フェリクス・アレクサンデル・ヤン・ズヂスワフ・ユゼフ・オヌフルィ・ヤシェンスキ(Feliks Aleksander Jan Zdzisław Józef Onufry Jasieński)は、生後すぐ与えられたいくつもの正式の名前のほか、生涯の間、さらにたくさんの愛称を得た。「ガリツィアの日本人」、「大きな黒い鳥」や「メディチ」と呼ばれたほか、何より「マンガ」として歴史に名を残した。
フェリクス・ヤシェンスキは1861年7月8日、ワルシャワ近郊、グジェゴジェヴィツェ(Grzegorzewice)の裕福な地主の家に生まれた。未来の蒐集家はワルシャワで最も有名な学校に送り込まれたが、その教育は波瀾万丈の過程をたどった。まず第五男子中学校の4年生で留年した後、卒業試験を受けずに学校生活を終える。これはベルリンとパリの大学に入学する際、妨げにはならなかった。しかし大学の課程そのものは、生涯にわたって彼を苦しめることになる眼病を患ったため、修了できなかった。したがってフェリクスは美術、音楽、文学と哲学を主に独学で深め、ヨーロッパや中近東各国を精力的に旅して回った。ただ、「ガリツィアの日本人」〔ガリツィア(Galicja)は現在のポーランド南東部、ウクライナ南西部にまたがる歴史的な地域。クラクフ・ルヴフ等の都市が含まれる〕が訪れた国々の長いリストに……「日本」の名はなかった。
ヤシェンスキは蒐集家としてのキャリアのごく最初に日本美術に魅了されたが、彼がその存在を知ったのは、浮世絵が画商や後期印象派の画家たちの間ですでに急速な広がりを見せていたパリや、ヨーロッパのその他の主要な国々の首都だった。そのため日本は、ヤシェンスキにとってほとんど神話の中の国であり、彼自身が書いているように、素晴らしい芸術を創り出す素晴らしい人々が住む、「素晴らしい土地」だった。
彼は多くの「若きポーランド(Młoda Polska)」派〔1890-1918年頃に起こった、視覚芸術・文学・音楽のモダニズム運動。頽廃派、新ロマン主義、象徴主義、アール・ヌーヴォー様式を広めた〕の芸術家に日本美術を紹介し、ポーランド国内で日本美術を普及させる第一人者となっただけでなく、ヨーロッパで最も重要な日本美術や工芸品の蒐集家の一人となった。
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侍の兜と日本の着物を身につけ、クラクフの聖ヤン通りと中央広場の角のアパートのバルコニーに立つ、フェリクス・ヤシェンスキ。1903-1904年。写真:撮影者未詳 / クラクフ国立美術館
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日本の木版画はヤシェンスキのコレクションの中で重要な位置を占め、西ヨーロッパの流行に媒介された、「桜咲く国」日本に向けられたヤシェンスキの「まなざし」をよく反映している。日本の国内では、色彩に富んだ版画である浮世絵は大量生産品とみなされ、より長い伝統を持つ日本絵画の技術と比べ、格下に位置付けられていた。したがって、ヤシェンスキが一番評価していた芸術家のランキングは、フランスで形作られた規範の方に一致している。このポーランド人コレクターにとって疑いようのない巨匠は葛飾北斎(1760-1849)で、彼はポーランドの雑誌で北斎の業績を熱心に説いている:
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北斎――それは80年にわたる超人的な仕事、数万点、あるいは10万点にも上る数々の作品、人類の芸術史上における最も普遍的で、最も豊かな絵画の才能であり〔…〕、レンブラントのようでもあるが、より多才で、比類なく多産だ。
ヤシェンスキが実践した、蒐集家・普及者、展示会の企画者、そして専門書の著者という彼の役割自体も、パリの手本に近いものだった。ヤシェンスキはゴンクール兄弟(Edmund de Goncourt; 1822-1896; Jules de Goncourt; 1830-1870)を評価し、この二人が「西洋のために日本美術を発見した」と述べている。ヤシェンスキの作家としての功績の中で重要な作品で、ペンネームの由来となっているエッセイも、ゴンクール兄弟の有名な『日記(Journal)』の文学的な形式に倣っている。「エッセイ」というと、ちょっと語弊があるかもしれない。1901年、パリとワルシャワで同時に出版されたヤシェンスキの本のタイトルは『Manggha. Promenades à travers le monde, l’art et les idées(マンガ――世界、芸術と思想のプロムナード)』で、全部でなんと1,000ページ近くある。色々な脱線や引用に満ちたこの著作は、タイトルが示すように芸術、音楽、文学だけでなく、当時のヨーロッパ人の「想像力」を捉えていた思想や出来事についての考察、そして自身の旅行で経験したことの省察だった。
ヤツェク・マルチェフスキ《フェリクス・ヤシェンスキの肖像(Portret Feliksa Jasieńskiego)》、1903年。写真:クラクフ国立美術館
一方、ヤシェンスキは画商・批評家の役割を独自に発展させ、これを自分の公的な使命だと考えていた。ヨーロッパ旅行から戻った当初は、1887年に結婚したテレサ・ワベンツカ(Teresa Łabęcka; 1867-1900)と一緒にワルシャワに住んだ。評論家・批評家として当地のアート業界の動向を追うだけではなく、週刊誌『Wędrowiec』、月刊誌『Chimera』、日刊紙『Ilustrowany Kurier Codzienny』を始めとする雑誌や新聞に定期的に寄稿した。
ワルシャワでは1901年、自らも創立者の一人だった美術奨励協会(Towarzystwo Zachęty Sztuk Pięknych; TZSP)の建物〔ワルシャワ中心部、サスキ公園のそば。ザヘンタ国立美術館(Zachęta Narodowa Galeria Sztuki)の所在地〕でポーランドで初めての日本美術の展示会を開催した。しかし、この先駆的な出来事に対する人々の反応は冷ややかだった。協会側に自分のコレクションを寄贈しようと考えていたヤシェンスキだったが、日本の木版画を「茶箱の絵柄」と評した地元の批評家や公衆に憤り、ワルシャワ自体に嫌気がさしたため、荷物をまとめてルヴフに引越し、その後すぐ、クラクフに移り、かの地に永住することになった。
一方、ワルシャワ(20世紀初頭の「ワルシャワ論壇」)の側も、同年に『Chimera』掲載の「些細な誤解について」と題する記事を書いたヤシェンスキに腹を立てていた。ワルシャワの美術界で神聖な存在だった画家、「Klasa Rysunkowa(絵画教室)」創設者のヴォイチェフ・ゲルソン(Wojciech Gerson; 1831-1901)を攻撃したためだ。
これは亡くなったゲルソンの追想で、ヤシェンスキは冒頭で彼を「高貴で善良、感じのよい人物」と評するが、この文章を彼に捧げる讃歌には仕上げていない。人々が敬愛する故人に頭を下げる代わりに、ヤシェンスキは自分の論争家としての本性を見せ、真正面からこの画家に打撃を与えた。
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故ゲルソン氏が芸術を愛していたこと、〔…〕自分の能力を尽くし、精力的に仕事をしたことは疑いの余地がない。しかし彼の仕事の成果を見た時、このような努力の結果が貧弱なものであったこともまた、疑いの余地がない。教育者としての活動はゼロに等しい。そして、教養のある人々への影響に至っては、嘆かわしいレベルだ。
クラクフで、ヤシェンスキは自分のコレクションをヴィチュウコフスキ(Leon Wyczółkowski; 1852-1936)、ヴァイス(Wojciech Weiss; 1875-1950)、ヴィスピャンスキ(Stanisław Wyspiański; 1869-1907)やポトコヴィンスキ(Władysław Podkowiński; 1866-1895)といった同時代のポーランドの画家たちの作品へと広げ始め、彼らのうち多くとは友人にもなった。ポトコヴィンスキの一番有名な絵、《歓喜の熱狂(Szał uniesień)》が今日まで残っているのは、ヤシェンスキの友情とこの芸術家に対する支援のおかげだ。ポトコヴィンスキが、ザヘンタ美術館でこの絵を発表した際、彼に向けられた嘲笑に激昂し、キャンヴァスにナイフを切り付けた時、ヤシェンスキは彼の手から絵を奪い取ったという。そして絵を修復に出し、その後、購入して自分のコレクションに加え、客間の目立つ場所、ピアノの横に飾った。
ヤシェンスキは1903年、アダム・ワダ=ツィブルスキ(Adam Łada-Cybulski; 1878-1957)とともに、近代ポーランド絵画について初の専門書を書いた。そして1921年、クラクフの科学芸術アカデミー(Akademia Umiejętności)で若いポーランドのグラフィック・アーティスト、彫刻家と音楽家を対象にした賞を立ち上げる。「若きポーランド」の芸術家を全般的に扱う画商として、ヤシェンスキは組織・運営活動に熱心に携わった。クラクフ美術家協会(Towarzystwo Przyjaciół Sztuk Pięknych)とポーランド応用美術協会(Towarzystwo Polskiej Sztuki Stosowanej)に所属し、クラクフ国立美術館(Muzeum Narodowe w Krakowie)と密接な関わりを持つとともに、館長のフェリクス・コペラ(Feliks Kopera; 1871-1952)とも親しかった。自分のコレクションを最終的に寄贈することに決めたのもクラクフの美術館で、2-3年間隔でいくつかの遺言書や寄附証書に署名し、その意志を確認した。
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織物会館(Sukiennice)に自分のコレクションのグラフィック作品をかけるフェリクス・ヤシェンスキ、1902年。写真:撮影者未詳 / クラクフ国立美術館
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彼のコレクションのうち、「若きポーランド」のアーティストたちの絵画と素描作品は最初に美術館に寄託された。ヤシェンスキの蒐集家としての功績は、美術館を訪れる人々にとっても明らかだった。というのも、それらの作品の中にはマルチェフスキ(Jacek Malczewski; 1854-1929)、ヴィチュウコフスキやヴァイスを始めとする画家によって描かれた7枚のヤシェンスキ自身の肖像画があったためで、多くは非常に優れた作品だった。自分の蒐集家としての審美眼の価値を知っていたヤシェンスキは、謙虚な人物ではなかった。頭の中で、自ら建てた美術館の展示室が自分のポートレートのみで満たされている様子を思い描いたが、もっともこれは、彼自身が書いているように、ナルシシズム的な自惚れのためではなかった。
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この展示室が、そう、200年後に(私は楽観主義者ではないと言われているが)一般の人々にとり、とても興味深いものになることを願おう。私自身のせいではなく〔…〕、まったく同じ内容に対するアーティスト各自の捉え方の明らかな違い、実にこの場合、倍増して生じる違いのためだ。
実際、このような展示室の四方の壁を、彼を描いた作品で床から天井までぴっちり、19世紀のサロン風に埋め尽くすことさえ、難しくはないだろう。「若きポーランド」の画家は性別や才能の程度を問わず、ほぼ皆、彼の肖像画を描いたからだ。
ヤシェンスキは展示会を開催し、雑誌・新聞で自らその批評を書き、最も優れたポーランド人アーティストたちのための、いわば「PRの永久機関」を作り上げた。もっとも、自分以外のポーランド人蒐集家に向けても批判の言葉を容赦しなかった。
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ヘウモンスキ(Józef Chełmoński; 1849-1914)の署名入りの傑作を嬉々として手に入れた実業家が、ヤマウズラ(kuropatwa)1羽あたりいくらしたか計算し、来場する人たち皆に金額を推測するように言う。このようなパトロンがいれば、芸術が堕落する危険はない。ああ、人間の惨めなこと!〔…〕若者は才能があろうと、何も期待してはいけない。現存する世界の国の中で最も芸術性が低いこの国は、多様な種類のアーティストをわんさと製造している。このよどんだ空気の中で息をするのはほぼ不可能で、彼らがこぞって逃げ出しているのはたしかだが、このガチョウが卵を生み、そこからワシの雛たちが孵化するのだ。
「若きポーランド」のアーティストの中で、ヤシェンスキが最も親しかったのはレオン・ヴィチュウコフスキだった。彼の肖像画やスケッチ(他にはない、アラブの長老に扮した、ヤシェンスキの珍しい肖像画も含まれる)を多く描いただけでなく、聖ヤン通りと中央広場の角にある建物の2階〔日本で言う3階〕の、ヤシェンスキのアパートの窓からの眺めを利用して、ヴェドゥータ(都市景観画)も描いた。ヤシェンスキの方も1921年、親友ヴィチュウコフスキのため、クラクフの芸術館(Pałac Sztuki)〔シュチェパンスキ広場(plac Szczepański)の建物で、クラクフ美術家協会の本部〕で大掛かりな展示会を開催した。
ヤシェンスキによる展示会の企画・運営活動は、芸術の普及以外の点でも注目に値する。1902年に開催された展示会「戦争」では、フランシスコ・ゴヤ(Francisco Goya; 1746-1828)とヴァレール・ベルナール(Valère Bernard; 1860-1936)の一連のグラフィック作品、またアルトゥル・グロットゲル(Artur Grottger; 1837-1867)の素描の複製が展示され、ヤシェンスキが前衛的なキュレーションの先駆者だったことがわかる。展示会の内容は論争的、攻撃的でさえあり、グロットゲルを「個性に欠けた、極めて凡庸な芸術家・造形家」、「全体として感傷的で、弱々しく無難なアネクドート」の作家として提示した。その批判の対象となったのは、ヤシェンスキ自身が軽蔑し、グロットゲルによって代表される愛国主義モデルだった。
鍛錬を積んだ蒐集家、ヤシェンスキの審美眼は、アーティストそれぞれの最も代表的な作品を探し当てた。そこから彼が紡ぎ出したコレクションは、生涯の間に、ポーランドのあらゆる美術館の現代美術のコレクションを上回るものとなった。しかしヤシェンスキは既に完成した、記念碑的なキャンヴァス画や彫刻のみでなく、素描にも関心を持っていた。彼は次のように書いている:
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私にとって芸術作品で一番大切なのは、アーティストの個性だ。素描にはこの個性が突然噴き出す。そこにインスピレーションや才能がほとばしり、アーティストはただ一つの考え、「創作」という考えに取り憑かれて作り出し、自分の夢をできるだけ早く、世界に残る形にしようとする。〔…〕ヴィチュウコフスキの落書きや素描は、私が彼のアトリエ内を物色するのが習慣になっていた時、彼のベッドの下で見つかった。私にとってこれらは、彼の絵より貴重だ。
日本の屏風を背景に、三味線を手にしたフェリクス・ヤシェンスキ、1903年頃。写真:撮影者未詳 / クラクフ国立美術館
ヤシェンスキの愛称である「マンガ」という言葉は、北斎の一連の作品〔画集『北斎漫画』。1814年から北斎没後の1878年にわたり、全15編が刊行〕のタイトルから取られ、北斎自身が「急いで描かれたスケッチ」で、「筆のおもむくままに描く」と説明しているのは偶然ではない。ヤシェンスキは、何よりアーティストの表現力と個性を重視した。印象主義をめぐる論争の時期、ひと玉のキャベツは聖母マリアより重要なテーマだと言われたが、このポーランド人蒐集家は同様の精神で、「上手に描かれたカブは、不滅の魂についての思索を表す下手な絵よりも価値がある」と主張した。
「若きポーランド」を象徴する一人だったヤシェンスキは、ある面では時代を先取りしていた。ボズナンスカ(Olga Boznańska; 1865-1940)のように名声と知名度を獲得することに成功した数少ない女性アーティストから、ステファニア・ダニエル=コッソフスカ(Stefania Daniel-Kossowska; 1909-2003)やマウゴジャタ・ワダ=マチョンゴヴァ(Małgorzata Łada-Maciągowa; 1881-1969)等、美術史からほぼ忘れ去られた女性画家に至るまで、当時としては珍しいことに、多くの女性アーティストの作品を購入し、支援した。ヤシェンスキが当初から後援していたゾフィア・ストリイェンスカ(Zofia Stryjeńska; 1891-1976)はパリ万博(1925年)で装飾を手がけたことから、彼の晩年になって名声を獲得し始めるようになる。女性アーティストへの支援はヤシェンスキの公的な使命の要素の一つだった。マリア・ニェジェルスカ(Maria Niedzielska; 1876-1947)により1908年に設立された、女性のための芸術学校の活動の支援にも積極的に関与した。この学校の教育課程表には「フェリクス・ヤシェンスキ氏の美術館での芸術に関する講義と実技デモンストレーション」が含まれている。授業に通う自由聴講生の中には、あのマリア・スクウォドフスカ(Maria Skłodowska; 1867-1934)(まだキュリー夫人ではない頃)もいた。
蒐集家、評論家、展示会の開催者、アーティストの親友、講師……ヤシェンスキは本当の意味で、物事を立ち上げ、熱意を持って関わることのできる人間であり、その能力を持っていた。クラクフの美術館に自分のコレクションを正式に寄付した後、ヤシェンスキは終身キュレーターになった。というのも、これらの作品が……まだ彼のアパートに置かれていたからだ。1906年、寄付を証明する遺言書を新たに作成した後には、自宅で、自分の名前を冠した美術館の新しい分館のオープニング・パーティさえ開いている。
ヤシェンスキは実は、展示会では居眠りをし、クラクフの有名な文学キャバレー、ジェロヌィ・バロニク(Zielony Balonik)の出し物の中で、しっかり笑いのネタにされている。「ミュゼー・フェリクス・ヤシェンスキ(Musée Feliks Jasieński)」と呼ばれたヤシェンスキのアパートは、1903年から彼が使っていたスタンプが示すように、実際の美術館よりもさらに美術館らしかった。この蒐集家と彼の客たちは、ルイ王朝様式の椅子に座り、中東のキリム(織物)の上を歩き回ったり、17・18世紀のシャンデリアの光に照らされながら、骨董品の食器で食事をしたりしていたのだ。
1929年4月6日、ヤシェンスキは自宅の美術館で息を引き取る。最後の「買い物」を行ったのは、死の1週間前だった。
1920年付の最終的な遺贈契約には、コレクション譲渡の条件として、「若きポーランド」の最も熱心な日本愛好家であるヤシェンスキの名を冠し、クラクフ美術館の分館を設立するよう、クラクフ市に義務付ける項目が含まれている。譲渡されたコレクションは全部で20,000点近くの作品を数える。その4分の1以上は極東、日本、中国、朝鮮、インドネシア、チベットやモンゴル等の収蔵品で、4,500点以上が日本の木版画だった。
コレクションは、クラクフ国立美術館に新たに設立されたショワイスキ家(Szołayscy)別館に収蔵され、1934年のクリスマスの直前に開館された。現在、このコレクションの展示品は、エラズム・チョウェク司教館(Pałac biskupa Erazma Czołka)の中世美術コレクションから20世紀美術の展示に至るまで、美術館の既存のすべての部門にわたって収蔵されている。
1994年にようやく建てられた「マンガ」博物館は、この蒐集家の最も永続的な記念碑である。もともとはクラクフ美術館の別館となるはずだったが、時を経て、独立した日本美術技術博物館(Muzeum Sztuki i Techniki Japońskiej)へと変身した。この誕生を実現させた最も重要な人物はアンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda; 1926-2016)だ。彼の日本美術への熱狂は、1944年、ポーランドにとって暗黒の時期に、ドイツのポーランド総督府当局が第三帝国の同盟国、日本との政治的・文化的な絆を強めることを目的に開催した、ヤシェンスキのコレクションの展示を見たことで触発された。
執筆:ピョトル・ポリフト(Piotr Policht)
日本語訳:柴田恭子(Yasuko Shibata)、2024年9月