ワイダが見出した日本――アンジェイ・ワイダ作品のインスピレーション
世界各国の観客や批評家にとって、アンジェイ・ワイダは、ポーランド文化とポーランド国民のアイデンティティを体現する20世紀の映画人である。60年にわたる非常に多産な経歴において、ワイダの多くの映画作品・舞台作品の着想元となったのは、ポーランドの過去と現在だった。2009年、イギリスの月刊誌『Sight and Sound』〔英国映画協会が発行する映画雑誌〕に掲載されたワイダ監督とのインタビューへの序言で、マイケル・ブルックは次のように述べている:「ワイダによる第二次世界大戦の三部作〔『世代』(1955)、『地下水道』(1957)と『灰とダイヤモンド』(1958)〕によって彼の作品とポーランド映画に国際的な名声がもたらされた1950年代から、ポーランドの「連帯」運動が大きな政治変動を引き起こし、世界の注目を集めた1980年代初頭に至るまで、ワイダは『Sight and Sound』の常連だった」。
マイケル・ブルック(Michael Brooke)の言葉が示すように、アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda; 1926-2016)は当初から、当時のヨーロッパ芸術映画の美学にに合致する形式的なアプローチを用いて、現代ポーランド史の激動の現実を映画に作り上げることに長けた監督として、世界から賞賛を得ていた。ワイダ自身、イギリスの映画監督・批評家リンゼイ・アンダーソン(Lindsay Anderson)による『世代(Pokolenie)』への好意的な批評が、国際的な名声を獲得するのに重要だったと述べている。この名声は1957年のカンヌ映画祭で『地下水道(Kanał)』が審査員特別賞を受賞し、1959年に『灰とダイヤモンド(Popiół i diament)』が国際批評家連盟賞と英国アカデミー賞にノミネートされたことで、さらに高まることになる。1990年、ワイダはフェデリコ・フェリーニとイングマール・ベルイマンに続く3人目の監督として、ヨーロッパ映画アカデミーから名誉ある生涯功労賞を受賞した。
「検閲の背後で観客と意思疎通をとる」ことができる作品を作ろうと心血を注いだワイダの映画作品、そしてワイダが性格づけることになったポーランド映画自体が、世界各国の観客にとり、ポーランドの現実を垣間見るための「窓」だった。これは、映画という媒体には文化の違いを超え、異なる文化をつなげる力があるという感覚を、ワイダ監督が常に持ち続けていたためだ。彼は「映像は映画の最も本質的な要素であり、国際的な言語である」と言っていた。
アンジェイ・ワイダ監督『地下水道』(1956)のスチール、写真: DPA/PAP
ワイダが真に「ポーランド的な」芸術家であるという認識は、その後の数十年のうちに確立された。共産主義体制下(1945-1989)の個人と国家の対峙を描いた、独創的な『大理石の男(Człowiek z marmuru)』(1977)と『鉄の男(Człowiek z żelaza)』(1981)を除けば、最も脚光を浴びたワイダの映画・舞台作品の多くは、ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィチ(Jarosław Iwaszkiewicz; 1894-1980)の『白樺の林(Brzezina)』(1970)や『ヴィルコの娘たち(Panny z Wilka)』(1979)、スタニスワフ・ヴィスピャンスキ(Stanisław Wyspiański; 1869-1907)の『婚礼(Wesele)』(1973)、ヴワディスワフ・レイモント(Władysław Reymont; 1867-1925)の『約束の地(Ziemia obiecana)』(1975)など、ポーランド文学や演劇の名作を翻案したものである。一方、共産主義体制の終焉直後に作られたワイダ作品(大多数は、当局による検閲のためそれまで実現できなかったプロジェクトだった)は、国内の観客からよい反応を得られず、国外での評価はさらに低かった。ワイダがポーランドの映画ファンから再び大きな支持と好意的な評価を得たのは、「詩聖」として敬愛されるロマン主義詩人、アダム・ミツキェヴィチ(Adam Mickiewicz; 1798-1855)の傑作を「遺産」として残すべく翻案した、『パン・タデウシュ(Pan Tadeusz)』(1999)だった。映画研究者タデウシュ・ミチュカ(Tadeusz Miczka)が言うように、20世紀を代表するポーランド映画人、ワイダが「最も近しく感じるロマン主義の伝統」に従い、19世紀の国民的叙事詩を翻案することは、ワイダ自身にとって必然であり、たまらなく魅力的なことだった。
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映画『パン・タデウシュ』撮影現場のアンジェイ・ワイダ、1998年、写真:Cezary Pecold / Forum
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ワイダは、ロマン・ポランスキ(Roman Polański; 1933- )、イェジー・スコリモフスキ(Jerzy Skolimowski; 1938- )、アグニェシュカ・ホラント(Agnieszka Holland; 1948- )やアンジェイ・ジュワフスキ(Andrzej Żuławski; 1940-2016)など、他の著名なポーランド人監督とは異なり、西側で長期間の亡命生活を送ることはなく、ポーランドにとどまることを選んだ。もちろん、外国での映画制作や舞台演出も手がけ、さまざまな俳優との協力を重ねた独自の功績もある。名声を得る前の若きメリル・ストリープ(Meryl Streep; 1949- )とは、ドストエフスキーの小説をカミュが戯曲にした『悪霊(The Possessed)』(1974)をイェール・レパートリー・シアター(Yale Repertory Theatre)で上演し、イギリスの大御所俳優、ジョン・ギールグッド(John Gielgud; 1904-2000)〔高祖父はポーランド貴族(シュラフタ)の一族でイギリスに移住したJan Giełgud(1795-1877)。現リトアニア南西部ゲルガウディシュキス(Gelgaudiškis)に領地を有したが、ロシア帝国の支配に抵抗し11月蜂起(1830-1831)に参加したため没収された〕とは、映画『ザ・コンダクター(Dyrygent)』(1979)を制作している。ギールグッドは、結果にはあまり満足していなかったものの、『ザ・コンダクター』の制作に携わった経験を出版された日記の中で懐かしげに回想し、ワイダを「素晴しい名匠」と称えると共に、ポーランド人スタッフを「慰めや贅沢が何もなく、ありとあらゆる暗い逼迫をかかえた状況にもかかわらず、果敢に仕事をし、楽観的だった」と称賛している。
アンジェイ・ワイダ演出、ジグムント・コニェチュニ音楽による舞台『悪霊』でのクリストファー・ロイドとメリル・ストリープ、1974年、イェール・レパートリー・シアター( Yale Repertory Theatre)、ニューヘイブン、アメリカ、写真: T. Charles Erikson/Yale Manuscripts and Archives
しかしワイダにとって、国外への進出は自らが常に望んだものではなかった。最もよく知られた彼の「外国」映画、フランス革命の恐怖政治をテーマにした『ダントン(Danton)』(1983)は、スタニスワヴァ・プシビシェフスカ(Stanisława Przybyszewska; 1901-1935)による1929年の戯曲『Sprawa Dantona(ダントン事件)』の翻案で、ワイダは1975年に舞台を演出している。映画も当初はポーランドで制作される予定だったが、ポーランドで戒厳令〔1981年12月13日〜1983年7月22日〕が敷かれたため、フランスに制作拠点を移さなければならなかった。『ダントン』はまさに現代ポーランドの文脈を強調する、寓意的な方法で熱心に解釈された(一例として、米紙『ワシントン・ポスト』1983年3月13日付の記事「Danton and Polish Politics(ダントンとポーランド政治)」を参照)。ワイダ自身は否定したが、映画の主人公たちは、戒厳令で非合法化された「連帯」運動を率いるレフ・ワレサ(Lech Wałęsa)と、共産主義政権の最高指導者であったヴォイチェフ・ヤルゼルスキ(Wojciech Jaruzelski)の代役と見なされたのだ。
アンジェイ・ワイダ監督『ダントン』のジェラール·ドパルデューとアンゲラ・ヴィンクラー、1982年、写真:Entertainment Pictures/ Forum
ワイダの国際的な名声にとって決定的な瞬間となったのは、1980年代、亡命中のアレクサンデル・ソルジェニーツィン(Александр Солженицын; 1918-2008)からアメリカでの共同プロジェクトへの招待が来た時だった。ヨーロッパのアートシアター映画に携わりながら、ワイダはアメリカ映画に対しても敵意は抱いていなかった。オーソン・ウェルズから幾度もインスピレーションを得ていたし、マーティン・スコルセッシやスティーヴン・スピルバーグを熱烈に賞賛した。晩年の2008年になっても、ヨーロッパの映画制作者たちが「自分たちの要求に応じて観客が笑い、泣いてくれる映画のストーリーをどう作るかについて、アメリカから学んでこなかった」ことを嘆いている。
しかし、ワイダはこのようなプロジェクトを実現するには、長期間アメリカに移住しなければならず、戻ってくるのも容易でないと認識していたため、ソルジェニーツィンの申し出を熟考した上で招待を断り、ポーランドにとどまることを選んだ。
これらすべてから、ワイダがほぼ完全に専念していたのはポーランド的なるもので、彼がほぼ完全にポーランドによって定義される人物であったという、一種独特の像が浮かび上がってくる。けれどもより深く見ていくと、このような見方が間違っていることがすぐに明らかになるだろう。ワイダの第一の関心は、祖国の歴史や現状をドラマとして描き出すことにあったかもしれないが、それはポーランドの国境を超えた文化との関わりを妨げるものではなかった。実際、ワイダ監督の妻で映画制作の協力者、舞台美術・衣装デザイナーのクリスティナ・ザフヴァトヴィチ=ワイダ(Krystyna Zachwatowicz-Wajda; 1930- )の言葉を借りれば、ワイダは「何よりもまず、世界に強い関心を抱いている人物」だった。最近出版されたワイダのノート・スケッチ集『Notesy: 1942-2016(ノート――1942年〜2016年)』(2024)にも、世界情勢、映画制作者、俳優やアーティストなど、幅広い分野にわたってワイダが記した多くの省察が収められ、このことを完全に裏付けている。
ワイダに特別な影響を与えた文化を育んだ国は、日本だった。ワイダと日本文化のつながりが最初に生まれたのはかなり意外な時期、第二次世界大戦中のことだった。ドイツ占領下の1944年、国内軍〔Armia Krajowa; ナチスドイツ占領軍への抵抗運動を繰り広げた組織〕の一員という「悪い書類」を持つ身分でありながら、ワイダはクラクフ旧市街広場の織物会館(Sukiennice)で開催された日本の浮世絵の展覧会を訪れた。これらの作品は、有名な美術評論家・蒐集家・美術商、そして芸術家の後援者であったフェリクス・ヤシェンスキ(Feliks Jasieński; 1861-1929)の個人コレクションから1920年に寄贈されたもので、当時すでにクラクフ国立美術館が所蔵していた。
ウッチ映画大学に入学する前に絵画を学んでいたワイダにとり、この展覧会での経験は極めて意義深いものだった。展示されていた浮世絵師たちの作品はワイダを興奮させ、予期せずして、生が凝縮され感受性の強い時期に彼の創造意欲を覚醒させ、新しい芸術の地平を切り拓いた。ワイダはのちにこう回想している:「それはドイツ占領下、私にとって最も困難な時期でした。けれども、この展覧会は……。そう、私はこれほどの明るさ、光、秩序、そして調和の感性を目にしたことはありませんでした」。
アンジェイ・ワイダ監督『灰とダイヤモンド』のスチール、1958年、写真:Polfilm / East News
ワイダが日本を初めて訪れたのは、この出会いから26年後のことである。1970年に大阪万博でポーランド文化を紹介するために来日したワイダはすぐ、彼が日本に対して抱いていた敬意が日本側から彼に対しても向けられ、相互のものであることに気づいた。『灰とダイヤモンド』〔日本公開は1959年7月〕でズビグニェフ・ツィブルスキ(Zbigniew Cybulski; 1927-1967)演ずる主人公、マチェク・ヘウミツキ(Maciek Chełmicki)の象徴的な「ルックス」がこの映画のファンに真似されるほど、ワイダの作品は日本において広く鑑賞され、高い評価を得ていた。ザフヴァトヴィチ=ワイダによれば、葛藤を抱えた主人公マチェクは、記憶に残るツィブルスキの名演技によって日本の観客に深い反響を呼び起こし、「大義のために死ぬ、誇り高い男」と理解されていた。
ワイダは日本人の「性格」を賞賛した。ロマンチックに聞こえるかもしれないが、これは偽りのない、彼の正直な気持ちだった。ずっと後になって彼はこう言っている。「日本で、私は自分の心に最も近しい人々に出会いました。私が生涯を通して身につけようと努めてきたすべての特性、つまり真剣さ、責任感と名誉を重んずる心、そして伝統へのこだわりを、日本の人々は有していました」。
1970年に初めて旅をして以来、ワイダは1980年から1996年の間に、日本をさらに6回訪れている。常にたくさんのメモをとり、多くのスケッチをして、友情や創造的な協力関係を築き、この国とのつながりを深めていった。そのような関係を築き上げた人物の一人が、歌舞伎の名女形、5代目坂東玉三郎である。京都の劇場の外に掲げられていたポスターを目にした瞬間、ワイダはその姿に心を奪われた。玉三郎は多様なジャンルで国際的に活躍する役者で、演技で観客を魅了することで知られていた。
坂東玉三郎、東京、1990年、 写真: Yves Gellie/AKG Images/Forum
『椿姫』(1980)で玉三郎を見たワイダも同様にとりこになり、特別なコラボレーションを念頭に、彼に接近した。これが、ドストエフスキーの『白痴』最終章をワイダが翻案した戯曲『ナスターシャ(Nastazja)』(1989)の上演へとつながる。ワイダはこの劇をまず『ナスターシャ・フィリポヴナ(Nastazja Filipowna)』として、1977年にクラクフで上演していた。日本の歌舞伎に着想を得た舞台作品で、イェジー・ラジヴィウォヴィチ(Jerzy Radziwiłowicz)とヤン・ノヴィツキ(Jan Nowicki)を主演に据え、当時としては非常に実験的な試みだった。しかし新たなプロジェクトでのワイダの構想は、玉三郎がムイシュキン侯爵とナスターシャ、双方の役を一人で演ずるというものであった。
坂東玉三郎主演『ナスターシャ』アンジェイ·ワイダ監督、日本·ポーランド製作、H.I.T.、SAY-TO WORKSHOP Inc.、TV Tokyo、 Heritage Films、写真: https://wajda.pl
玉三郎は男性役も演ずることに最初は気が進まない様子だったが、最終的には同意する。1989年、『ナスターシャ』はまず東京、続いて大阪で上演され、大好評を博した。ワイダはこの時のリハーサルを「美しく、魅惑的な」プロセス、玉三郎とのコラボレーションを「この上ない喜びだ……彼のような俳優は他にいない」と評し、玉三郎が男性から女性の役へと切り替わる時、「演劇の真髄、他の媒体では作り出すことのできない性質」について、何か深いものが明らかにされたと述べている。そう言いながらもワイダはこの作品の映画化を決め、1994年、ワイダと玉三郎は、撮影のためにワルシャワで再会している。映画版『ナスターシャ』(1994)は日本以外では多少の困惑とともに受け止められたが、比類なき創造的パートナーシップの重要な記録であるのみでなく、日本文化、ポーランド文化とロシア文化を魅力的な方法で融合した作品と位置付けられている。
ワイダの訪日の中で間違いなく最も重要であったのは、1987年、映画・演劇における功績により、栄誉ある「京都賞」を授与された時だった。ワイダは賞金の全額を寄付に充て、京都・クラクフ基金を設立した。その目的は、若き日の自分に大きなインスピレーションを与えたフェリクス・ヤシェンスキ・コレクションの作品を適切に保管し、展示することができる建物を、クラクフに建設することだった。
明仁天皇、美智子皇后とアンジェイ·ワイダ、クラクフの日本美術技術博物館“Manggha” にて、2002年、写真: Anna Kaczmarz/記者/East News
この夢のプロジェクトは、共産主義政権が崩壊するまで実現できなかった。1986年-1989年のポーランド文化大臣、アレクサンデル・クラフチュク(Aleksander Krawczuk)が、賞金は代わりに、国立美術館の新しい空調システムの資金にしたらどうかと提案したことを、ザフヴァトヴィチ=ワイダが皮肉を込めて回想している。しかし、東京の有名なアートシアター、岩波ホール(2022年9月閉館)館長を長年務めた高野悦子を始め、多くの人々によるたゆまぬ運動の助けもあり、1994年、ついにクラクフで、ヴィスワ川のほとり、ちょうど川が曲がる部分の内側に、日本美術技術博物館“Manggha”(Muzeum Sztuki i Techniki Japońskiej “Manggha”)が開館した。
日本美術技術博物館“Manggha”、クラクフ、写真: Wojciech Kryński/ Forum
博物館のデザインは高名な建築家、磯崎新が手がけ、クラクフを拠点とする建築家であるクシシュトフ・インガルデン(Krzysztof Ingarden)とヤツェク・エヴィ(Jacek Ewy)、またJET Atelierが協力した。歴史的なヴァヴェル城を対岸に臨む場所は、異なる伝統と文化の出会いを象徴するために、意図的に選択された。しかし、現代的な建物をこの場所に建てることに対しては抗議もなされた。例えば、当時クラクフ市議会議員であった保守派の政治家バルバラ・バブラ(Barbara Babula)は、王宮のすぐ近くに「非ポーランド的な」建物が作られることに異議を唱えた。
「マンガ」館は、展示やパフォーマンスの場所、文化センター、倉庫、事務所、そして日本料理やアジア各国の料理からインスピレーションを受けた料理を供するカフェから構成される多機能な施設だが、日本とポーランドの文化的なつながりを強調し、検証することが主な目的である。19世紀、ポーランドの芸術家や美術蒐集家たちに日本文化が及ぼした重要な影響も研究テーマの一つだ。日本美術蒐集の草分け的存在だったヤシェンスキはいくつもの愛称を持っており、その一つ、葛飾北斎の画集『北斎漫画』に由来する「Manggha」が博物館の名称になった。2024年11月に開館30周年を迎えた「マンガ」館は、今やクラクフの文化的風景を特徴づけるスポットとして愛され、ポーランドの古都を訪れる世界中の来観者を引き寄せている。
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「Andrzej Wajda. Japoński notes(アンジェイ・ワイダーー日本印象記)」展の出品作品、日本美術技術博物館 “Manggha“、2019年、写真:日本美術技術博物館 “Manggha“、クラクフ
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クラクフを拠点とする週刊誌『Tygodnik Powszechny』に前述の『ノート』の書評を載せたヤクプ・マイムレク(Jakub Majmurek)は、ワイダの国外旅行記を振り返り、「ワイダの西方への探検は……いつもがっかりする結果に終わった」と結論づけている。しかしこのような説明は、ワイダ監督の東方への探検には当てはまらなかった。アメリカの日本研究者、アレックス・カー(Alex Kerr)が、自伝的エッセイ集『美しき日本の残像(Lost Japan)』(1993)で「日本文化では官能性と儀礼性が両極をなし、完璧に調和している」と述べているが、それに惹かれたワイダは日本滞在中、有意義で創造的な時間を過ごした。浮世絵の影響を物語るワイダのスケッチや素描(現在は「マンガ」博物館が所蔵)は示唆に富んでいる。ワイダにとり、日本への旅は、自分を魅了した文化に浸る機会であるとともに、戦時中、最も過酷な時に日本の芸術作品の前に立って活力を得、芸術家としての将来をおそらく感じた18歳の頃と再びつながる時間であったことが伺える。京都賞を受賞した時、ワイダはこの賞が「ポーランドと日本、そして20世紀と21世紀をつなぐ架け橋となる」、より大きな意味について述べた。「マンガ」館の設立はこの架け橋の実現を象徴する永続的な遺産であり、進化を続けるポーランド・日本の文化的なコラボレーションの物語に、ワイダが重要な役割を果たしたことを示している。
執筆:アレックス・ラモン(Alex Ramon)、2024年12月
日本語訳:柴田恭子(Yasuko Shibata)、2024年12月