ワルシャワ大学で法学、パリで哲学と経済を学ぶ。1933年、ユーモアに溢れ大衆文学形式に遊んで、評論家に全く理解されなかった『成長期の手記Pamiętnik z okresu dojrzewania』を出版。
4年後、ゴンブロヴィチの初の小説『フェルディドゥルケFerdydurke』が出版される。そこには、作者が後の作品でも継続して扱うテーマが既にしっかりと現れている。それは、未熟さと若さの問題であり、他に対して人間が被っている仮面「ツラ」であり、とりわけポーランド的な、シュラフタ(貴族)的な、カトリック的な、弱小シュラフタ(貴族)的な社会や文化の抑圧についての考察である。『フェルディドゥルケFerdydurke』は評論家の激しい反応に会い、読者を信奉者と敵に二分した。この本を評価した中にはブルノ・シュルツBruno Schulzやゾフィア・ナウコフスカZofia Nałkowskaがいた。
「随分前から我々の文学は、ヴィトルド・ゴンブロヴィチの小説『フェルディドゥルケ』ほどの衝撃的、爆発的現象から遠ざかっていた。われわれは、非凡な執筆才能の主張と、新しい革命的な小説の形式と手法と、根本的な発見と、精神的表出の新たな分野、今まで無責任な冗談や言葉遊びやノンセンスだけがのさばっていた支配もされなければ誰のものでもない分野の併合に立ち会っているのである」とブルノ・シュルツは書評を書いた。
1938年、ゴンブロヴィチの初の戯曲、個人を締め付け逃れることを許さない肥大化する形式と慣習と儀典についての奇怪な『ブルグントの公女イヴォナIwona księżniczka Burgunda』が出た。しかし反響はなかった。
第2次世界大戦勃発一ヶ月前、ゴンブロヴィチはアルゼンチンへ向かう大洋航路船に乗り込んだ。戦中期は、意識的に亡命を選び、アルゼンチンの閉鎖的なポーランド移民社会にいらつき嘲ったものの、南米で過ごした。彼の戦前の著作は国内で忘れ去られ、国外では長く評価が得られなかった。ヤン・コトJan Kottが「ジェチポスポリタRzeczpospolita」誌で
「ゴンブロヴィチは長年、アルゼンチン亡命のほぼ最後まで困窮の果ての暮らしをしていた。ブエノスアイレスの太守的な喫茶に自分のテーブルを持って、まだ1人も作家になっていない若い友人たちとチェスをしていた。1ページ1ページ、1文1文、「フェルディドゥルケ」をスペイン語に訳していた。アルゼンチンへ出国以来、ポーランドでは1冊も彼の本が出版されていなかった。「ブルグントの公女イヴォナ」は一度も上演されていなかった。彼の名が世界で脚光を浴び始めるまでには長い年月が過ぎた。」
1950年代半ばになってやっとゴンブロヴィチの処女作の再版が出、1946年にアルゼンチンで書いた戯曲『結婚Ślub』が出され、そのフランス版が出版された。
「この戯曲は奇怪ではあるが、中欧各国とロシアにおいて様々な形で存在した事象、ゴンブロヴィチの貴族的キリスト教的視点で露わにされた出来事の正確な同一的置換である。(中略)この奇怪さが2作(『イヴォナ』『結婚』)に共通するというなら、『結婚』では明らかに夢幻症的になったと言えよう。1935年においては、ゴンブロヴィチは彼自身もその中で生き、そして所属している社会に対して、舞台で生きろと命ずる。一方、1946年は、彼によると歴史の解除に至らせた歴史的過程を、距離を置いて再現するのだ」と、ルツィアン・ゴルドマンLucien Goldmannは『結婚』と『イヴォナ』を比較する。」
1960年代、ゴンブロヴィチは国際的な人気を得る。当時、パリで小説2作『ポルノグラフィアPornografia』と『コスモスKosmos』、そして、多くの文学研究者によって彼の最高作と評される『日記Dzienniki』が出版された。20世紀の歴史と革命についての奇怪な文章である『オペレッタOperetka』も出された。
「どうしてオペレッタなのか?世間に認められているような演劇人なら、ほぼ誰しもがこの陽気で馬鹿げた儀式をやってる劇場なぞ覗きもしないのに、なんでゴンブロヴィチには現代劇に結びついたのか?僕が思うに、オペレッタは(略)一番因習に囚われた演劇形態だからだ。あんなにジェスチャーがわずかなのも、あんなに大胆に紋切り型がのさばっているのも、他にはないからだ。」とヤン・ブウォンスキJan Błońskiは考察する。
当時、ゴンブロヴィチの戯曲は外国で受け入れられていったが、ポーランド国内では厳しい状態だった。そしてこのころに、ゴンブロヴィチはヨーロッパに移ってくる。まずは西ベルリンに1年間の奨学金で、のちには南仏に移り住み、そこで最期を迎え葬られている。
ゴンブロヴィチは、たとえばその哲学、文章の構成方法、そして言葉の持つ強い力のどれをとっても、文学史上突出した作家と言える。果敢にポーランドの伝統と歴史と対決するが、それは単に、その伝統と歴史に根付いていると同時に普遍的な文章創作の出発点にすぎない。
「ゴンブロヴィチは、どんなことがあっても、どんな人にだろうが神にだろうが社会にだろうが教義にだろうが、自分を投げ出さない、自分の創造力と独創性を放棄しない、1人の作家であり、1人の人間であり続けた。そして、自分の文化に負けることも、自らが出てきた土壌の凡庸さと手打ちをすることも決してしたくなかったのだということも、付け加えておくべきでしょう」(ヤン・ブウォンスキ、『ゴンブロヴィチについてO Gombrowiczu』、『ゴンブロヴィチと評論家Gombrowicz i krytycy』より)
「ゴンブロヴィチの作品は数十年単位で測れるものではない。ポーランド散文学の記念碑であり、パセクPasekもシェンキェヴィチSienkiewiczも入っている全体の一角をなす。彼の死後30年経っても、彼が父の国という観念の代わりに息子の国という観念を取り入れようと闘ったポーランドが、今どうなっているのか、それしか問いかけてはならない。はたしてあのままなのか、あれに似たものなのか、それとも全く違うのか?その問いに、おそらく答えはない。近年ポーランドの文学作品中に『現存在W jestestwie swoim』は出現していないわけなのだから。」(チェスワフ・ミウォシュ)