ジョゼフ・コンラッド(ユゼフ・テオドル・コンラト・コジェニョフスキ)――ポーランド貴族、イギリスの作家、船乗り。1857年12月3日、ベルディーチウ(現ウクライナ)生、1924年8月3日、イギリスのカンタベリー近郊、オズワルズ没。
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ジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad)は1857年12月3日、アポロ・コジェニョフスキ(Apollo Korzeniowski)とエヴァ(Ewa、旧姓ボブロフスカ Bobrowska)の息子としてベルディチュフ(Berdyczów、現ウクライナのベルディーチウ Berdychiv)に生まれた。両親はともにポーランド人で、地主階級・貴族であるシュラフタ(szlachta)の一員(ポーランドでは、地主階級と貴族を法的に区別しない)〔シュラフタは、当時ポーランドの人口の1割ほどを占めた「士族」とも訳される身分〕。ふたりとも敬虔なローマ・カトリック教信者だった。18世紀末、ロシア、オーストリアとプロイセンによりポーランドの国土が分割されるまで、ウクライナ中部・西部は、多民族国家であるポーランド・リトアニア共和国の一部をなしていた。シュラフタの多くがポーランド人であったのに対し、町人の大部分はユダヤ人、農民の大半がウクライナ人(「ルテニア人」)だった。コンラッドの祖先の定住は、17世紀末であった。
コンラッドの父方の祖父、テオドル・コジェニョフスキ(Teodor Korzeniowski)は、列強による国土分割による政治動乱の中で領地を失い、ロシアの専制に対する1830年の武装蜂起〔11月蜂起〕でポーランド軍の指揮官をつとめた。ひとり娘であるエミリヤ(Emilia)は1864年にロシアに流刑となり、三人の息子のうち、ロベルト(Robert)は1863年の武装蜂起〔1月蜂起〕で殺され、ヒラルィ(Hilary)は同蜂起後にシベリアに送られ、1878年に流刑地で亡くなった。アポロは1820年に生まれ、言語に秀で、文才を有した。サンクト・ペテルブルク大学で学んだ後、領地管理に携わりつつ、風刺喜劇の執筆(検閲を受けながらも、愛国的・民主的な精神のもと、ポーランド領主層の日和見主義と物質主義を批判した)を行う。同時に、イギリス文学(ディケンズとシェイクスピア)、フランス文学(ヴィクトル・ユゴーとアルフレッド・ド・ヴィニー)そしてドイツ文学(ハイネ)作品を翻訳することで生計を立てた。手書きで複写、回覧されていた自身の愛国的・宗教的な詩の中では、抑圧されたウクライナ農民への共感を示し、ポーランド人には、国家独立の大義のため、揺るぎない忠誠心を示すよう訴えた。
ユゼフ・テオドル・コンラト・コジェニョフスキが生まれると、父親のアポロは、息子のために「洗礼の詩」を書いた。
いとしい息子よ、知るがよい
お前には支えてくれる大地や愛
祖国も人々もないことを
母なるポーランドが墓に眠る限
1861年4月、アポロ・コジェニョフスキは、文化雑誌を立ち上げる名目でワルシャワに居を移したが、本来の目的は、ロシア当局に対する地下抵抗活動の組織だった。1861年10月、1863年の地下ポーランド政府の中核を担う秘密結社「運動委員会」を創設する。しかし数日後、アポロはワルシャワ監獄要塞(Cytadela Warszawska)に投獄された。
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ジョゼフ・コンラッド、1915年、写真:Wikimedia
1861年秋にワルシャワにやってきたエヴァ・コジェニョフスカ(Ewa Korzeniowska)と息子たちは、アポロの投獄を目の当たりにする。エヴァも嫌疑をかけられて尋問されるが、拘置所送りは免れた。幼いコンラッドは、投獄され弱っていく父に食糧を届ける祖母によく付き添った。のちに、彼は次のように書いている:「私の子供時代の思い出が始まるのは――わが民族には特徴的なことだが――この〔ワルシャワ〕要塞の中庭だった」。特別軍事法廷の尋問は1862年4月まで続いたが、形式上の裁判が終わる2週間前、ポーランド副王であるロシア将軍によってすでに判決が出されていた。エヴァとアポロ双方とも、情況証拠が提出されたのみだったが、ふたりともロシア北部への「官憲の厳格な監視のもと」での流刑判決を受ける。総督は自らの手で次の言葉を加えている:「道中、一時たりとも休むことは許されない」。彼らが送られたのは、苛酷な気候で知られるヴォログダ(Vologda)だった。
1863年1月、健康を理由にふたりはウクライナ北西部のチェルニーヒウ(Chernihiv)に移ることを許可される。エヴァ・コジェニョフスカは1865年4月、その地で結核のために死去。アポロも重病だったが、1868年1月に流刑を解かれた。息子とともに、オーストリア・ハンガリー帝国内でのポーランド文化の重要な中心地、ルヴフ(Lwów、現ウクライナのリヴィウ)へと出発し、その後ポーランドの古都、クラクフへと移った。コンラッドはまず父に教育を受けたが、1869年5月にアポロが亡くなると、母方の伯父タデウシュ・ボブロフスキ(Tadeusz Bobrowski)が後見人となり、彼の庇護を得た。病弱なコンラッドは学校には通わず、家庭教師による教育を受けた。まずクラクフ、ついでリヴィウで試験に合格する。1874年の秋、彼は――健康上の理由もあって――フランス南部に送られ、海軍でのキャリアを目指す。
当初、コジェニョフスキは、ポーランドを永久に離れることは望まなかった。1883年、父の友人に「可能な時はいつでもポーランドに舵を向けろ」と言われた折には、そうすると請け合っている。しかしロシア臣民、また受刑者の息子として長期間の兵役につかねばならず、ロシア国家からかけられた嫌疑が晴れ、自由の身となったのは、ようやく1899年のことだった。その頃までに、コジェニョフスキはフランスからイギリス商船隊海兵隊に移籍し(1878年)、商船長試験に合格(1886年)していた。同年、彼はイギリス臣民となった。伯父とは連絡を取り続け、1889年と1893年には祖国を訪れているが、コジェニョフスキから伯父宛の手紙はボリシェヴィキ革命〔10月革命。ユリウス暦1917年10月25日、現在のグレゴリオ歴の11月7日、労働者・兵士らの起こした武装蜂起に始まる革命〕の最中に消滅した。一方、ボブロフスキから甥への書簡は現存し、コジェニョフスキの伝記的な資料のもっとも重要な情報源となっている。正式に改名することはなかったが、処女作『オルメイヤーの阿房宮(Almayer's Folly)』(1895)を上梓する際、コジェニョフスキはこれを一年前に亡くなったタデウシュ・ボブロフスキに捧げると同時に、ジョゼフ・コンラッドというペンネームをつける。このことで、コンラッドはポーランドとの彼の最後の個人的なつながりを切ったのだった。
作家としてのキャリアの最初の20年間、コンラッドは、自分の原稿料では質素な生活費さえ賄いきれず、借金の返済に追われた。1914年の夏、ようやくはじめて長い休暇をとり、妻と二人の息子を連れてポーランドを訪れる。第一次世界大戦の勃発時はクラクフに逗留していた。家族で2ヶ月を市内で過ごした後、南下し、タトラ山地へ移動する。クラクフとザコパネへの滞在中、コンラッドは幾人かのポーランド人作家、芸術家や知識人と交流している。これが、祖国への彼の最後の訪問となった。
親しい友人や親類の追想によれば、コンラッドは、常にポーランド人の民族性やポーランド文化の伝統に対して、強い感情的なつながりを持ち続けていた。たとえば、ケント州にある田舎の家で、彼はよく、内輪でショパンの音楽のリサイタルを開いたものだった。
コンラッドの葬儀(1924年8月3日、カンタベリー近郊で死去)に出席した公職の代表者は、ポーランド首相の代理人ひとりのみであった。
アポロ・コジェニョフスキから友人への手紙によると、若き日のコンラッドは熱心な読書家だった。16世紀の偉大な詩人、ヤン・コハノフスキ(Jan Kochanowski)(手紙でも言及されている)の作品をはじめ、ポーランドの古典文学に親しんでいたことは間違いないだろう。ポーランドのロマン主義作家たち(父がその継承者になろうと試みた)の詩、戯曲と小説が、コンラッドの母語での読書の土台をなした可能性も大きい。道徳的・政治的な権威でもある、ポーランド・ロマン主義のもっとも偉大なふたりの詩人の名前をあげて、1914年、彼は次のように言っている:「私はミツキェヴィチとスウォヴァツキを通して〔…〕ポーランド的なるものを、自分の作品へと組みいれた」。
ロマン主義文学を特徴づけるのは、道徳的・民族的な責任感である。忠誠心と裏切り、誇りと恥、義務とそこからの逃避は、よく現れる典型的なテーマだ。個人の道徳の問題は、たいてい共同体への義務という枠の中で語られた。騎士道の影響を強く受けて形作られた道徳的規範は、いかに人並み優れた例外的な人物でも、常に共同体の一員であるという考え方に基礎付けられていた。詩人はこの例外的な個人の典型的な例で、民族に対する特別な義務を負っていた。コンラッドの小説によく現れる主題「疎外から関与へ」は、ポーランドのロマン主義文学、たとえばアダム・ミツキェヴィチ(Adam Mickiewicz)の『パン・タデウシュ物語(Pan Tadeusz)』や『祖霊祭(Dziady)』でよく扱われた、主要なテーマだった。より大衆的な文学形式である「語り(ガヴェンダ gawęda)」は、しばしば主人公のひとりでもあるナレーターによって語られる物語で、コンラッドのナラティヴ(語り)もこれを継承している。
批評家が論ずるように、コンラッドの著作には、ポーランド文化の伝統的な要素に加え、ポーランド文学の個々の作品から採られた主題や、芸術的・言語的なモチーフが存在する。またコンラッドの散文には、ポーランド語そのものの影響も見てとれる。ポロニズム(ポーランド語の単語や言い回しが英語に直訳されて使われる)に加え、時制の間違い、また構文のくずれもよく見受けられる。修辞的で流れるようなリズムは、母語であるポーランド語の話し言葉の影響によるものだろう。
コンラッドのもっとも重要な政治的な発言は、エッセイ「専制政治と戦争(Autocracy and War)」(1905)に見出すことができる。ポーランドをドイツとロシア双方の帝国主義の犠牲者とし、このふたつの国を「共通の罪」の名の下に結び付けた。
『コンラッド自伝――個人的記録(A Personal Record)』(1912)では、ポーランドでの幼少時の経験やもっとも近しい家族を思い起こす、感動的な長い文章が収められている。没後に出版された『Essays of Hearsay(伝え聞いた物語)』収録の「プリンス・ローマン(Prince Roman)」は、1830年11月、自らの「信念に基づいて」ロシアの権力に対して反乱を起こしたポーランド蜂起軍に参加した、ロマン・サングシュコ公(Roman Sanguszko、1800-1881)についての物語だ。捕らえられたのち、シベリアの炭鉱での強制労働の刑を受けた人物でもある。この小説で、コンラッドは、ポーランドについて次のように述べている:
この国は、世界のいかなる国もそう愛されたことがないほどに、愛されることを求める。忘れられることのない死者たちへの悲痛な愛情、そして、われらの誇りと倦怠、われらの歓喜と破滅を前に、脈々と息づくあたたかい理想だけがわれらの胸にともす、どうしようもなく、消えることのない情熱の炎をかきたてながら。
1914年、同郷人との新たな交流に触発され、コンラッドはポーランドとイギリスの大義のための自らの行動計画をメモランダムにしたためる。「Poland Revisited(ポーランド再訪)」(1921年出版の『Notes on Life and Letters(人生と文学についての覚書)』に収録)と題されたエッセイは、コンラッドのポーランドへの旅を描くとともに、ポーランドの将来をロシアの内政とみなすイギリス人の姿勢への落胆が反映されている。2年後、特別にイギリス外務省に宛てられた「Note on the Polish Question(ポーランド問題についての覚書)」(これも『Notes on Life and Letters』に収録)では、大英帝国とフランスの庇護下のポーランド再建を提案した(外相のグレイ卿は「はなはだ不可能。ロシアと西欧列強がポーランドへの影響力を分かち合うことはない」と回答)。
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ジョゼフ・コンラッド、写真:The Granger Collection / Forum
1918年、コンラッドは喜びを噛み締め、安堵、また実現を疑ったことに恥ずかしさを覚えつつ、独立ポーランドの(123年間の国土分割を経た)復活を祝った。そして新生国家への理解と支持を感情的に訴え、またポーランド民族の長きにわたる苦難を思い起こすよう促す「The Crime of Partition(分割という犯罪)」(1919年、これも『Notes on Life and Letters』に収録)を執筆する。1920年、ポーランド軍がソ連の侵攻を受け、生存をかけて戦う中、ポーランド政府融資を支援する電報を打った:
ポーランド人にとって、列強三国の力に対する公然とした闘い、そして圧倒的な抑圧への不屈の抵抗を通して、100年以上にわたり祖先によって守られ、人々の心から消えることなく守られてきた民族としての感情と義務感は、新生ポーランド共和国の独立、尊厳と有用性の再建を切に願い、その協力へと自ら名乗りをあげるのに充分な動機である。
ポーランドの知識人の中には、コンラッドが英語で書くことを選んだため、祖国を裏切ったと非難する者もいた。これは、人々に敬愛された著名なポーランドの女性作家、エリザ・オジェシュコヴァ(Eliza Orzeszkowa)による1899年出版の論文「才能の流出(Emigracja talentów)」にもっともよく表れている。コンラッドはこの非難に心を痛め、1901年、クラクフの司書ユゼフ・コジェニョフスキ(Józef Korzeniowski)(親類ではない)に次のように宣言する。
私は、自分の国籍もポーランドの名字も、どちらも否定しません。〔…〕私がポーランド人であり、「ユゼフ」と「コンラト」が私の洗礼名であることは広く知られています。私は後者を自分の名字として使っていますが、それは、外国人が私の本来の名字を発音できず、歪めないようにとの思いからです。それは耐えがたいことですから。〔…〕ウクライナ出身の小士族が、イギリス人と同じように優れた船乗りとなり、彼らの言語でなにか語ることができると証明したからと言って、私は自分が祖国に対して不誠実であるとは思いません。私は、自分が得るに至った高い評価は、まさにこの観点から理解していますし、しかるべきところに、ただ謝意を示します。
その頃すでに、コンラッドはポーランドで有名になっていた。1897年に彼の作品の初のポーランド語訳『文化果つるところ(An Outcast of the Islands)』がワルシャワの雑誌に出版され、その他の作品の翻訳もあとに続いた。
1914年、ポーランドの記者、マリアン・ドンブロフスキ(Marian Dąbrowski)(のちに20世紀ポーランドのもっとも優れた作家のひとりとなり、コンラッドについてのエッセイ集の著者でもあったマリア・ドンブロフスカ Maria Dąbrowskaの夫)から、初のインタビューを受ける。そして、彼に父親がミツキェヴィチの長編叙事詩『パン・タデウシュ物語』を「1度や2度ならず」読み聞かせ、本人にも朗読させたものだと明かした。一方、自分としてはミツキェヴィチのより短い物語詩「『コンラット・ヴァレンロット(Konrad Wallenrod)』や『グラジーナ(Grażyna)』の方を好みました」と白状する。「その後、スウォヴァツキ(Juliusz Słowacki)の方が好きになりました。なぜ、スウォヴァツキなのか、わかりますか?イレ・ラーム・ドゥ・トゥットゥ・ラ・ポローニュ、リュイ Il est l’ame de toute la Pologne, lui(彼は、全ポーランドの魂そのものだからです)。」
コンラッドがポーランド人作家と読者たちとより親しく交流するようになったのは、1920年以降のことだ。数人の作家や翻訳家と手紙をやりとりし、1921年にはブルーノ・ヴィナヴェル(Bruno Winawer)の喜劇(『Księga Hioba(ヨブ記)』、没後刊行)をポーランド語から英語へと翻訳した。当時のポーランドでもっとも卓越した作家で、知識人の道徳的な権威でもあったステファン・ジェロムスキ(Stefan Żeromski)は、コンラッドの著作集への熱狂的な序言を書き、彼を「わが同胞作家」と呼んでいる。コンラッドは、次の手紙を送り、それに応えた:
ポーランド文学の最高の巨匠、親愛なる貴兄ご自身のお声による、祖国からの名誉ある評価を前に、私は、心の奥底から湧き上がる自分の感情を言い表すのにふさわしい言葉を、見つけることができません!
1920年代と30年代、コンラッドはポーランドで極めて影響力のある作家となり、知識人とともにより広い読者層の人々によって読まれ、議論された。一般人にとりわけ人気があったのは海洋小説だった。彼の人気が頂点に達したのは、現代ポーランド史の最暗黒の時、隣国ドイツとソ連にふたたび侵略された第二次世界大戦期のことだった。コンラッド、特に『ロード・ジム(Lord Jim)』のコンラッドは、ポーランドの地下抵抗軍や市民レジスタンスの若者を導く、道徳的な権威のひとつとなった。
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ジョゼフ・コンラッドと、従姉妹で、彼の作品の大部分をポーランド語へと翻訳したアニェラ・ザグルスカ(Aniela Zagórska)。1914年、写真:パブリック・ドメイン
初のコンラッド作品全集(27巻)は、1972年から1974年にかけてポーランドで刊行される。それに加えて、共産主義政権の検閲を受けて没収された資料を収録したもう1巻が、ロンドンのポーランド亡命政府によって出版された。
コンラッドが生を受けたベルディーチウの病院はもう存在しない。街中の壮大なカルメル派修道院(コンラッドが洗礼を受けた)の敷地内に、小さなジョゼフ・コンラッド博物館が建てられている。1862年にコジェニョフスキ家がアパートを借りていた、ワルシャワ中心部の新世界通り(ul. Nowy Świat)の建物の脇には、作家の記念プレートが掲げられている。コンラッドの父親が投獄されていたワルシャワ要塞の独房は今も存在する。コンラッドが父親と一緒に住んでいたクラクフのポセルスカ通り(ul. Poselska)のアパートや、リヴィウ、またクラクフのフロリアンスカ通り(ul. Floriańska)やシュピタルナ通り(ul. Szpitalna)で彼が下宿した建物もそれぞれ残っている。
ほぼ全てが未発表の、アポロ・コジェニョフスキの原稿を収録した2冊の本は、クラクフのヤギェウォ大学図書館に保管されている。コンラッドにまつわるいくつかの重要な書簡や文書も、クラクフのスワフコフスカ通り(ul. Sławkowska)のポーランド科学アカデミー図書館に収蔵されている。タデウシュ・ボブロフスキからコンラッドへの書簡と、コンラッドによるいくつかのポーランド語の書簡を所有しているのは、クラシンスキ広場(Plac Krasińskich)のワルシャワ国立図書館別館である。ポーランド国外では、ポーランド関連のコンラッドのもっとも重要な手稿と写真は、イェール大学のバイネッケ図書館、デューク大学のパーキンズ図書館、そしてロンドンのポーランド図書館に収蔵されている。
コンラッドの生涯および作品の年表
- 1857年12月3日:ユゼフ・テオドル・コンラット・コジェニョフスキ、ウクライナのベルディーチウで、アポロ・コジェニョフスキとエヴァ(旧姓ボブロフスカ)の息子として生まれる。
- 1861年10月21日:アポロ・コジェニョフスキ、地下愛国活動の容疑を受け、ロシア官憲によりワルシャワで投獄される。
- 1862年5月9日:コジェニョフスキ一家に流刑判決、監視のもとロシア北部へ。
- 1865年4月18日:エヴァ・コジェニョフスカ、結核により死去。
- 1868年1月:アポロ・コジェニョフスキ、重病による刑の減免を受け、息子とともにロシアを離れる。
- 1869年5月23日:アポロ・コジェニョフスキ、クラクフにて死去。
- 1874年9月26日:コンラット・コジェニョフスキ、マルセイユに向けてポーランドを出発。
- 1878年7月11日:初のイギリス船「Skimmer of the Sea(ハサミアジサシ号)」に乗船。
- 1886年8月19日:イギリス臣民となる。
- 1886年11月10日:イギリス商船長試験に合格。
- 1889年6月12日―1890年12月4日:ベルギー領コンゴでの業務に従事。
- 1894年1月17日:船乗りのキャリアを閉じる。
- 1894年4月24日:『オルメイヤーの阿房宮』初稿の脱稿。
- 1895年4月29日:『オルメイヤーの阿房宮(Almayer’s Folly – A Story of an Eastern River)』をロンドンで出版。コジェニョフスキ改め「ジョゼフ・コンラッド」をペンネームとする。
- 1896年3月4日:『文化果つるところ』刊行。
- 1896年3月24日:ジェシー・ジョージ(Jessie George; 1873年2月22日生)と結婚。
- 1897年12月2日:『ナーシサス号の黒人(The Nigger of the ‘Narcissus’: A Tale of the Sea)』刊行。
- 1898年3月26日:『Tales of Unrest(不安の物語)』(「カレイン――ひとつの想い出(Karain)」「The Idiots(白痴)」「文明の前哨地点(An Outpost of Progress)」「帰宅(The Return)」「潟(The Lagoon)」)刊行。
- 1899年2月6日:『闇の奥(Heart of Darkness)』の執筆を終える。
- 1900年10月15日:『ロード・ジム(Lord Jim – A Tale)』刊行。
- 1901年6月26日:フォード・マドックス・ヘファー(Ford Madox Hueffer, のちにフォード・マドックス・フォード Ford Madox Ford)との共著『The Inheritors – An Extravagant Story(相続人たち)』刊行。
- 1902年11月13日:『「青春」ほか二編(Youth and Two Other Stories)』刊行。
- 1903年4月22日:『「台風」その他の物語(Typhoon and Other Stories)』刊行。
- 1903年10月16日:F.M. ヘファーとの共作『Romance – A Novel(ロマンス――ある小説)』刊行。
- 1904年10月14日:『ノストローモ(Nostromo – A Tale of the Seaboard)』刊行。
- 1905年4月22日:「専制政治と戦争」の執筆を終える。
- 1906年10月4日:『海の想い出(The Mirror of the Sea – Memories and Impressions)』刊行。
- 1907年9月12日:『密偵(The Secret Agent – A Simple Tale)』刊行。
- 1908年8月6日:『A Set of Six(六つの物語)』刊行。
- 1911年10月5日:『西欧の眼の下に(Under Western Eyes)』刊行。
- 1912年1月19日:『Some Reminiscences(回想録)』(のちに『個人的記録』にタイトルを変更)刊行。
- 1912年10月14日:『Twixt Land and Sea – Tales(陸と海の間に)』刊行。
- 1913年9月18日:『チャンス――前後二編から成る物語(Chance – A Tale in Two Parts)』刊行。
- 1914年7月25日―11月3日:家族とポーランドを訪問。
- 1915年3月27日:『勝利(Victory – An Island Tale)』刊行。
- 1917年3月19日:『陰影線(The Shadow-Line – A Confession)』刊行。
- 1918年12月27日:「分割という犯罪」執筆を終える。
- 1919年8月6日:『The Arrow of Gold – A Story Between Two Notes(黄金の矢)』刊行。
- 1920年5月21日:1896年に執筆を始めた小説『救助(The Rescue – A Romance of the Shallows)』刊行。
- 1921年2月25日:『人生と文学についての覚書』刊行。
- 1921年6月:ブルーノ・ヴィナヴェルの戯曲『Księga Hioba(ヨブ記)』を英語に翻訳(The Book of Job: A Satirical Comedy)。
- 1923年5月1日―6月2日:アメリカ合衆国に旅行。
- 1923年12月1日:『放浪者(The Rover)』刊行。
- 1924年8月3日:カンタベリー近郊の自宅にて、心臓発作のため死去。
執筆:ズヂスワフ・ナイデル、2006年。編集:ジェイムズ・ホプキン、2010年10月。改訂:2023年11月
日本語訳・編集:柴田恭子、2023年12月