梅田良忠(りょうちゅう)は1900年に東京で生まれた。彼は幼い頃に出家し、長年の修行を経て立身し、禅僧の誓いを立てた。それに加えて、詩を書き、バイオリンを演奏していたが、これは彼の仏門の師にはあまり好まれなかった。曹洞宗大学林〔現駒澤大学〕で学び、そこで優秀な学生としてヨーロッパ留学の奨学金を受け、西洋哲学を学ぶためにベルリンに向かうこととなった。
1934年、ワルシャワ東洋研究所の教授・梅田良忠。写真:ポーランド国立デジタルアーカイブ[Narodowe Archiwum Cyfrowe]
1922年の夏、彼は横浜港を出発した。マルセイユ行きの船上で、梅田はスタニスワフ・ミホフスキ(Stanisław Michowski, 1900-1952)と出会った。ミホフスキは梅田と同年齢で、イルクーツク近郊で生まれ、父親はシベリア鉄道の建設に従事した後、満州や中国の鉄道建設にも関わった。ミホフスキはハルビンで学び、その後上海で働いていた。少し日本語を話すことができ、ポーランドについて梅田に何を話したのかは分からないが、それが梅田の想像力に大きな影響を与えたことは間違いない。おそらく、旅行中にヴァツワフ・ヴィエンチスワフ・ピョトロフスキ(Wacław Wieńczysław Piotrowski, 1880-?)にも出会ったであろう。世界を旅する冒険家であり、作家志望者でもあり、数年間日本に滞在していた人物だ。シベリアからポーランドの子供たちを帰国させるための委員会に関わり、ポーランドと日本の共同雑誌『極東のエコー(Echa Dalekiego Wschodu)』も発行していた。
別れ際、ミホフスキは梅田にワルシャワの友人の住所が書かれたメモを手渡した。その友人宅に滞在する予定だったのである。後に分かったことだが、この出会いが梅田とその子孫のその後の運命に大きな影響を与えたのである。
ヴィスワ川沿いの「江戸」に住むリエチェク
梅田良忠はベルリンには長く滞在せず、すぐにワルシャワのプワフスカ通り(ul. Puławska)のアパートに姿を現した。そこで迎えてくれたのは、すでに知っていたミホフスキ、彼の友人スタニスワフ・マリア・サリンスキ(Stanisław Maria Saliński, 1902―1969,彼も幼少期を極東で過ごした)、そしてサリンスキの母親ユリアであった。梅田は再びベルリンに戻ることはなく、1939年9月までワルシャワに留まった。彼の友人たちは彼を「リエチェク(Ryjeczek)」と呼ぶようになった。
梅田良忠が数ヶ月のワルシャワ滞在後に感じたことを親戚に綴った手紙に次のように書かれている:
今この波蘭(ポーランド)は欧州の最〔東〕端にて、露西亜は全々〔ママ〕入国不可能にて、この国には日本人はわずか八人にて候此のワルソウ(ワルシャワ)市は全く、他のベルリンあたりよりも古く且つ昔の江戸の如く中心を江戸城に置き、その周囲を波紋の如く発達し出来たる市にて、始の一二ヶ月は全々〔ママ〕市の構造不可解に候が、追々歩き回るに従い街の古代的価値、会堂の立派な調和を知るを得可く、又、一会堂が全市とどんな関係に建てられたかと云う事をも余得するに至り、この市は実に他の市に見られぬ古典的荘厳さをもて居るを知るに至る可く候
(梅原季哉『ポーランドに殉じた禅僧 梅田良忠』平凡社, 2014, 42-43頁)
1934年、ワルシャワ東洋研究所の教授・梅田良忠。写真:ポーランド国立デジタルアーカイブ[Narodowe Archiwum Cyfrowe]
梅田はワルシャワ大学で学び、タデウシュ・ジェリンスキ(Tadeusz Zieliński, 1859-1944)教授の指導の下、古代ギリシャとローマの哲学を学んだ。サリンスキとミホフスキとともに、トヴァロヴァ通り(ul. Towarowa)のアパートに共同生活を始めた。そこは労働者階級の地区であるヴォラ(Wola)の中心部に位置し、名高いケルツェラク(Kercelak)市場のすぐ近くであった。そこで彼らは隣に住む学生と親しくなった。その詩を書く学生の名前はコンスタンティ・イルデフォンス・ガウチンスキ(Konstanty Ildefons Gałczyński, 1905-1953)であった。まもなく、梅田の社交的な輪には、文学グループ「クファドリガ(Kwadryga)」に関連した人物たちが加わった。その中には、カタストロフィズム詩人ヴワディスワフ・セビワ(Władysław Sebyła, 1902-1941)もいた。戦間期のボヘミアンの代表としての物語にふさわしく、梅田に関しては、賑やかな酒宴や情熱的な恋愛の逸話が欠かせない。
梅田はポーランドで音楽への情熱も深めた。ヴァイオリンのレッスンはパヴェウ・コハンスキ(Paweł Kochański, 1887-1934)から、ピアノはステファン・キシェレフスキ(Stefan Kisielewski, 1911-1991)から受けた。また、ポーランドの作曲家ヤン・マクラキェヴィチ(Jan Maklakiewicz, 1899-1954)の『四つの日本の歌(Cztery pieśni japońskie)』(1930)の制作にも貢献した。この作品はワルシャワ大劇場のプリマドンナ、ヴァンダ・ヴェルミンスカ(Wanda Wermińska, 1900-1988)のために作曲され、梅田はその日本語の歌詞を担当し、その後マリア・ヴォジンスカ(Maria Wodzińska)によってポーランド語に翻訳された。作曲に先立ち、梅田は日本の音楽をマクラキェヴィチに紹介するため、伝統的なメロディをヴァイオリンで演奏し、東京から取り寄せたレコードを再生して聞かせた。
問題は、奨学金の支給が終わったときに始まった。その後、彼は当時のワルシャワ郊外〔現在のモコトゥフ地区(Mokotów)〕で、現在のヴィラノフスカ通り(al. Wilanowska)沿いにある、廃墟となった「ベル・ヴュー(Belle-Vue)」という宿屋の塔に住み始めた。ガウチンスキが「イエロー・イン(Yellow Inn)」「黄色い旅籠(Żółta Karczma)」と呼んでいたこの場所で、彼は番人として働き、飼い犬のグレイハウンドの群れの世話をしていた。これは、ヴィラヌフ(Wilanów)の土地の所有者であるアダム・ブラニツキ伯爵(hrabia Adam Branicki, 1892-1947)が、猟犬の飼育協会にこの場所を貸し出していたためである。梅田はしかし、その後安定した職に就き、ワルシャワでの生活が次第に落ち着きを見せるようになった。彼はワルシャワ大学の初代日本語講師となり、その後、プロメテウス運動(20世紀初頭に展開された、ソビエト連邦の支配に抵抗する東欧の民族解放運動)の重要な研究機関である東洋学研究所で教鞭を取った。梅田の教え子には、ワルシャワ大学の教授となり、ワルシャワ日本学の創設者であるヴィエスワフ・コタンスキ(Wiesław Kotański, 1915-2005)や、古典的な日本の詩の優れた翻訳者であるカミル・セイフリド(Kamil Seyfried, 1908-1982)も含まれている。戦争が勃発する直前、梅田はサリンスキとともに現代日本詩のアンソロジーの編纂に取り組んでいた。
1939年9月、彼は日本の外交官たちとともにブルガリアへ避難した(あるいは避難させられたと言われており、強制的に行動を起こさせられたらしい)。ソフィアでは大使館で働き、その後、朝日新聞のバルカン半島特派員となった。戦争の終息が近づくと、彼は日本の大使館とともに母国へ帰国した。しかし、日本は降伏前夜、軍国主義と攻撃的なナショナリズムに支配され、彼がほぼ25年前に知っていた国とはすっかり異なっていた。戦後、彼は千葉県の茂原市近くの村の寺院の管理人となり、その後、再び学問の道に戻った。彼は従妹の樋口久代と結婚し、二人の息子、芳穂(よしほ)と尚史(なおふみ)をもうけた。