愛の建築:建築物に刻まれた想いの物語
狂おしいほどの心の高まりに破壊的な嫉妬、裏切りに墓場までも続く信頼関係、盛大な結婚式、はたまた秘めた恋愛 ―― 愛には多くの色合いと形がある。大きな心の高ぶりと愛による恐ろしい犯罪という物語は、建築物からも語られる。
ロココ調のハーレム

グラプキ・ドゥージェの宮殿。写真:Witold Skrzypczak/Reporter
城主(カシュテラン/kasztelan)スタニスワフ・ルプニェフスキ(Stanisław Rupniewski, ? -1764)の経歴を語るのは容易ではない。なぜなら、何が真実で何が言い伝えなのか、自身がたどった運命について自分で書き加えたのはどこで、後年別の人の手によって書き足されたのはどこなのかが、はっきりしないからだ。最も確実なのは8歳の時、すなわち1698年頃のことだが、大領主(マグナート/magnat)ルプニェフスキがトルコの捕虜となり、そこで少なくとも10年間を過ごしたということだ(言い伝えによれば、第二次ウィーン包囲に参加したため、捕虜になったという)。自分の領地に戻った後は、自分の支配下の農民に対しては横暴なふるまいをし、女性に対しては大きな関心を寄せた ―― 常に美しい女性たちに囲まれていたという。トルコ人と接触した結果、ルプニェフスキはイスラム教に改宗し、東洋文化に触発されてか、……ハーレムまで作ることにした。1740年代、シフィェンティクシシュ県のシドウフ(Szydłów)近郊にあるグラプキ・ドゥージェ(Grabki Duże)というところに、ロココ調の宮殿を建てた(フランチシェク・プラシディ(Franciszek Placidi, 1710/1715-1782)によって設計された)。この八角形の建物は、中央に主室があり、その周囲に4つの小さな部屋が隣接している。2階には、居住用の小さな部屋が並んでいる。城主ルプニェフスキが実際にグラプキ・ドゥージェの宮殿にハーレムを持っていたかどうかは、決して分からないだろう。その名残は、東洋のインスピレーションと後期バロック様式の装飾が融合した、美しいロココ調の建物だ。現在この建物は私有財産であり、外観のみ見学することができる。
恋人たちの街

ヘウムノ旧市街の眺め。写真:Marzena Hmielewicz/AG
9つの丘の上に位置するヘウムノ(Chełmno)は、ポーランドで最も古く、最も絵のように美しい街の一つだ。またこの街の旧市街は、欧州ゴシックレンガ街道(European Route of Brick Gothic)に登録されている。ヘウムノは、歴史上確固たる地位を築いてもいる。1233年にドイツ騎士団により与えられた、いわゆるヘウムノ法という立地特権は、18世紀までポーランドの町や村を設立する際のモデルとなった(この特権に基づいて、ワルシャワなどが建設された)。それほど大きくないヘウムノには、中世の都市構造が残されており、防壁で閉ざされ、その上方には、ゴシック様式の6つの教会やルネサンス様式の市庁舎の塔がそびえている。ビドゴシチ(Bydgoszcz)とグルジョンツ(Grudziądz)の間に位置するこの歴史遺産の町が、どうして「恋人たちの街(miasto zakochanych)」(特許庁に登録された名称)として認定されることになったのだろうか。恐らく既に中世の頃、聖ヴァレンティヌス(ヴァレンタイン)の聖遺物がヘウムノへと運ばれた。恋人たちの守護聖人として崇拝され、現代では商業化されている人物だ。町の当局はこの聖人の象徴的な存在を利用して、美しい街の名を広めることにした。ここではもう何年も前から、愛を高揚させるようなイベントが行われたり、恋人たちのベンチや、ロマンチックなデートにぴったりの隠れ家が作られたりしている(中世の城壁に囲まれた街では、そんな場所を見つけるのは難しくない)。これらの取り組みの一部は商業的な動機によるものだが、ヘウムノは確かに訪れる価値のある場所だ。ポーランドでこれほど魅力的な街はあまりないのだから。
トルコの家

クラクフのドゥーガ通りとペンジフフ通りの交差点にあるトルコの家、2017年。写真:Grzegorz Kozakiewicz/Forum
1885年、クラクフのドゥーガ通り(ul. Długa)とペンジフフ通り(ul. Pędzichów)の角に、3階建てのカミェニツァ(kamienica、石造りの共同住宅)が建てられた。その四半世紀後、カミェニツァの新しい所有者アルトゥル・テオドル・ライスキ(Artur Teodor Rayski)がもう一階増築し、そのてっぺんには……3つのミナレット(イスラム教のモスクの尖塔)を冠した。これは大変珍しい設計で(幸いなことに、カミェニツァは当時からほとんど変わっていないため、今日でもそれを見ることができる)、愛を表現したものであるはずだった。アルトゥル・テオドル・ライスキはプロテスタント信徒だったが、言い伝えでは、エジプト人女性と結婚するはずで、よその町でも故郷のように感じられるよう、まさに彼女のためにこのミナレットを建設したのだった。ライスキのこの行いは、クラクフに住むカトリック信徒には好まれなかった。それで、ある種の「報復」として、住民たちはカミェニツァの入口に聖母像を置いたのだった(この像は今でも置かれている)。この話はどちらかといえば都市伝説だが、クラクフにあるトルコの家は、それを取り巻く愛の物語についての言い伝えがあることで、人々の関心を呼び起こしている。
エステルカの不動産

ラドムにあるエステルカの家、写真:Marcin Wołoszczak/AG
若く美貌のユダヤ人女性、エステルカ(Esterka)は、カジミェシュ3世(大王)(Kazimierz Wielki, 1310-1370)の数ある愛人の一人だった。しかし王は、他の側室よりも好意を抱いていたようで、多くの不動産を与えていた。最も重要なのは、ボホトニツァ(Bochotnica)の城だろう。カジミェシュ・ドルヌィ(Kazimierz Dolny)にある王の居城と、地下にある秘密の通路でつながっていたようだ(どちらの城も遺跡が残されている)。この二つの城が隣り合っていたおかげで、王は愛する人と頻繁に会うことができたのだった。
ヤン・ドゥウゴシュ(Jan Długosz, 1415-1480)は年代記に、この王とエステルカの恋愛について書いているが、カジミェシュ大王とエステルカとの間には二人の息子がいたとまで述べてはいるものの、エステルカが実在したかどうかは定かではない。それにもかかわらず、多くの街で彼女の痕跡を見かけることができる。地元の言い伝えを信じるなら、カジミェシュ大王は愛しのエステルカに、互いにかなり離れた場所に点在するが、少なくとも数件の不動産を贈ったようだ。なぜなら今日でも、オポチュノ(Opoczno、現在は市立図書館が入っている)、ラドム(Radom)、ジェシュフ(Rzeszów)、ヴィシリツァ(Wiślica)、サンドミェシュ(Sandomierz)などが、エステルカの家のある場所として知られているからだ。クラクフのカジミェシュ地区にはエステルカの家(現在では民俗学博物館の拠点がある)だけでなく、彼女の名を冠した通りもある。
門の下の愛

グダンスクのウ・フルティ通り3番地にある、かつての聖霊病院養護施設のバロック様式の入口
グダンスクの小さなウ・フルティ通り(ul. U Furty)3番地に、かつての聖霊病院養護施設が建っている。建物への入口の一つには、二人の老人の像が飾られている。何世紀も前にグダンスクに住んでいた、アンナ(Anna)とヤクプ(Jakub)だ。どちらも貧しい家庭に育ち、聖マリア教会に隣接した貧困家庭の子どもたちのための学校へ通っていた時に知り合い、そして恋に落ちた。結婚資金を貯めるため、ヤクプは愛する人の元を離れ、船乗りとして働きに出た。アンナはとても長いことヤクプのことを待っていた。時は流れた。だが、アンナは新しい家庭を築くことはなかった。たとえ30年でも待っている、とヤクプに約束したから。とうとうアンナは一生貧しい暮らしをし、老いてしまった。ある日、アンナが聖霊病院養護施設の門のところに座っていると、その隣に貧しい老人が腰をおろした。アンナはそれがヤクプだと気がついた……。愛するヤクプは何十年もの間、トルコの捕虜として囚われていたのだった。
恋人たちは老いてから再び結ばれ、二人の悲しい物語は街中に知られることになった。1690年、聖霊病院保護施設が改築された際、老いた二人が老後を共に過ごした救貧院の入口に彼らを模した像を飾ることで、二人を偲ぶことにしたのだった。
すべてはマリシェンカのために
ヴィラヌフ宮殿の庭園。写真:Wojciech Wojcik/Forum
ポーランド王ヤン3世ソビェスキ(Jan III Sobieski, 1629-1696)が妻マリシェンカ(Marysieńka, 1641-1716)に抱いていた深い愛情については、子どもたちでさえ学校で習っている。この王が妻を深く愛していたという証の一つに、妻のために建てた邸宅が挙げられる。「マリー・モン(Marie Mont)」(マリモント(Marymont))は、ヴィスワ川の川岸に位置する、緑に囲まれた小さな宮殿で、夏の離宮であり、マリシェンカのお気に入りの場所だった。1691年から1696年にかけて、バロック時代の傑出した建築家、ティルマン・ファン・ガメレン(Tylman van Gameren)により設計された。ソビェスキの死後、アウグスト2世(August II, 1670-1733)は宮殿を狩猟用のパビリオンに改築した。その後もこの建造物は、何度も形、所有者、機能を変えていった。現在、その敷地には教会が建っており、かつてマリシェンカ王妃が散歩を楽しんだ緑の敷地はカスカダ公園(Park Kaskada)となっている。国王夫妻の愛の名残は、もちろん、その主な邸宅であったヴィラヌフ宮殿(Pałac w Wilanowie)にも数多く見つけられる。
嫉妬に病んで

シャモトゥーイにあるハルシュカの塔(Baszta Halszki)。写真:Wojciech Stróżyk/Reporter
1552年に後のポズナン県知事、ウカシュ・グルカ(Łukasz III Górka, 1533-1573)が、シャモトゥーイ(Szamotuły)の城を改造した時、彼がどんなに残酷な人なのか、誰一人として予期する者はいなかった。この新たな所有者は、中世の建築物を新しいルネサンス様式に改築する一方で、敷地内で最も古い建造物であった防衛塔を、居住用に改築した。そして、ジグムント1世スタルィ(Zygmunt I Stary, 1467-1548)の、美しく裕福な孫娘、エルジュビェタ(Elżbieta Ostrogska, 1539-1582)〔愛称はハルシュカ(Halszka)〕王女を妻に娶ることにした(当時、文字通り、ポーランド国内外の多くの独身男性が、競って彼女に求婚していた。何度か誘拐されたことも、結婚を強制されたこともあったが、結婚は認められなかった)。エルジュビェタは、グルカとの見合い結婚に同意していなかったので、嫉妬深く、独占欲の強いこの夫は、敷地内にある、レンガで造られた中世の塔に妻を閉じ込めてしまった。エルジュビェタはそこで孤独な14年間を過ごした。外に出られたのは、週に一度だけ ― 日曜日に、地下の通路を渡って近くの教会のミサへ行くときだけだった。王妃は重いうつ病に陥り、残酷な夫より長生きしたものの、もう二度と回復することはなかった。そして1582年に43歳で亡くなった。シャモトゥーイの城の塔では、今でも「黒い王女」の幽霊となったエルジュビェタを見ることがあるという。
王の代理人

ワジェンキ公園の隠れ家、写真:Krzysztof Chojnacki/East News
ポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(Stanisław August Poniatowski, 1732-1798)は、ロシア女帝エカチェリーナ2世と恋愛関係にあったと言われているが、もちろんこの支配者がポーランド王の唯一の愛人というわけではなかった。王は社会の下位階層からも最上級階層からも、様々な女友達を選んでいた。フランス人女性アンリエッタ・リュリエ(Henrietta Lullier)は、ポニャトフスキがパリに滞在していた1753年に王の愛人となった。リュリエは占い師であり、その時ポニャトフスキに、間もなく王位に就くだろうと予言したという。そのことがきっかけで、ワルシャワで二人は再び連絡を取り合ったのだろうか。王はルリエルカ(Lulierka)(首都ワルシャワでは、このように呼ばれていた)に、クラコフスキェ・プシェドミェシチェ通り(Krakowskie Przedmieście)にあるカミェニツァを贈った(建物は1865年に取り壊された。今も残されている、ワルシャワ慈善協会「Res Sacra Miser」本部のすぐ隣りにあった)。アンリエッタは王の代理人で、ロシアやプロイセンの要人との接触を取り計らい、王のために他の女性たちとの面会も手配していた。クラコフスキェ・プシェドミェシチェ通りのカミェニツァは、長年にわたり、街中で有名な逢瀬の場として知られていたという。
一方ルリエルカの夏の離宮は、ワジェンキ公園にあるエルミタシュ宮殿(pałacyk Ermitaż w Łazienkach)だった。ここでこのフランス人女性は、豪華な宴やパーティーを行った。それは享楽と解放を求めるワルシャワのエリート階級を引き寄せたが、保守派の間では、不道徳だと非難された。贅沢で気ままな生活は、おそらく彼女に良い影響を与えたようで、当時としては長寿と言える86歳まで生き、ポヴォンスキ(Powązki)墓地に埋葬された。
執筆:アンナ・ツィメル(Anna Cymer)、2018年2月9日
最終更新:2025年11月17日
日本語訳:スプリスガルト友美(Tomomi Splisgart)