはさらに「ポーランド軍(Wojsko Polskie)」を意味するようになり、また「ワルシャワ蜂起(Powstanie Warszawskie)」という最も有名な意味を持つようになった。
第二次世界大戦後は、ポーランドの国民感情を高めたり、蜂起を想起させたりするものを嫌った共産主義政権によって、コトヴィツァは禁止された。しかし、使用を制限されたにもかかわらず、コトヴィツァはポーランドの独立運動のシンボルとして存続し、数多くの反共産主義のグループや団体によって使われた。
今日、コトヴィツァはあらゆる場所で見られ、ワルシャワ市民や町を訪れた人々に、町の困難な過去や自由を求める戦いに捧げられた犠牲を思い起こさせている。2014年、ポーランド政府は、コトヴィツァを歴史的な国家遺産として「保護」の対象とする法律を成立させた。このポーランドの不屈の精神と犠牲のシンボルはここに留まるようだ。自由なポーランドを求める闘争に命を捧げた人々の記憶とともに。
文化科学宮殿(PKiN) – 多義的なアイコン
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文化科学宮殿の建設、ワルシャワ、1955年頃、写真:Władysław Sławny, Dom Spotkań z Historią(ポーランド最大の20世紀オーラルヒストリー・アーカイブ)
ワルシャワを訪れたことがある人は、このジョークを聞いたことがあるだろう。誰もが口にするからだ。
「ワルシャワで一番眺めがいいのはどこか知っている?」
「どこ?」
「文化科学宮殿の最上階だよ。そこなら文化科学宮殿が見えないからね。」
2015年の夏に建設60周年を迎えた文化科学宮殿は、ワルシャワを代表する建築物であると同時に、最も議論を呼ぶシンボルでもある。1955年以降、町にそびえ立つこのヨシフ・スターリンからの「贈り物」は30km離れた場所からも見える。ポーランドの共産主義時代を思い起こさせる醜い建造物と捉える人もいれば、建物の歴史とデザインに美と魅力を見出す人もいる。それに、ジョークと同じくらい定番かもしれないが、建物の30階にある展望台は、実際、町を一望できる最高の場所で、人気の市内観光地になっている。文化科学宮殿は現在でもワルシャワ(そしてポーランド)で最も高い超高層建築物だが、建設当時は、焼け野原の町を見下ろすようにそびえ立っていた。ロシアの建築家レフ・ルードネフによって設計され、1952年から1955年にかけて主にソ連の資材と建設者によって建てられた。ルードネフはモスクワ大学の建築も手がけており、両建物は非常によく似ている。「ポーランドとソ連の友好の証」ということ以外、何に使われる建物なのか、誰もわからないまま、建設が始まった。公共の劇場、美術館、カフェといった計画が明らかになると、文化科学宮殿は「人民の宮殿」のモデル、つまり労働者階級のワルシャワ市民が、文化と尊敬を享受できる場所になるものと思われた。それは崇高な理念だったかもしれないが、この民衆への「贈り物」は、戦後のソ連の支配と表裏一体であった。当初から、一義に定まらないアイコンだったのだ。
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夜の文化科学宮殿、ワルシャワ、2015、写真:Andrzej Bogacz / Forum
それから60年が経ち、42階建て3000室のソ連の「贈り物」は、今もワルシャワにある。ソ連よりも25年も長生きしている。1989年以降、様々な団体が取り壊そうとしたが、文化科学宮殿はここに留まるようだ。2007年、この建造物はポーランド文化遺産に登録された。ワルシャワのどこからでも見える建物が、ついに正式に町の「文化遺産」の一部として認められたようである。
「文化遺産」の宣言によって、ワルシャワにおける宮殿の位置づけは「公式」なものとなったが、この建物がいかにワルシャワのシンボルとなっているかは、お土産物屋を覗いてみれば一目瞭然だ。シャツ、帽子、ノート、カードなど、どんなものにも文化科学宮殿のシルエットがプリントされている。あるいは、宮殿の形をしたまな板、宮殿をかたどったペッパーミル、3Dパズル。選択肢には限りがない。そしてこのことは、多くの人にとって文化科学宮殿=ワルシャワであることを証明している。
虹(Tęcza) – 町の未来の象徴?
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ユリア・ヴイチク《虹》、ワルシャワの救世主広場、写真:Adam Stępień / Agencja Gazeta
2012年6月、ワルシャワの現代的な場所、救世主広場(Plac Zbawiciela)の真ん中に、虹が現れた。高さ9メートル、造花で覆われたカラフルなインスタレーションは、たちまち話題になった。文化科学宮殿と同様に、「虹」(ポーランド語でテンチャTęcza)は確かにシンボルだったが、それが何を象徴しているかについては、ワルシャワ市民の意見は分かれていた。
「虹」はアーティストのユリタ・ヴイチク(Julita Wójcik)の作品である。救世主広場はその三つ目の設置場所であり、おそらく最後の場所ではないだろう。最初の場所はヴィグリ(Wigry)で、カマルドリ修道院の壁から虹が出ているような形で設置された。次に、2011年にポーランド初のEU理事会議長国就任を記念して、ブリュッセルの欧州議会前に建てられた。ポーランド議長国の任期終了後、アダム・ミツキェヴィチ・インスティテュートの協力のもと、「虹」はワルシャワに移設された。所長のパヴェウ・ポトロチン(Paweł Potoroczyn)はこう説明した。
「この傑作をスクラップにしてしまうのではなく、適切な場所を見つけて、ワルシャワに置くのがいいと思ったのです。ワルシャワは公共空間にアートを必要としています。道行く人が思わず笑顔になってしまうようなものを。」
「虹」は一部の人々を「思わず笑顔に」したかもしれないが、一方で、一部の人々の怒りをかきたてた。「虹」は複数の襲撃の対象になったのである。放火(および年越しの不正な爆竹)によってほぼ全焼した後、2013年の10月から11月にかけて改修された。ところが、しばらく後のポーランドの独立記念日に、再び放火の被害に遭った。2014年5月に数百人のボランティアによって再び修復され、「虹」はその色とりどりの輝きを取り戻した。2015年末にはアダム・ミツキェヴィチ・インスティテュートと市の間の契約が満了したため、再び新しい設置場所を探さなければならなくなった。
さて、どうしてこのカラフルなインスタレーションは、こんなに注目を集めたのだろうか。作品が何を象徴しているか、また、公共空間にそのようなシンボルがふさわしいかどうか、ワルシャワの人々の間で意見が一致していないからだ。これは神と人との契約の虹なのだろうか?それともLGBT平等を象徴する虹なのだろうか(2015年の平等パレードは、インスタレーションの側を通るルートに変更された)?それともただ美しいだけなのか?作者によれば、
「『虹』は、社会的あるいは政治的に関与しているわけではなく、いかなる意味の押し付けからも自由です。それはただそこにあります。美しいものであるために。」
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救世主広場に立つユリア・ヴイチクの「虹」、写真:アダム・ミツキェヴィチ・インスティテュート
「虹」がワルシャワの永続的なシンボルとして、どのように位置づけられるか(あるいはそもそも位置づけられるか)はまだわからないが、「虹」は不屈で先進的なこの町に、最もふさわしい作品の一つかもしれない。いずれにしても、パヴェウ・ポトロチンは、「虹」がワルシャワに恒久的な影響を与えたと語っている。
「『虹』ができる前と後のワルシャワは、もはや同じ町ではありません。このアート・インスタレーションの周辺で起きたことは、公共空間のアートに関する議論というだけではなく、ポーランドの民主主義についての議論でもあるのです。」
以上が、ワルシャワの5つのシンボルです。これで、この壮大な都市を「読み解く」準備が整いました。過去とのつながりと、未来への展望が見えてきます。
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