クリコ2の第二回公演は、画家で劇団員であったカジミェシュ・ミクルスキKazimierz Mikulskiの戯曲に基づく『サーカスCyrk』で、ここでは当時のカントル演劇に特徴的な要素、アンバラージュ/梱包(ここでは俳優たちをびっちりと包んだ黒いプラスチック袋)が現れている。アンバラージュには俳優と物からあるべき形を奪い、見分けのつかない物質へと変える意図があった。このアンバラージュは次の「アンフォルメル演劇teatr informel」(1960-62)-偶然性・物体の動きに任せた自動演劇へと繋がっていく。「アンフォルメル演劇」-ヴィトキェヴィチの戯曲に基づく『小さなお屋敷でW małym dworku』(1961)では、舞台上の俳優たちは物と同様に扱われ、完全に個性を奪われた。
しかし「アンフォルメル演劇」にカントルは満足しなかった。内部的に十分に統合されておらず、多くの構成要素が削る余地を残していたからである。このためカントルは「アンフォルメル演劇」の理念を「ゼロ演劇teatr zerowy」(1962-1964)のコンセプトに替え、一切の行為・出来事を排した。このコンセプトは1963年に上演された、ヴィトキェヴィチの戯曲に基づく『狂人と尼僧Wariat i zakonnica』において完成された。
カントルは演劇の実践と美学を進化させ、伝統的な理解での演劇の境界を超えた。1965年にポーランド初のハプニング『クリコタージュCricotage』と『境界線Linia podziału』が実現された。ハプニングはカントル自身が書いているように、それ以前の演劇・絵画活動の延長線上にあるものだった。
ハプニングに失望したカントルは再び演劇に戻った。1972年にはヴィトキェヴィチの戯曲に基づく『美男美女と醜男醜女』が上演され、そこではハプニングの要素が演劇に昇華されていた。三年後に上演された『死の教室』によって、カントルは「死の演劇teatr śmierci」と名付けた新たな潮流の展開を始めた。そしてカントルの最も優れ、最も有名な演劇はこの潮流に属している: 『ヴィエロポーレ、ヴィエロポーレWielopole, Wielopole』(1980),『くたばれ芸術家Niech szczezną artyści』(1985),『私は二度とここには戻らないNigdy już tu nie powrócę』(1988),そして死後に発表された『今日は私の誕生日Dziś są moje urodziny』(1991)。これらの演劇の主なモチーフは死、儚さ、記憶、記憶に刻まれた歴史だ。カントルの作品全体に一貫して見られる「最下等の現実Realności Najniższej Rangi」のコンセプトが、「死の演劇」の作品でははっきりと前面に出ている。
「カントルについて、20世紀後半における屈指のポーランド人芸術家だと語るのでは足りない。ポーランド芸術にとってカントルは、ドイツ芸術にとってのヨーゼフ・ボイス、アメリカ芸術にとってのアンディ・ウォーホルである。全く独創的な演劇的ヴィジョンを創造し、ネオ・アヴァンギャルド革命に積極的に参加し、独自の理論を展開し、伝統に深く根ざした革新者であり、アンチ絵画の画家、ハプニングの異端児、皮肉のコンセプチュアリスト-これはカントルの持つ顔の一部に過ぎない。それだけではなく、カントルは戦後ポーランドの芸術界を精力的に牽引し、その主な推進力の一つであったと言っていい。カントルの偉大さはその作品によるものというより、カントルの芸術、理論、人生によって構成される一つの全体、「総合芸術」としての彼自身が偉大なのである。」(ヤロスワフ・スハンJarosław Suchan,「タデウシュ・カントル. 不可能Tadeusz Kantor. Niemożliwe」展キュレーター)
Autor: Małgorzata Kitowska-Łysiak, Instytut Historii Sztuki Katolickiego Uniwersytetu Lubelskiego, Katedra Teorii Sztuki i Historii Doktryn Artystycznych, 2002.
日本語訳:YA、2019年12月 20日