織り糸のドラマ――戦後ポーランドの美術織物がたどった運命
ポーランドで公共展示施設の倉庫を探検すれば、共産主義時代に集められた美術織物がたくさん見つかるはずだ。当時のポーランドでは前衛的な構成主義者やアールデコの装飾家たちが織物の実験を試みる一方、国際的な名声を得たマグダレナ・アバカノヴィチにあやかろうと、二番煎じの模倣者も続出した。
織物という芸術媒体は1960年代に黄金時代を迎えた。織物ブームは1970年代まで続き、その後急速に衰える。今日、織物はグラフィック手法と似た地位にあり、保守的なアカデミアの壁の中でかろうじて評価される種々の表現方法と同じく、ほぼ「死んでいる」技法だ。しかし時に、一部のアーティストによって一時的に復活し、彼らの基本的な手法の一つになることもある。
モダンな民芸
ポーランド南部、タトリ山脈のふもとの街、ザコパネ(Zakopane)が生んだ芸術伝説の主役は何より20世紀初頭、ヴィトカツィ(Witkacy; 本名Stanisław Ignacy Witkiewicz; 1885-1939)を中心とするボヘミアン・アーティストだが、ザコパネは卓越した教育者の揺籃の地でもある。アントニ・ケナル美術学校(Zespół Szkół Plastycznych im. Antoniego Kenara)は1870年代、木製民芸品の作家を養成する木彫りの学校として設立された。大戦間期になると、学校の最初の改革者、カロル・ストリイェンスキ(Karol Stryjeński; 1887-1932)がザコパネを含むポーランド高地、ポトハレ(Podhale)地方で宗教的な小像を彫っていた少年たちに近代彫刻の理想を吹き込み、地域の職人の伝統をキュービズムの彫刻形式と調和させる特異な現象を引き起こし、これを発展させた。ストリイェンスキの精神を継承したアントニ・ケナル(Antoni Kenar; 1909-1956)により、1950年代末までこの創造的な活動の均衡が保たれた。
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タデウシュ・ブジョジョフスキ、マリア・ブヤコヴァ《ランナーたち/競走(Biegacze/Bieg)》、1956年。キャンバスに刺繍と金襴織、310cm ×190cm。写真:スポーツ観光ミュージアム、ワルシャワ
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ケナル美術学校で教鞭を執った画家、タデウシュ・ブジョジョフスキ(Tadeusz Brzozowski; 1918-1987)と「織物のザコパネ派」の卓越したアーティスト、マリア・ブヤコヴァ(Maria Bujakowa; 1901-1985)の共同制作がもっとも効果的な形で結実した一つが《象牙の角笛(Olifant)》(1956)だった。ほとんど抽象的と言ってよい作品で、ブヤコヴァが織物という媒体の価値を最大限に引き出し、いくつもの見事な技法を提示した。二人のアーティストの協力は、メルボルン・オリンピック(1956)に際して開催されたコンクールのためにブジョジョフスキがデザインした3つの織物作品を、ブヤコヴァが制作した折に始まった。これらの作品は現在、ワルシャワのスポーツ観光ミュージアム(Muzeum Sportu i Turystyki)のコレクションの一部になっている。
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ヴォイチェフ・サドレイ《オリンピック・タペストリー》、1975年。写真:スポーツ観光ミュージアム、ワルシャワ
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オリンピック・コンクールには、織物を用いたもっとも独創的なアーティストの一人、特に絹地への絵画で知られるヴォイチェフ・サドレイ(Wojciech Sadley; 1932-2023)も参加した。ブヤコヴァやブジョジョフスキと同時期に創作活動を開始したが、作品の大きさの面からも強い印象を与える作品、《オリンピック・タペストリー(Gobelin Olimpijski)》はその20年後に生まれた。サドレイは織物に他の媒体の形式的な技法を取り入れた。現代の美術批評家エヴァ・タタル(Ewa Tatar)が述べるように、「ピクセル化の手法は、当時の印刷技術と雑誌のグラフィックに着想を得たことを示して」いる。
ヴワディスワフ・ハショル《バロック・イコン(Ikona barokowa)》1968年以前、アッサンブラージュ。ノヴィ・ソンチュ地域博物館(Muzeum Okręgowe w Nowym Sączu)のコレクションより
同じ頃、ヴワディスワフ・ハショル(Władysław Hasior; 1928-1999)は、ポトハレ地方の民俗伝統に対する別のアプローチを提示していた。彼は自身の代表的な作品である布製の幟(のぼり)を、様々な物体をこれでもかと寄せ集めたアッサンブラージュ作品に仕立てた。作品には、いくぶんシュルレアリスム的な形式の中に、ギェレク政権下〔1970-1980年。所得政策・外資導入で国民による消費が促された〕つまりプロト資本主義の時代の地方文化が反映され、安っぽい大衆製品や最新の電子機器がひそかに入り込んでいる。同時に、ハショルの幟は神聖な雰囲気を醸し出し、ザコパネ周辺の村を練り歩く行列(ハプニング)では、あたかも教会行事の幟であるかのように、うやうやしく運ばれた。
織物の拒否と受容
1960年代と1970年代、織物はマグダレナ・アバカノヴィチ(Magdalena Abakanowicz; 1930-2017)に名声への入り口を開いた。抽象的で空間的な作品《アバカン(Abakan)》は、当時権威のあったローザンヌ国際タペストリー・ビエンナーレで彼女に勝利をもたらした。しかし後年になり、アバカノヴィチは自身のキャリアのこの段階からは距離を置き、彫刻家としてのアイデンティティを強調するようになる。彼女はこう述べている:
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《アバカン》は国際的な名声をもたらしましたが、それは認めることのできない、罪のような重荷となりました。織物の制作によって、芸術の世界の扉が閉ざされてしまうからです。
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マグダレナ・アバカノヴィチ《赤のアバカン(Abakan czerwony)》1969年。写真:EFE/ MG/Forum
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これは織物というメディアに愛着を持つアーティストたちにとって裏着り行為だったが、アバカノヴィチ自身の業績の観点からも、かなり不運な態度だった。美術批評家カロリナ・プリンタ(Karolina Plinta)は次のように評価する:
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〔……〕同様の理由で彼女はフェミニズムからも距離を起き、自分の作品にこめられた普遍的な価値をしきりに強調した。これはもちろん、アバカノヴィチの作品に対する、新しい、斬新な解釈が、まさにフェミニズムの立場からなされたことを考えると、逆説的である。〔……〕しかし、フェミニスト的な意味づけは後になってからされたことで、アバカノヴィチ自身は1970年代に織物の制作をやめることを決めた。織物作家ではなく、彫刻家になるためだ。
アバカノヴィチの場合、織物からの決別は、作品の受容の観点のみならず、創作活動の展開という点からも行き詰まりを意味した。布を用いた抽象的な《アバカン》は、ポストミニマリズムの先駆者であるエヴァ・ヘッセ(Eva Hesse; 1936-1970)のようなアーティストの作品と比較できるが、その後、麻袋と樹脂、また石などの非常に伝統的な彫刻材を用いて作られた大掛かりな人間の彫像は、今日、防虫剤の臭いを放ち、悲哀のオーラを漂わせている。1990年代から2000年代にかけてポーランドの現代美術の標準を一新した「ラステル(Raster)」のクリエーターたちは、これらの作品を「ホルマリン(防腐剤)」と呼んだ。
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マリア・ピニンスカ=ベレシ《エロティックなおくるみ(Becik erotyczny)》1974年。写真:ギャラリー・ラビリント広報資料
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Maria Pinińska-Bereś, "Becik erotyczny", 1974, fot. materiały prasowe Galerii Labirynt
「ラステル」のアーティストたちはロマン主義的な、強靭な男性像の図像表現を好んだイェジー・ベレシ(Jerzy Bereś; 1930-2012)の作品に対しても、同様の基準から皮肉のこもった冷ややかさで接した。これと明らかに反対のイメージで業績を築いたのはマリア・ピニンスカ=ベレシ(Maria Pinińska-Bereś; 1931-1999)である。アバカノヴィチのような、どちらかというと「男性」を連想させる方向には逃げず、バラ、織物や家のモチーフ等、意図的に「女性らしさ」の属性を活用した。アバカノヴィチの《アバカン》は美術織物というカテゴリーから解放され、「柔らかい彫刻」と呼ばれたが、この表現は、ピニンスカ=ベレシのいくつかの作品にそのまま当てはめることができる。その一つ、《私の素敵な小部屋(Mój uroczy pokoik)》(1975)は、キャンバス生地で柔らかいスポンジを覆う、彼女に特徴的な技法で作られ、少女趣味でエロティックな色のバラをモチーフにした、小さな寝屋である。
ピニンスカ=ベレシは同様に繊細な手段で、様々なパフォーマンスを通じて社会で周縁化された女性の地位に言及した。これは自分の夫、イェジー・ベレシのパフォーマンス作品に対する反論でありつつ、それだけではなかった。クラクフの前衛芸術グループに属していたピニンスカ=ベレシは、タデウシュ・カントル(Tadeusz Kantor; 1915-1990)のスペクタクル・アクションに参加した。1967年のカントルの有名なハプニング《手紙(List)》には、彼女が実施した《凧――手紙(Latawiec – list)》(1976)との関連が見て取れる。このアクションではカントルの巨大な封筒が凧に置き代えられ、列をなす群衆の役はピニンスカ・ベレシが一人で担った。カントルの作品のようにワルシャワ中心部で行進する代わりに、クラクフ北部の地区、プロントニク(Prądnik)の野原でアクションが起こされ、アーティストが引きずる凧が空中に舞い上がった時、そこに集まった少数の観衆が目にしたのは「私がかつて存在し、そして今もいて、ごめんなさい」という、ピンク色の文字で書かれたメッセージだった。
現代廃墟の刺繍女子
パウリナ・オウォフスカ《オクシャ》、2014年、タペストリー。写真:Jerry Birchfield / MOCA Cleveland、Metro Pictures提供
ピニンスカ=ベレシのシニカルな姿勢と無縁ではない現代の女性アーティストたちは、タペストリー、壁掛けやその他の織物に対して、アイロニーをもって対峙する。例えば、織物をよく用いるアリツィヤ・ビェラフスカ(Alicja Bielawska)のインスタレーションは、モダニズムの美学に通ずる、無駄のない構造をしている。ミニマリズムにもかかわらず、そこに冷たさはなく、織物が独自の方法で作品の中に取り込まれ、なじみ、「心地よさ」さえ感じられる。
モダニズムの遺産をよりはっきりとした形で取り入れたのは、ユリタ・ヴイチク(Julita Wójcik)だ。バルト海に面した街、グダンスク出身で、「ポーランドならではの」技法と状況を用いるこのアーティストは、2005年―2006年、グダンスクの「波打つアパート(falowiec)」の小さな模型をかぎ針編みで制作した。社会主義モダニズムの住宅建築の成功した例の一つで、その大きな規模のために圧倒感のあるアパートだ。ヴイチクは刺繍によってこの建築を思いのままに操り、ポーランド人民共和国製のサイドボードに載せるのにぴったりの、可愛らしい「飾り」へと変えてしまった。
一方、パウリナ・オウォフスカ(Paulina Ołowska)の織物へのアプローチは、より抽象的で詩的だ。オウォフスカは2014年、ザコパネのタトリ博物館(Muzeum Tatrzańskie)で開催された「はかないミューズたち(Wątłe muzy)」展でタペストリー作品《オクシャ(Oksza)》を制作した。作品のタイトルは、展覧会の会場となった博物館の分館、ヴィラ・オクシャ(Willa Oksza)に言及している。ヴィトカツィの父でザコパネ様式の創始者、スタニスワフ・ヴィトキェヴィチ(Stanisław Witkiewicz; 1851-1915)がこの様式で設計した別荘建築の一つである。重厚でかなり大きなタペストリーは、数十年前のローザンヌ国際タペストリー・ビエンナーレで披露された作品を思わせる。かつて産業で栄えたが、1989年の体制転換後、過疎化が進む地方の一つへと追いやられたザコパネのいわば過ぎ去った時代を、ある意味で記念するような作品になっている。1970年代の匂いがするこのタペストリーは、織物ではなく、ザコパネやクラクフと同じマウォポルスカ県の街、タルヌフ(Tarnów)の窒素プラントで回収されたプラスチック廃棄物で作られている。
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フランチシェク・オルウォフスキ《風除けカーテン(Wiatrołap)》、2013年(ザヘンタ国立美術館「織物の輝き」展の様子、ワルシャワ、2013年)写真:ザヘンタ国立美術館
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したがって、織物は社会的なメッセージをこめたアートの手段として役割を果たすことができる。1990年代のクリティカルアートの精神を受け継ぐフランチシェク・オルウォフスキ(Franciszek Orłowski)は、ホームレスと自分の衣服を交換するパフォーマンスなどで知られ、ザヘンタ国立美術館での「織物の輝き(Splendor tkaniny)」展のために彼が準備した作品にも、このアイディアが用いられている。展覧会会場の入り口に設置されたカーテンはホームレスの衣服から作られ、展覧会のタイトルになっている「輝き」からはかけ離れている。来場者は会場の奥へと進み、主に歴史的、そして純粋に装飾的な織物を鑑賞するためには、このカーテンを通り抜けなければならなかった。
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モニカ・ドロジンスカ、連作《練習(Ćwiczenia)》より。写真:アーティスト提供
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モニカ・ドロジンスカ(Monika Drożyńska)にとっては、刺繍が社会的・政治的な発言や一市民の立場、または個人の怒りを表明するための手段となった。例えば、花モチーフの装飾をほどこした壁掛けは、寄宿学校の女生徒たちがかつて「教育」の一環として行なった花の刺繍にシニカルに言及するもので、ホワイト・キューブのギャラリーの壁に美しく飾られた。また、列車の座席シートに「黒い抗議運動」〔2016年10月に始まった、人工妊娠中絶禁止法案、女性が持つ権利の制限に反対する大規模なデモ活動〕への参加を呼びかけるメッセージを刺繍する、公共物の破損活動もあった。ドロジンスカはあるインタビューで次のように述べている:
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緊張がほぐれるんです。刺繍で怒りや不満を発散させながら、同時に楽しんでいます。他の人と同様、私も色々な問題を抱えていますが、刺繍は、強迫感から来るありとあらゆる私の行動の中で、一番健康的です。
筆者:ピョトル・ポリフト(Piotr Policht)
日本語訳:柴田恭子(Yasuko Shibata)