ポロニウム、放射能と象―― マリア・スクウォドフスカ=キュリーとポーランド
マリア・スクウォドフスカ=キュリーが24歳でポーランドを離れた時、この国はヨーロッパの地図上に見当たらなかった。そしてポーランドが復活した時、マリアは2度のノーベル賞受賞者となっていた。彼女と祖国の関係について詳しく見てみよう。
生まれ故郷に戻って住むことはなかったが、この偉大な科学者の心と頭の中に、ポーランドという国は、常に存在し続けた。世界でマリー・キュリー(Marie Curie)として知られるマリア・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie)は、独立国家ポーランドという考えを広めるために、化学元素ポロニウム(polonium)という、抵抗活動的な手段に訴えた。ではなぜ、新元素にポーランド由来の名をつけたことを結局は後悔したのだろうか?ピエール・キュリー(Pierre Curie)との結婚を断りかけた理由は?好きだったポーランドの歌は、そしていったい、ポーランドと象に何の関係が?知っておくべきマリー・キュリーとポーランドの奇妙な関係を、以下に紹介する。
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スクウォドフスキ家。ヴワディスワフ・スクウォドフスキと娘たち(左から)マリア、ブロニスワヴァ、ヘレナ、1890年。写真:Wikimedia
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マリア・スクウォドフスカ=キュリーは1867年、ワルシャワがロシア帝国ポーランド州の首都だった頃に生まれた。実際、マリアが生まれた年、「ポーランド」という言葉がこの州の正式名称から剥奪され、その後は、「ヴィスワ地方(Privislinsky krai)」として知られることになっていた。これは1月蜂起(1863年から1864年、ロシア支配に対してポーランド人が起こした反乱)の結果として実施された一連の政策の一つで、ポーランド語教育の厳重な禁止もこの中に含まれ、とりわけ初等学校が対象となった。この状況はスクウォドフスカ=キュリーの人格形成期にとりわけ大きな影響を与え、彼女は自伝でこう振り返っている:
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授業はすべてロシア語で行われ、担当したのはたいてい、ポーランド人やポーランド人生徒に対して敵対的な態度をとるロシア人だった。したがってこのような学習に価値があるかは、控えめに言って疑わしく、学校の雰囲気は耐え難かった。
彼女の記憶では、学校で生徒たちは常に監視され、教師たちの一挙手一投足が疑いの目で見られた。ポーランド語での会話、またポーランド語の言葉をうっかり口にすることさえ、自分たちのみならず家族に危害を及ぼす可能性があることを知っていた。このように敵対的な環境で、子どもたちは生きることへの喜びをすっかり失い、「抱くにはまだ早すぎる不信感と鬱憤が、彼らの子ども時代に悪夢のように重くのしかかった」。これらのきわめて「異常な発達条件」には予期せずして、おそらく一つのよい副作用があった。つまり「強い愛国心を持つよう、ポーランドの若者をかなり刺激した」のだとスクウォドフスカは書いている。
幸い、マリアの父、ヴワディスワフ・スクウォドフスキ(Władysław Skłodowski)は教師、そしてポーランドに新たに出現した知識人層の一員で、科学への興味を自分の四人の子どもたちに持たせるにはどうすればよいか心得ていた。実際、彼はあらゆる機会をとらえて子どもたちに身の回りの世界の様々な側面を説明しようと試みた。マリアには数学と物理学を教え、彼女はどちらも容易に理解した。後に彼女は、唯一残念だったのが、実験を行う研究室がなかったことだと言っている。
ヴワディスワフ・スクウォドフスキは文学に深い関心を抱き、ポーランドや外国の詩についても素晴らしい知識を持っていた。時折、自身で詩を書き、それらの作品は幼いマリアに大きな印象を与えた。土曜日の夜、テーブルを囲んで父がポーランドの詩や散文を朗読したのをとりわけよく覚えており、後に「これらの夕べは素晴らしい楽しみで、私たちの愛国心をさらに大きく育てた」と回想している。マリアは詩を愛し、暗記することもよくあった。好んだ詩人はアダム・ミツキェヴィチ(Adam Mickiewicz)、ジグムント・クラシンスキ(Zygmunt Krasiński)、ユリウシュ・スウォヴァツキ(Juliusz Słowacki)だった。
16歳のマリア・スクウォドフスカ=キュリー。写真:Wikimedia
中等教育学校の卒業後(クラスメートより一歳下だったが、マリアは学年で1番の成績を収めた)、街を1年離れて過ごしたマリアは17歳となり、田舎に住むポーランド人家族に雇われ、住み込みの家庭教師として働き始めた。昼間は子どもたちの家庭教師として教え、夜には外国で学ぶという目標を持って勉強した(当時、女性はワルシャワ帝国大学への入学は許可されなかった)。ロシア支配下できちんとした教育を受ける機会のなかった村の子どもたちを教える時間も設けた。彼女はこう振り返っている:
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私たちは小さな子どもだけでなく読み書きを習いたがっていた年上の女の子たちにも教えた。ポーランド語の本も貸して分け合ったので、彼らの両親も喜んだ。このささやかで無邪気な教育でさえ危険だった。ロシア政府によってこのような取り組みは全て禁止され、投獄やシベリア送りになり得たからだ。
19世紀末まで、ポーランド知識人による「秘密の学校」は大規模な運動となって識字率の向上に貢献するとともに、農村の子どもたちの愛国心を育んだ。マリアは田舎で3年半仕事をしながら、この秘密の教育を実施した。その間、既にパリで学んでいた姉ブローニャのために仕送りをし、マリア自身もまもなく姉と同様に渡仏することになる。
ワルシャワに戻ったマリアは家庭教師をして生計を立てながら独学で勉強を続けた。その時期にようやく(彼女の伯父の)研究室に出入りを許され、初めての実験を行なった。パリで数学と物理学を学ぼうと決意したのもこの頃だ。
後になって、マリアが自身の成長に寄与したと述べたのが「共に学ぶという目標を持つと同時に、社会問題やポーランドの大義に関心を持って集まった」若者のグループが生み出した、教育の新たな可能性である。
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これは、祖国への希望は全て、ポーランド民族の知性と道徳の力を発展させるための多大な努力にかかっており、そのような努力がついには運命をよい方向に変えると信じる、ポーランドの若者グループの一つだった。
マリアは、差し当たっての目標は自分自身を教育し、労働者と農民の間に教育の意義を広めるための手段を蓄積することだと理解していた。
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私たちはこの計画に従って夜間の講座を開講することに決め、それぞれが一番得意な科目を教えた。これはもちろん秘密組織だったため、活動は困難だった。
その数十年後、スクウォドフスカ=キュリーは自伝で当時を振り返り、このようなポーランドの社会生活の形と彼女の人生における信条が直接結びついていると認めている。
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私は今でも、その当時に私たちを導いた理念が、実質的な発展へと社会を導く唯一の道を示していると信じている。個々人の生活を良くすることなしに、より良き世界を築くことはできない。私たちはそれぞれが、人々の生活の向上に努めると同時に、人類全体に対する責任を共有すべきである。自分がもっとも助けることのできる人々を支えることが、私たちの特別な義務なのだ。
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パリの実験室にて、マリーとピエール・キュリー。写真:Wikimedia
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1891年、24歳のマリアはワルシャワを後にしてパリに向かい、学問を始めた。ほぼ全ての時間を勉強に費やす一方、当初、パリのポーランド人とは交流を保ち、「ポーランドの問題」を議論したり「異郷での孤独を皆で紛らす」ために会うこともあった。しかし1年目を終える頃、「学業をできる限り短期間で修了するため、エネルギーを全て集中させる必要がある」ことに気付いてから、人と会うことをやめた。そして実際、翌年に数学、そのまた翌年に物理学の学士号を、それぞれ学年の首席、次点で取得して卒業する。
ほどなくして未来の夫、ピエール・キュリーとの出会いが訪れる。しかし実は、彼と結婚しない可能性もかなり高かった。一体なぜか?その理由はポーランドだった:
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彼はすぐ、私に人生の伴侶となってくれるよう頼んだが、始めは決心できなかった。自分の家族や祖国から離れる一歩を踏み出すのに、ためらいがあったからだ。
次女エーヴ(Ève)の伝記では、これがよりドラマチックに描かれている:「私たちポーランド人には、自分の国が抑圧されている時、国を離れる権利がありません」。これがピエールの求婚に対するマリア(マリー)の反応だったと言われている。
同じ年の夏、マリーは自分がパリに留まるかべきか迷っていた。休暇でポーランドに行ったが、パリに戻るかはわからなかった。幸い、秋にはソルボンヌの研究室の一つで職を得たため、博士論文のための研究・実験を始めるために戻った。1895年7月、マリーはピエールと結婚し、これが彼女が歩む人生を決定づけることになる。
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1904-1905年のドイツの元素周期表(グダンスク工科大学所蔵)は、化学が政治問題であることを示している。この表では、既に1898年に発見されたポロニウム(Po, 元素番号84)を始めとする要素が欠けている。ドイツの化学者が発見したというマスリウム(Ma)が載っているが、これは誤りであることがわかっており、1937年にようやく存在が確認され、今ではテクネチウム(Te, 元素番号43)として知られている。写真:Wikimedia
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1896年7月、マリアとピエールは新物質の発見を発表し、「マリアの故郷に敬意を表して」これをポロニウム(polonium)と名付けた。この元素の名前はポーランドのラテン名、ポロニア(Polonia)に由来する。これは19世紀末、ポーランドという国名がヨーロッパの地図上に存在しないことを考えると、抵抗活動といい得る行為だった。ロシアは強大で恐ろしい帝国だった。フランスはポーランドの大義には理解があったが、1871年、普仏戦争でフランスがプロイセンに負けて以来、「ポーランド問題(question polonaise)」の議論は下火になっていた。
新元素をこのように名付けることで、マリア・スクウォドフスカ=キュリーはある意味、1903年のノーベル賞受賞後にやってくる大騒動を予期していた。科学的な発見の宣伝効果を利用して、世界の注目を、ポーランドが独立した主権国家ではないという純粋に政治的な事実に向けようと、故意に狙っていたのだ。ポロニウムはしたがって、政治情勢にスポットライトを当てるために名付けられた、初の化学元素だったかもしれない。
ではなぜ、後にマリアは、この元素にポロニウムと名付けたことを悔やんだのだろうか?これはラジウムが理由だった。キュリー夫妻がポロニウムのすぐ後に発見したラジウムは、抽出や同定がずっと簡単なことが判明する。そして科学研究史ではるかに重要な、放射能の象徴として誰もが納得する地位を得た。しかし一方のポロニウムは、このような華やかな運命を逃してしまった……。
とは言え、ポロニウムとポーランドは、普通の人が考える以上に多くの共通点があった。何より、どちらも表面上は目には見えないものだった。ポロニウムが発見された時、この元素は見ることも重さを量ることもできず、ヨーロッパの地図上にポーランドが見つからないのと同様だった。けれどもポーランドは、マリア・スクウォドフスカ=キュリーを始めとするポーランド人一人一人の心には存在していたのである。
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1926年、ワルシャワのラジウム研究所の定礎式に出席したマリー・キュリー。写真:Polona.pl
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スクウォドフスカ=キュリーは後年、パリにラジウム研究所を設立するために心血を注いだ。その間、ポーランド最高峰の科学者団体から幾度となく招待を受け、1912年にはノーベル文学賞受賞者、ヘンリク・シェンキェヴィチ(Henryk Sienkiewicz; 1846-1916)が率いる使節団もやってきたが、その度に断らざるを得なかった。
次女エーヴが回想するように、彼女の母は「両立させることのできない、二つの義務の間で引き裂かれていた。逡巡し続ける中、郷愁が2倍になって彼女を襲った」。
祖国に戻る代わりに、マリアは自分のもっとも優秀な助手二人をポーランドに送った。パリのラジウム研究所にポーランドの職員が勤務するようにすることで、将来、ポーランドのラジウム研究所で仕事をする職員を育成することにもなった。ワルシャワのラジウム研究所は1932年に開所され、世界でも最先端のガン治療専門施設となった。
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第一次世界大戦時、自身が設計した移動X線車「プティット・キュリー」号に乗るマリー・キュリー。写真:Wikimedia
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第一次世界大戦が勃発した時、マリーは行動を決意した。自伝では次のように書いている:「当時、市民一人一人が国を助けることが、もっとも重要な義務だった」。この「国」という言葉で彼女が意味したのは第二の祖国、フランスだった。戦争開始直後、移動式X線装置として機能する特別車両「プティット・キュリー(小さなキュリー)」を用意して戦地に赴き、骨折したフランス人兵士の骨のX線撮影を行なった。彼女は自らこの車両を運転することもできた(つまり運転免許証を取得した最初の女性の一人だった!)。
当時、彼女は戦争が激化し、国の将来が形成されつつあったポーランドに住む家族を心配していた。そして国粋主義的な運動とは対立する、ポーランドの民主派に政治的に共感を覚えた。フランスのポーランド移民は二極化しており、マリアは自分と同年の生まれでポーランド社会党の指導者であるユゼフ・ピウツスツキ(Józef Piłsudski; 1867-1935)と彼が率いるポーランド軍団への支持を決めた一人だった。
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ソルベー会議(物理学)でのマリア・スクウォドフスカ=キュリー、ブリュッセル、1911年。ポーランドはまだヨーロッパの地図上に存在しなかったが、「ポーランド問題」は人々の関心事だった。右から2番目はアルベルト・アインシュタイン。写真:Wikimedia
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1918年、ポーランドの独立により、ポーランド民族の苦闘、そしてポーランド人が主にポーランドのことばかり考えている時代が終わりを告げた。愛国心がポーランド市民の義務、宗教の一種で、ある意味、執着だった時代が終わろうとしていた。この問題をもっとも痛切かつコンパクトに表しているのが、マリア・スクウォドフスカ=キュリーの発した言葉で、実はジョークだったというのは驚きだろうか?
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イギリス人、フランス人、そしてポーランド人が象をテーマにした文学コンテストに参加することになりました。イギリス人は「南アフリカでの象狩り経験」という論文を発表し、フランス人が書いたのは象の性生活についての小論文でした。一方、ポーランド人は研究論文を「象、そしてポーランド問題」と題しました。
伝え話ではあるが、この有名なスピーチはおそらく1921年に国際連盟で開催された会議(国際知識人協力委員会)で行われた。象とポーランド問題についての一節はステファン・ジェロムスキ(Stefan Żeromski; 1864-1925)の名作『早春(Przedwiośnie)』(1925)に登場し、まもなくポーランド文化の血流に取り込まれることになる。ほとんどことわざか、説明の要らない「落ち」のような決まり文句になり、ポーランド人が、一見して何の関わりのないものでも全てポーランド民族の大義と結びつけようとする慣行を批評するのに使われた。
1832年5月、マリア・スクウォドフスカ=キュリーはラジウム研究所の盛大な開所式に際してポーランドを訪れ、これが祖国への最後の訪問となった。ヴィスワ川の土手を散歩する時間を見つけ、50年前にここを歩いた娘時代に思いを馳せる、感傷的な旅となった。この経験はマリアに、子どもの頃に聞いて知っていた、19世紀に流行したクラコヴィアク(krakowiak)「Płynie Wisła, Płynie(ヴィスワ川は流れる)」の歌詞を呼び起こさせる(試聴はこちら)。死の2年前に書かれた手紙でマリアはこの歌詞を思い返し、彼女の尽きることのない、祖国への愛を伝えている。
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クラクフにはヴィスワ川の歌がある――「一度でもポーランドを愛した者は / 墓に入っても忘れることはない(Kto go raz pokochał, / Niezapomni w grobie)」。これは真実だと思う。少なくとも、私について言うならば。
執筆:ミコワイ・グリンスキ(Mikołaj Gliński)、2017年11月7日
日本語訳:柴田恭子(Yasuko Shibata)、2025年6月