化学者・物理学者。女性として初めてノーベル賞を授与され、同賞を二分野で受賞した最初の人物。放射能という新たな研究分野を創始し、生涯を捧げた。
マリア・サロメア・スクウォドフスカ(Maria Salomea Skłodowska)は1867年11月7日にワルシャワで生まれた。父ヴワディスワフ(Władysław Skłodowski; 1832-1902)はワルシャワの中等学校の数学・物理学教授、母ブロニスワヴァ(Bronisława Skłodowska; 1836-1878; 旧姓ボグスカ Boguska)は新市街フレタ通り(ul. Freta)の学校で教師・校長を務めた。両親とも没落した士族の出身だった。マリアは5人の兄弟姉妹の末っ子で、家ではマーニャ(Mania)と呼ばれた。9歳の頃、一番上の姉、ゾフィア(Zofia)がチフスで亡くなり、2年後には長い闘病を経て母を結核でなくした。これらの経験から、マリアは神への信仰心を失うとともに、人生の不公平さ、また見放されたという痛みの感覚を抱えるようになり、生涯にわたって繰り返し、うつ病の症状に悩まされた。
初等・中等学校時代
両親の尽力によってマリアは幼少期から学びに励み、大きな才能を示した。並外れた記憶力を持ち、複雑な科学のしくみをあっという間に理解した。初めて通った学校は、母ブロニスワヴァが前校長を務めたフレタ通り16番地の学校だった。続いて1877年にヤドヴィガ・シコルスカ(Jadwiga Sikorska; 1846-1927)が運営するマルシャウコフスカ通り(ul. Marszałkowska)153番地の学校に通い、1883年、国立第三女子中等学校を最優秀生徒の金メダルを得て卒業する。
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MSC博物館、マリア・スクウォドフスカ=キュリーの生家、ワルシャワ。写真:Wojtek Laski / East News
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1月蜂起(1863-1864年)が失敗すると、ロシア分割統治領では教育のロシア化が進み、当局による厳格な管理下に置かれた。ポーランド人教師たちは、生徒たちがポーランドの歴史とポーランド語を学ぶことができるよう、二重の授業を行なったが、これはヴワディスワフ・スクウォドフスキを始めとする教師たちへの弾圧へとつながった。末娘マリアは、査察においてロシア語を話し、ロシア皇帝への親愛の情を示すよう強要され、辛い思いを経験する。初等・中等学校のエピソードは、ポーランドの大義に対する彼女の強い感受性と深く根ざした愛国心を物語っている。
中等学校を卒業した16歳のマリアは、1年間の休暇をとった。これは個人的な辛い経験や根を詰めた学習のあと、存分に羽を伸ばして英気を養う時間となった。両親の実家であるボグスキ家、スクウォドフスキ家の領地をそれぞれ訪れ、小説を読んだり、いとこたちと魚釣り、庭遊びやハイキングなどをして日々を過ごした。詩も耽読し、ポーランド詩人の作品を暗記するのを好んだ。田舎と自然を愛し、後年、ポーランドに戻ることがあると、とりわけ、南部のタトリ(Tatry)山地を歩くのを楽しみにしていた。
大学への道のり
当時、ワルシャワ大学(Uniwersytet Warszawski)は女性に対して門戸を閉ざしていたため、1884年、マリアは非合法に運営されていた「移動大学(Uniwersytet Latający)」の課程に参加した。同時に個人の家庭教師をして生計を立て、ワルシャワで住み込みの家庭教師の職を探し始める。彼女と姉ブロニスワヴァ(ブローニャ)の夢は、パリで学ぶことだった。ブロニスワヴァは兄ユゼフ(Józef)をならって医学を修めたいと願い、マリアは研究者になる志を抱いていた。若い二人の女性は約束を交わした。まず、ブロニスワヴァがパリで医学を学ぶ間、マリアがそれを助け、姉が学業を終えたら同様の方法で妹を支えるというものだ。マリア・スクウォドフスカはしたがって、シュチュキ(Szczuki)〔ワルシャワから南西約75kmの村〕のジュラフスキ家(Żórawscy)で住み込みの家庭教師として就職し、給料の半分を姉に送金した。同じ頃、近くに住む農民の子どもたちのために非正規の学校を開く。ジュラフスキ夫妻の娘と一緒に彼らに読み書きを教えたが、このような活動は投獄またはシベリア流刑の危険を伴った。初恋を経験した時でもある。ジュラフスキ夫妻の息子でワルシャワ大学で数学を専攻していたカジミェシュ・ジュラフスキ(Kazimierz Żórawski, 1866-1953)はマリアとの結婚を望んだが、身分違いの縁として家族の同意を得られなかった。
1889年、ヴワディスワフ・スクウォドフスキがストゥヂェニェツ(Studzieniec)〔ワルシャワから北西約130kmの村〕にある感化院の院長職を得て、ブロニスワヴァの経済支援を担うことが可能になると、マリアはワルシャワに戻り、さらに1年間、家庭教師の仕事を続けた。独学で進学の準備をしつつ、母方の従兄弟、ユゼフ・イェジー・ボグスキ(Józef Jerzy Boguski; 1853-1933)が所長を務めていた工業農業博物館(Muzeum Przemysłu i Rolnictwa)物理学研究所の研究室でも学び始めた。ナポレオン・ミリツェル(Napoleon Milicer; 1842-1905)教授の指導下で化学分析の奥義を学んだのも、ここでのことである。
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マリア・スクウォドフスカ=キュリー。複製:Piotr Mecik / Forum
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ソルボンヌの女子学生
ブロニスワヴァ・スクウォドフスカはパリで出会った医師、カジミェシュ・ドゥウスキ(Kazimierz Dłuski; 1855-1930)と結婚し、何年も前に妹と交わした約束に従い、さらなる学問の計画を実現できるよう、マリアを呼び寄せた。1891年の秋、フランスに到着したマリアには、困難な日々が待ち構えていた。フランス語、そして物理学と数学をさらに学ばなければならなかったのだ。マリアは自伝で次のように回想する:
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ソルボンヌで物理学の講義を受けるには準備が足りなかった。努力したにもかかわらず、ポーランドでは、フランスの男子学生たちが立っていたスタート地点のレベルに到達することができなかったからだ。
さらに、姉のアパートで勉強に集中するのは難しかった。大学から離れていた上、移住してきたポーランド人芸術家たちの騒がしい溜まり場になっていた。耐えかねたマリアは数ヶ月後に引越し、まずカルチェ・ラタンのフラッター通り3番地、その後は学期ごとに、安い貸し部屋に転々と移り住んだ。
マリアはソルボンヌ(パリ大学)の理学部で数少ない女子学生の一人として学び、ポール・アペル(Paul Appel; 1855-1930)、ガブリエル・リップマン(Gabriel Lippmann; 1845-1921)やアンリ・ポワンカレ(Henri Poincaré; 1854-1912)を始めとする教授たちの指導を受けた。1893年、学年で一番の成績で物理学の学士号を取得して卒業する。ポーランドの親しい友人たちの尽力でアレクサンドロヴィチ奨学金を得て、パリでの学問の継続が可能となり、翌年、1894年には次点の成績で化学の学士号を取得し、卒業した。
ピエール・キュリー
フランスの国立工業振興協会の要請により、マリア・スクウォドフスカはリップマン教授の研究室で鋼鉄の磁性についての研究を開始するが、その作業にはより大きな空間を見つけなければならなかった。姉の親友、ユゼフ・ヴィエルシュ=コヴァルスキ(Józef Wierusz-Kowalski; 1866-1927)の助言で、ピエール・キュリー(Pierre Curie; 1856-1906)の研究室に参加させてもらえないか打診する。キュリーはパリ市立工業物理化学学校(l’École municipale de physique et de chimie industrielle)〔以下物理化学学校〕の教授、象限電位計などの精密機器の発明家で、磁性法則の分野の専門家だった。キュリーはスクウォドフスカの研究場所については助けられなかったが、自身の知識で支えることになり、これが二人の馴れ初めだった。
写真:マリア・スクウォドフスカ=キュリーと夫ピエール・キュリー。写真: Wydawnictwo Studio Emka
数ヶ月後、キュリーはスクウォドフスカに結婚を申し込む。その時点でもう、彼女にとって研究がいかに大切か、そして祖国に対していかに強い愛情を抱いているかを理解していた。スクウォドフスカはすぐには同意しなかった。ポーランドの家族から離れることへの心の準備ができていなかった上、祖国のために仕事をしたいと常に願っていたからだ。休暇になってポーランドに帰ったが、フランスにまた戻るかはわからなかった。しかしキュリーは彼女への説得をあきらめなかった。ついに双方の家族が同意に至る。マリア・スクウォドフスカとピエール・キュリーは1895年7月26日にソー(Sceaux)にあるピエールの実家の庭で人前の結婚式を挙げた。白いドレスも指輪もない、型破りの結婚式で、スクウォドフスカは後に実験室で作業する上で実用的な、暗い色のドレスを選んだ。新婚旅行は、友人たちから贈られたお金で買った自転車で、イギリスの海岸とオーヴェルニュ(Auvergne)山地を回った。彼女は回想録に、その後も1日中研究所で仕事をした後、パリ近郊を自転車で回るのが素晴らしい楽しみだったと書いている。
結婚後は自身の名前をさまざまに記した。最初のノーベル賞の証書にはマリー・キュリー(Marie Curie)、そして2回目はマリー・スクロドフスカ=キュリー(Marie Sklodowska Curie)と書かれている。キュリー夫人(Madame Curie)、ピエール・キュリー夫人(Madame Pierre Curie)、マリー・キュリー=スクロドフスカ(Marie Curie-Sklodowska)、マリー・スクロドフスカ=キュリー(Marie Sklodowska-Curie)と署名することもあった。
ベクレルの放射線
スクウォドフスカ=キュリーは夫と一緒に物理化学学校の実験室で仕事をしたが、ピエールは結晶成長、マリーは金属の磁性について、それぞれ自分の研究を行なった。1897年9月12日、長女イレーヌ(Irène)が誕生する。マリーは母そして研究者として、双方に時間を振り分けたが、これは彼女の精神状態に悪影響をもたらし、パニックの発作や神経衰弱の症状が現れた。小さな子どもの世話と家事には、妻に先立たれていたピエールの父ウジェーヌ(Eugène)が大きな助けとなり、そのおかげでスクウォドフスカ=キュリーは博士論文のための研究を開始することができた。
博士論文のテーマには、アンリ・ベクレル(Henri Becquerel; 1852-1908)が数年前に発見したウラン放射能を選んだ。ベクレルは、ウランを含有する石が写真乾板を変色させ、ウランが放射線を発する能力を持つことに気づいた。ベクレル自身はこの時、これを燐(リン)光だと判断し、興味を失って研究をやめたが、スクウォドフスカ=キュリーはフランス人化学者の研究を引き継いだ。ピエールは何より自分が発明した電位計や、妻が使うその他の実験器具を改良することで彼女の研究を助けた。スクウォドフスカは器具を扱う上で欠かせない並外れた技術と集中力、そして飛び抜けた研究能力を持っていた。さまざまな鉱物を調べた結果、ウランまたはトリウム(彼女が発見した放射性元素の一つ)を含むものだけが放射線を発し、いくつかの鉱物はウランの計算値の3倍から4倍の放射能を示すという結論に達した。スクウォドフスカは自伝で次のように書いている:
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その原因を考えた時、私にはただ一つの説明しか思いつかなかった。これらの鉱物の中に何か未知の物質があり、それが非常に強い放射線を発しているということだ。夫は私に同意し、すぐこの物質の探索に取り掛かろうと提案した。二人で努力すれば、物質を早く発見できると期待したのだ。しかしこの仕事を始めた時、自分たちが生涯をかけて取り組む新たな知識の分野が生まれるとは、二人とも予想できなかった。
こうしてスクウォドフスカ=キュリーは、ウランを含む鉱物の中に未知の、しかもはるかに放射性の高い元素が存在することを発見した。1898年7月、彼女は祖国に敬意を表し、この物質をポロニウム(polonium)と名付けた。この観察から、放射能が測定可能であり、そして原子(今日では、これが原子核そのものであることが知られている)の物理的性質の一つであるという、二つの革命的な結論が引き出された。しかし当時、これらの結論は特別な反響を呼ばなかった。スクウォドフスカ=キュリーは博士号をまだ取得しておらず、ポーランドからの移民、そして何より女性であることは、学界において彼女の発見が軽視されるのに充分な理由だった。
ピエール・キュリーはまもなく結晶成長の研究をやめ、妻とともに放射能の研究を追求することを決めた。マリアは新元素を発見しようと決意し、1898年12月にそれを達成する。「放射」や「光線」を意味するラテン語の「ラジウス(radius)」から、それをラジウムと名付けた。
幸せな日々
マリア・スクウォドフスカ=キュリーは自分が発見した元素の存在を確信していたが、これらの元素はその頃まだ単離されておらず、化学的に存在が証明されていなかった。この作業にはそれから数年の間、悩まされることになる。もっとも大変だったのは研究場所と資金を確保することだった。ソルボンヌの当局に場所を割り当てるよう申請したが、適当な場所はなかった。ようやく物理化学学校が、かつて死体解剖教室だった、使われていない物置小屋を提供したが、一流の科学者にふさわしい環境とは言えなかった。もう一つの問題は、研究対象である必要な試料を買うための資金が足りないことだった。ピエール・キュリーは、ウランが既に抽出された瀝青ウラン鉱(ピッチブレンド)をオーストリア政府から無償で譲渡してもらえないか交渉し、成功する。用済みとみなされたウランは、現在のチェコの北西部、ヤーヒモフ(Jachymov)の森に保管されていた。彼らは自分たちにとって価値のあるこの廃棄物を、まず100キログラム、続いて1トン受け取った。スクウォドフスカ=キュリーは自伝に次のように書いている:
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みすぼらしい、古い小屋で毎日全てを仕事にささげ、私たちはもっとも素晴らしい、そしてもっとも幸せな年月を送った。大切な経験を中断することがないよう、よく食事もそこで作らなければならなかった。ある時は、自分と同じくらい大きな重い鉄製の棒で、鉱物が煮えたぎる巨大な鍋を一日中かき混ぜ、そういった折に心底疲れきってしまうこともあった。かと思うと、ラジウム溶液分解のため、分別結晶化という、細心の注意を要する非常に繊細な作業を行う日もあった。
夫妻はラジウム単離の研究に没頭した。スクウォドフスカ=キュリーは次のように回想する:
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その頃、私たちの楽しみは、夜、実験室を訪れることだった。あちこちで、私たちの標本が入っているガラスや袋の輪郭がぼうっと光っているのを眺めたものだ。それは本当に素晴らしい光景で、私たちにはいつも新鮮だった。鈍い光を放つチューブは、まるではかない魔法の光のように見えた。
実際には、光が生み出すこの光景は、彼らの身体の組織をゆっくりと蝕んでいくものだった。放射能の研究が彼らの健康にいかに有害であるかは認識しておらず、ピエールは当初からリューマチの痛みの発作、マリアは体重減少などの形で症状が現れていた。
1900年、ピエール・キュリーはソルボンヌの准教授の地位、妻マリアはパリ郊外、セーヴル(Sèvres)の女子高等師範学校で物理学教師の職を得た。1902年、スクウォドフスカ=キュリーは1デシグラムのラジウム塩素を分離することに成功する。しかし研究環境のため、これが新元素であることを化学的に説明するまでにはさらに4年を要した。
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最初のノーベル賞
1903年、スクウォドフスカ=キュリーは博士号を取得し、その年の終わりに夫とベクレルとともに、放射能の発見によりノーベル物理学賞を受賞した。当時、ラジウムとポロニウムという新元素についてはまだ言及がなかった。最初の推薦状にマリアの名前はなく、彼女の功績は二人の男性に帰された。スウェーデンの数学者、マグヌス・ヨースタ・ミッタク=レフラー(Magnus Gösta Mittag-Leffler; 1846-1927)が介入したことで初めて推薦状に書き足され、これによってマリアはノーベル賞を受賞した史上初の女性となった。ベクレルは自身が授賞式に出席したが、キュリー夫妻は病気のため、ノーベル賞受賞記念講演のためストックホルムに赴いたのはようやく1905年のことだった。伝統に従って受賞者は講演を行うが、登壇を依頼されたのはピエール・キュリーのみだった。彼はこの機会を用いて、講演では妻の功績をはっきりと強調し、全て彼女のものと認めた。
1905年6月、次女エーヴ(Ève)が誕生する。ピエールはノーベル賞の受賞と世界的な評価を経て、彼のためにソルボンヌに特別に設けられた物理学の教授職を得た。新しい研究室、そして研究を実施するための新しい空間のおかげで、夫妻はついに古い実験室を後にすることができた。
ノーベル賞の受賞は彼らが大切にしていた平和を乱した。そして、世界は完全にラジウム崇拝の波に包まれた。この元素を医学的に用いるのは懸念があったが、ラジウムは大幅に希釈された形で、さまざまな方法で用いられた。たとえばクリームや紅茶、バスソルトに添加され、ラジウム配合の育毛剤は薄毛防止の効果、歯磨き粉には歯を白くし強化する効果があるとされた。
まもなくキュリー療法またはラジウム療法と呼ばれる新たな治療法が生まれ、まずフランス、次いで他の国々で開発されるようになる。これは主にガンの治療法として用いられた。ラジウムへの需要が増えるとともに価格は上昇し続けたが、キュリー夫妻は自分たちの研究が人類の福祉に役立つことに大きな価値を見出し、ラジウムも、その製造法についても特許を取らなかった。「それは科学の精神に反する」と考えたからだ。
ソルボンヌの女性教授
予期せぬ惨事が訪れた。1906年4月19日、ピエール・キュリーが荷馬車に轢かれ、悲劇的な死を遂げたのである。この喪失は学界とともに、フランス国民にとっての損失として受け止められた。悲しみに沈むスクウォドフスカ=キュリーは1年間、亡くなった夫への思いを日記に綴るとともに、夫が中途のままに残した研究も続けた。
マリアは大学で夫の職務を引き継ぐことに同意し、教授の地位を得た。これは歴史的な出来事で、ソルボンヌで講義を行う初めての女性となり、当初は准教授、1908年に教授に就任した。1906年11月5日、初回の講義には群衆が朝からつめかけ、待ち構えていた。スクウォドフスカ=キュリーが講堂に現れると、嵐のような拍手とともに迎えられたが、彼女は感情を表に出さず、冷静な淡々とした調子で、ピエール・キュリーが中断したところから講義を始めた。
1910年に義父ウジェーヌが亡くなる。彼の死はさらなる痛手となり、家庭生活と仕事を両立させることが困難になった。スクウォドフスカ=キュリーは娘たちの育児と教育を非常に重視し、運動をとても大切なものと考えていた。祖国を選ぶ上で葛藤がないよう、娘たちをフランス人として育てたが、ポーランド人の住み込みの家庭教師を雇ったため、イレーヌとエーヴはポーランド語を学んだ。ソルボンヌで知り合った教授たちとともに自分の子どもたちのための学校を開き、学者それぞれが簡単な講義を行なった。この実験的な教育は2年間続き、その後の良い結果をもたらした。長女イレーヌは大学入学資格試験に難なく合格し、ソルボンヌに入学した。イレーヌ・ジョリオ=キュリー(Irène Joliot-Curie; 1897-1958)は両親のあとを継いで物理化学者になり、1935年に夫フレデリク・ジョリオ=キュリー(Frédéric Joliot-Curie; 1900-1958)とともにノーベル化学賞を受賞した。
1910年、スクウォドフスカ=キュリーはレジョン・ドヌール勲章を授与されることになったが、数年前に夫がそうしたのと同様に辞退する。二人とも、どのような形であれ名誉勲章には反対だった。しかし友人たちの説得により、フランス科学アカデミー会員の候補者として立候補する。彼女の研究室によい影響があると考えてのことだったが、僅差で落選。当時のアカデミーは女性を正会員として受け入れる用意がなかった〔娘のイレーヌにも40年後、同様の経験が待っていた〕。
ノーベル化学賞
1911年、スクウォドフスカ=キュリーは2度目のノーベル賞に輝いた。単独での受賞で、新元素の発見と純粋なラジウムの抽出により、ノーベル化学賞を授与された。ノーベル賞を二つの異なる分野で受賞した初めての人物であり(1954年に化学賞、1962年に平和賞を受賞したライナス・ポーリング(Linus Pauling; 1901-1994)も同様の成功を収めた)、現在に至るまで、ノーベル賞を2回受賞した唯一の女性である。
1912年、ワルシャワ科学協会(Towarzystwo Naukowe w Warszawie)がスクウォドフスカ=キュリーに新しい放射能研究所の設立への協力を依頼。彼女は研究所の運営と組織を引き受けることに同意したが、フランスを離れるつもりはなく、二人の弟子、ヤン・カジミェシュ・ダニシュ(Jan Kazimierz Danysz; 1884-1914)とルドヴィク・ヴェルテンシュタイン(Ludwik Wertenstein; 1887-1945)に研究所の運営を委任した。1913年の開所式の折にワルシャワを訪れ、深い感動を覚える。彼女は次のように書いている:「私は素晴らしい歓迎を受け、胸を打たれた。そして、非常に困難な政治条件下において有用なものを築くことができるポーランド国民の熱意が、忘れられない記憶として心に残った」。
スクウォドフスカ=キュリーによる2回目のノーベル賞受賞、そして5年にわたる説得により、フランス政府は1914年、パリにラジウム研究所の設立を決定する。近代的な医療研究施設で、設備の整った研究所では放射能の研究が行われた。
戦時下の放射線医療活動
野戦病院のマリア・スクウォドフスカ=キュリーと娘イレーヌ、1914年。写真:Wydawnictwo Studio Emka
1914年に第一次世界大戦が勃発した時、スクウォドフスカ=キュリーはフランスの首都にいた。パリが攻撃を受ける危険性を考慮し、フランス政府が研究所のラジウムをボルドーに移すように命ずると、彼女はそれを自ら遂行し、パリに戻った。
自分の知識を医療に役立てる必要を感じたため、野戦病院の放射線科そして放射線治療科の組織化を主導する。主な任務はX線装置を運搬することで、これによって負傷者の救護活動は段違いに効果的になった。「Petite Curie(小さなキュリー)」と名付けられた移動レントゲン車も用意し、必要であればどこでも出動させた。このトラックを運転できるよう、当時、スクウォドフスカ=キュリー自身も大型車両の運転免許を取得。彼女の活動は個人の寄付や負傷者後援委員会(Le patronage national des blessés)の支援により可能となり、次第に大きく広がっていった。スクウォドフスカ=キュリーはこの仕事に非常に熱心に取り組み、多くの戦地を訪れて必要なものを把握し、病院の世話をするとともに新しい職員に機器の扱い方を教えた。兵役に適した男性が移送され、新しい職員を探す必要があったが、この分野では何より女性を教育することが大切だと考え、イーディス・キャヴェル病院(Edith Cavelle Hospital)の看護学校に放射線科を設置するよう働きかけた。1916年にラジウム研究所での講座(長女イレーヌも講師の一人となった)が始まり、単独での仕事もできる150人の助手が育成された。スクウォドフスカ=キュリーによるこれら全ての活動は放射線医学の意義と戦時下での発展を記し、ピエール・キュリー夫人の名で出版された著書『放射線医学と戦争』(1921)に描かれている。
戦後
1920年、ラジウム発見25周年記念に先立ち、フランス政府はマリア・キュリーに名誉年金を支給する法律を制定した(このような年金を最後に支給されたのは1874年、ルイ・パスツールだった)。1922年にはフランス医学アカデミーの准会員となった。
アメリカ人新聞記者ウィリアム・B・メロニー夫人(Mrs. William Brown Meloney; 本名Marie Mattingly Meloney; 1878-1943)の尽力により、1921年、スクウォドフスカ=キュリーは1グラムのラジウムと「マリー・キュリーラジウム基金」への募金を受け取るため、アメリカを訪れた。ラジウムと募金はすべてラジウム研究所に寄付された。
ポーランドに近代的なラジウム研究所を設立するという、彼女の夢の一つが晩年になって実現する。1925年にヴァヴェル通り(ul. Wawelska)に研究所を設立するための定礎式に参加するため、ワルシャワを訪れた。1932年の開所式への出席が、マリアによる祖国への最後の訪問となった。その時、パリの研究所と同様、アメリカ人の友人たちから受け取った1グラムのラジウムを寄付する。1951年、ラジウム研究所は腫瘍学研究所(Instytut Onkologii)に名前を変え、2021年から国立マリア・スクウォドフスカ=キュリー腫瘍学研究所(Narodowy Instytut Onkologii im. Marii Skłodowskiej-Curie)と呼ばれている。
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国立マリア・スクウォドフスカ=キュリー腫瘍学研究所、ワルシャワ。写真:Włodzimierz Wasyluk / East News
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1934年7月4日、アルプス山脈のサランシュ(Sallanches)にある療養所で白血病のため亡くなる。真の死因はラジウムへの長年にわたる被曝であり、異常な症状と血液検査の結果がそれを示していた。ソーの墓地にあるキュリー家の墓に近しい人々に囲まれて埋葬された。つつましい葬儀では、兄ユゼフと姉ブロニスワヴァがポーランドから運んできたひと握りの土を棺にかけた。1995年4月20日、彼女と夫の遺灰はパリのパンテオンに移され、安置された。
マリア・スクウォドフスカ=キュリーの生涯と功績は、ポーランドのみならず、世界中の人々にインスピレーションを与え、多くの小説、伝記、伝記映画やその他の文化的な作品が生まれた。中でも特別なのは、次女エーヴ・キュリー=ラブイス(Ève Curie-Labouisse; 1904-2007)によって執筆され、1937年に出版された伝記である。この本は80カ国で出版され、すぐにベストセラーになった。マリア・スクウォドフスカ=キュリーの名は、月と火星のクレーター、ノルウェー領スピッツベルゲン島の山、元素キュリウム(curium)や鉱物の名前に冠されている。男性によって規則が決められていた世界で、傑出した女性科学者、そして先駆者としてその名を歴史に刻んだ。
執筆:アレクサンドラ・ボグツカ(Aleksandra Bogucka)、2025年5月21日最終改訂
日本語訳:柴田恭子(Yasuko Shibata)、2025年6月
参考文献:
Curie, E. (2015). Maria Curie. Biografia. Warszawa: Oficyna Wydawnicza RYTM.〔エーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』河野万里子訳, 白水社, 2014年〕
Estreicher, T. (1983). "Curie Maria" w Polskim Słowniku Biograficznym. T. IV(ポーランド伝記辞典第4巻). Kraków: Polska Akademia Umiejętności.
Goldsmith, B. (2005). Geniusz i obsesja. Wewnętrzny świat Marii Curie. przeł. Jarosław Szmołda, Wrocław: Wydawnictwo Dolnośląskie.〔バーバラ・ゴールドスミス『マリー・キュリー フラスコの中の闇と光』竹内豊訳, WAVE出版, 2007年〕
Skłodowska-Curie, M. (1960). Autobiografia. Warszawa: Państwowe Wydawnictwo Naukowe.