ミュージシャン・シンガーソングライターのロベルト・ブリレフスキ(Robert Brylewski)の表現によれば「移り気」な性質のワルシャワのクラブ文化は、どのように始まったのか。その実情を知る上でよい導入となっているのが、ピョトル・ドミニク(Piotr Dominik)とトマシュ・ロズビツキ(Tomasz Rozbicki)によるビデオ作品《Warszawa 1988-1989(ワルシャワ1988年―1989年)》の展示だ。この作品には後年、エミル・マヘジンスキ(Emil Macherzyński)がPalcolorの音楽をつけている。
VHSカメラで撮影されたこの作品には、暖房設備の近代化が行われる以前のコンクリート住宅団地や、聖母マリアの祠(ほこら)が必ずといって良いほど併設されている、石造り住宅建築の中庭や井戸が映されている。戦後に再建されて以来、ペンキが塗り替えられていない壁はグラフィティで覆われ、「ポーランド統一労働者党は闘う」、「SK8」、「サイキックTV」、「つるピカのお月様」、「LEGIA〔ワルシャワのサッカーチーム〕はキング」など、時代ごとのサブカルチャーや政治的な高揚感が表されている。「我らは戦争を欲する」というスローガンまで書かれており、これは消されているが、読むことはできる。そこかしこに「連帯」の文字が消されているのも見て取れる。
さらに、ペヴェクス〔共産主義時代、米ドルを始めとする外貨によって西側諸国の商品や高級品を買うことができた店〕やPKO銀行の壁面広告、そしてエンジンオイル会社エルフ(Elf)やメルセデスの広告が掲げられている。もっとも、当時ワルシャワの通りを走っていた車はまだ大型フィアットや小型のマルフ(Maluch)〔1973-2000年に伊フィアット社のライセンス下で作られた「Polish Fiat p126」。「小さいやつ」を意味するマルフの愛称で呼ばれた〕だった。いわゆるヴィルチェク法(Ustawa Wilczka)〔当時の商業大臣ミェチスワフ・ヴィルチェク(Mieczysław Wilczek)と首相ミェチスワフ・ラコフスキ(Mieczysław Rakowski)の法案を元にした、1988年12月23日付の自由主義的な起業促進法〕に刺激されて開業した様々な小規模商店の看板が、「エヴァのミニ・バーにようこそ」、「中庭でマングル(ローラー式アイロン)」、「ジャネットのレンタル・ウェディングドレス・タキシード・燕尾服」などの文句で、早くもひしめき合っている様子は、今の視点から見るとなかなか味があり、まだ目にうるさいほどではない。
これに加わるのが、空手教室の広告や、チャック・ノリス主演の映画、アイアン・メイデン〔英ヘヴィメタルバンド〕の新アルバムの広告、アカデミア・ルフ(Akademia Ruchu)〔1973年にワルシャワの大学生によって設立された演劇グループ〕の出し物の宣伝、MCマレク・シェロツキ(Marek Sierocki)によるスーパーディスコへの招待、ポーランド人民共和国〔共産主義政権下のポーランド〕でのドイツ連邦共和国〔西ドイツ〕文化デーを宣伝するポスター、中国大使館前でのデモと天安門事件犠牲者への追悼キャンドルを呼びかける横断幕だ。最後に、(当時の)勝利広場(plac Zwycięstwa)〔現在のピウスツキ広場(plac Piłsudskiego)〕での軍隊パレード、そしてその前に、学生クラブ「ヒブリディ(Hybrydy)」で行われたボヘミアン・パーティの写真がある。1980年代の終わりまで、ワルシャワにはこのような学生クラブしか存在しなかった。名前を挙げれば、「ストドワ(Stodoła)」、「レモント(Remont)」、「プロクシマ(Proxima)」、 「パルク(Park)」や「カルゼラ(Karuzela)」などがあり、「カルゼラ」を除いて、現在まで営業している。展覧会の後半では、こういった街の日常生活の基盤についての展示がやや弱いのが残念だ。と言うのも、1988年のワルシャワと2014年のワルシャワは、全く違う街だからだ。
続く体制転換期のオーディオ・ビジュアル資料は、1987年、フウォドナ通り(ul. Chłodna)とトヴァロヴァ通り(ul. Towarowa)の交差点にあったインテルサルト(Intersalto)サーカスのテントで開催された、「ルブレゲ(Róbrege)」フェスティバルで撮影された映像作品である。これを展示会で見せるのは、来場者に手がかりを与えることができ、よい考えだと思う。と言うのも、たとえ音楽スタイルは異なっても、その後のクラブ運営の多くも「Do It Yourself」のパンク精神に近い考えで多額の資金なしに開業され、利益が出るかどうかギリギリのところで運営されていたからだ。クラブを人気スポットにするには、たいてい次の手順を踏めばよかった。まず、交通の便がよい場所にあるかつての産業空間を探して(これは当時、難しいことではなかった)借りる。それから荷役台でバーを作り、ゴミ捨て場やフリーマーケットで見つけてきた家具を店内に据え、チラシをコピーする。そうすると、ちょっと古風なポーランド語のスラングで言えば「ギターが鳴る(gra gitara)」、つまりうまく行く。
ここで、「もう一つの歴史」〔教科書に出てくるような、公の視点から語られる歴史ではなく、人々の生活やさまざまな視点を表す歴史〕にまつわる問いが出てくる:ワルシャワのクラブシーンはどのように発展したのか。首都の産業が廃れていなければ、ワルシャワのクラブ現象は果たしてこのような規模に達したのか。文化に資金を提供するはずの国のシステムが機能しなくなり、既存の文化施設を自由主義市場の法則に適応させざるを得なくなった当時の事情がもしなかったら、ワルシャワのクラブ風景はどうなっていただろうか。と言うのも、例えばヴォラ地区のクラブ「フガジ(Fugazi)」は、倒産したW-Z映画館(Kino W-Z)があった場所を引き継いだ。ワルシャワ市の文化施設スペースを借りていたクラブもたくさんあり、「ガレリア・オフ(Galeria Off)」は、ワルシャワ南部、モコトゥフ地区のテアトル・ノヴィ(Teatr Nowy)の中で営業していた。
展示会でまず紹介されているのが、まさにこの「フガジ」だ。ワルシャワのクラブについての物語の中で、古いものと新しいもの、つまり体制転換当初の数年間、街のサウンドトラックの主流だった1980年代のロック音楽と、新しいクラブ文化とを結ぶ、架け橋のような存在になっている。10年前のパンクと新音楽をつなげるのは、このクラブで行われた二人組ユニット、マックス&ケルネル(Max & Kelner)のライヴコンサートのポスターだ。ロベルト・ブリレフスキとパヴェウ・「ケルネル」・ロズヴァドフスキ(Paweł „Kelner” Rozwadowski)の電子音楽プロジェクトで、2人が1992年に出したCD、『Techno Terror』は、体制転換期の現実についての最も優れた解説の一つだろう。
俺たちはワシをカラスに変える
ハゲワシは冠を戴くワシになる
俺たちは広場や通りの名前を変える
だけど――俺たちの頭の中まで変わったのか?
(「Mamy Zahut」)