ポーランドジャズの豊かな歴史は、外国人には歯が立たないように思えるかもしれない。あまりに多くの登場人物、ミュージシャン、ジャズの多様なスタイル。でもポーランドジャズをかじってみようという人、コメダやスタンコ、セイフェルトの物語を知りたい人は、この Culture.pl のジャズ入門を是非お試しあれ。
ポーランドジャズは100周年を迎えようとしている。ジャズは、共産主義時代に民主主義と政治的自由を求める上で重要な役割を果たし、またポーランドの伝統文化に深く根ざしていることが、ポーランドジャズの歴史を唯一無二のものにしている。20世紀、ジャズはポーランド民主化の過程におけるアヴァンギャルドであり、芸術の独立を獲得しようと戦うあらゆるジャンルの芸術と強く結び付いていた。共産主義時代には弾圧を受け、体制転換後にはその立場を再定義する必要性に迫られたジャズには、停滞する暇などなかった。
それではポーランドジャズの世界に分け入るために、あなたに当てはまるものを選んでください。
一日休みがあるから、全部知りたい。
私はジャズの考古学者。草創期のポーランドジャズマンの足跡を辿りたい。
悪の力に対抗するために音楽を使うのってすごくいいと思う。
最近のECM新譜は全部揃えている。空間的で、オープンで、詩情のあるジャズにしか興味がない。
ポーランドにジョン・コルトレーンの生まれ変わりがいる?
ジェームズ・ディーンの大ファン。でも、荒れた青年期を乗り越え、芸術家としてのキャリアを続けることに成功した人に会ってみたい。
ハード・バップは私の信仰で、ジャズ・メッセンジャーズ Jazz Messengers は私の預言者。
マイルスとの共演歴がない演奏家を聞いている暇はないよ。
ジャズもいいけど、セックス・ピストルズが好きなんだ。その間を取ったのはある?
ポーランドジャズの歴史も結構だけど、21世紀はどうなの?
第一次世界大戦後すぐ、「新しいアメリカ音楽」つまりジャズがヨーロッパで大流行し、西から東、北から南へと大陸を瞬く間に席巻した。1923年に最初のポーランドジャズバンドが結成された。カラシンスキ&カタシェク・ジャズ―タンゴ・オーケストラ(Karasiński & Kataszek Jazz - Tango Orchestra)と呼ばれ、流行りのナイトクラブやレヴュー劇場で演奏する、ワルシャワで一番人気のダンス・オーケストラとなった。1934年から1935年にかけてヨーロッパや中東でツアーも行った。
当時人気があったバンドには他に、ベニー・グッドマン(Benny Goodman)のスタイルに強い影響を受けたロフカ・イルゴフスキ・オーケストラ(Lofka Ilgowski Orchestra)、またイェジ・ペテルスブルスキ(Jerzy Petersburski、ピアノ)とアルトゥル・ゴルド(Arthur Gold、ヴァイオリン)をリーダーとするペテルスブルスキ&ゴルド・オーケストラ(Petersburski & Gold Orchestra)があった。「1920年代ジャズの10年」の残りの間に、ペテルスブルスキ&ゴルド・オーケストラはワルシャワで一番人気のダンス・オーケストラの地位を確立し、流行の最先端にあったレストラン「アドリア(Adria)」で演奏した。
これらのバンドはどれも、定期コンサートの他、映画産業の仕事も頻繁に手掛け、1920〜30年代にポーランドで製作された数え切れないほどの映画に貢献した。ポーランドで最初のレコードレーベルであるシレナ・レコード(Syrena Rekord、1904年創設)はポーランドジャズの録音を初めて行った。
1930年代初頭のポーランドにおけるプロのジャズの盛り上がりは、何と言っても、1933年以降隣国ドイツでファシストが台頭し、ユダヤ人出自を持つ音楽家の多くが国を離れたという事実に負うところが大きい。彼らはポーランドに来たのである。結果として、層がまだ薄く新しいことの受容に積極的だったポーランドのジャズ界は、エディ・ロズナー(Ady Rosner)のトランペット、アーウィン・ウォヘラー(Erwin Woheller)のサクソフォン、アルカディ・フラット(Arkady Flato)のスウィング・バンドによって強化された。
トランペット奏者エディ・ロズナーはすぐにポーランドで最高かつ一番人気のジャズ・ミュージシャンになった。ロズナーがポーランドのジャズ演奏家と結成したスウィング・オーケストラは、観客を魅了し、また広く批評家の間でも評価された。オーケストラのヴォーカルを務めたルートヴィヒ・ランペル(Ludwig Lampel)は「ヨーロッパ・ジャズの驚嘆すべき歌手」と批評家に称賛された。ロズナーのバンドは国内での評価だけでなく、国際的な名声も獲得した。ラトヴィア、デンマーク、ハンガリー、オランダ、フランスで広くツアーを行い、フランスではコロムビア・レコードのフランス支社で3枚のアルバムをレコーディングしている。その後、1939年にナチス/ソ連のポーランド侵攻を逃れると、ロズナーはロシアに移住し、そこで信じられないような「代わる代わるの生活」を体験することになる。ロシア全土で最高給取りの音楽家から、グラグ(強制労働収容所)の囚人へ。そして、スターリンの死後にはソヴィエト・ジャズの推進力となった。ロズナーは1973年にロシアを離れ、1976年にドイツのベルリンで死去した。エディ・ロズナーがポーランド(とロシア)のジャズ草創期に果たした貢献は疑う余地はなく、当時の他の音楽家からも群を抜いている。当時のバンドの多くは様々なスタイルのダンス・ミュージックを演奏し、ロズナーも同様であったが、その卓越した演奏技術とスウィングを重視した点で、他のバンドとは一線を画していた。ポーランド時代には、エディ・ロズナーは「ジャズ巨匠の王」の名を馳せた。あるポーランドの批評家は「エディ・ロズナー、ジャズ・センセーション!」と書き、イギリスの「メロディ・メーカー」誌では Sweet and Hot Club of Brussels の社長がロズナーを「ポーランドのアームストロング!」と呼んだ。
エディ・ロズナーと彼のスウィング・オーケストラ、写真:CC
戦争の結果、ポーランドは他の中東欧の国々と同様に、スターリン主義のロシアの傘下に置かれた。そして、ソヴィエトはきっとスウィングを理解しなかったのだ!ある種の音楽様式だけが公に認められた。とりわけ民族音楽のリズム、シンコペーションのない音楽である。たった一つのテンポが皆にあてがわれ、軍隊のマーチングバンドが重要になった。
スターリン主義のポーランドでは、現代美術、まともなトイレットペーパー、外国旅行の権利と同様に、ジャズ音楽は禁止だった。「鉄拳」支配の下、政府の文化政策はあらゆる形態の現代芸術を排除し、芸術家に「社会主義リアリズム」の教条に従うよう要求した。
幸い、誰もがスターリンを崇拝し、党の方針に従ったわけではなかった。ポーランドの若者はロシアの押し付けるものや、ソヴィエトの音楽、政治的教条に何の関心もなかった。ただ自由を求め、ジャズを再発見した。ジャズは禁止され、時に迫害さえあったので、秘密裏に行われるようになった。「カタコンベ」に行く、という言い方もされた。ジャズは私宅や私的なパーティでのみ演奏された。1940年代後半以降のポーランドでは、ジャズは公式には存在しないことになっていたが、実際は、独立精神、不服従、コスモポリタニズムを包含していた。
あるバンドが隠れたポーランドジャズ界を席巻した。その名も「メロマニ(Melomani)」(音楽マニア)。このアンサンブルは1947年に当時最高のジャズマンによって結成され、メンバーには「ポーランドジャズの創始者」も含まれていた。イェジ・“ドゥドゥシ”・マトゥシュキェヴィチ(Jerzy "Duduś" Matuszkiewicz、リーダー、サクソフォン、クラリネット)、アンジェイ・トシャスコフスキ(Andrzej Trzaskowski、ピアノ)、クシシュトフ・コメダ (Krzysztof Komeda、ピアノ)である。
彼らの多くがウッチ映画大学の学生だった。この学校は、通例「ポーランド派」と呼ばれるヨーロッパ有数の映画の潮流を作ったことで有名である。またメロマニの音楽家はウッチYMCAに出入りしていた。ウッチYMCAは1940年代後半のポーランドで非協調主義者や独立思想家にとって数少ないオアシスとして機能していた。西側のジャズの発展からは引き離され、ジャズの録音物や出版物も入手できなかったので、メロマニは自分たちがジャズだと思う音楽を演奏していた。例えば、ジェリー・ロール・モートン(Jelly Roll Morton)やW.C.ハンディだ。批評家のエリオット・サイモン(Elliott Simon)がよく言い表している。
「メロマニは一連のスタンダード曲を熱狂的に演奏し、ファンの心酔はそれを上回った。そういう歴史的状況だった。文化的に抑圧された社会において、ジャズは創造性を爆発的に解放できるはけ口だったのだ。」
メロマニ、写真:Witold Sobociński アーカイヴ
もちろん、ポーランドのラジオ放送からはジャズは流れず、店にジャズのレコードはなく、本も楽譜も売っていなかった。けれど、意志と熱狂とボイス・オブ・アメリカがあった。ソ連が地球上の楽園になったというニュースを聞く代わりに、ジャズファンやジャズ音楽家を目指す者たちは、ソヴィエト製のラジオのチューナーをウィリアム・コノヴァー(Willis Conover)がDJを務める番組に合わせた。1940年代後半から50年代初頭にかけて、ポーランドのジャズ愛好家にとってヴィリアム・コノヴァーは音楽の救世主だった。コノヴァーの番組では願っているものを手に入れることができた。つまり、正しいものと本当のもの。彼のポーランドジャズへの貢献は忘れられることはないだろう。
1960年代の政治的障害にもかかわらず、ポーランドの文化的・知的生活はこの期間も、それに続く数十年間にもよく発展し続けた。1960年代にポーランドジャズが文化復興の重要な一要素となったことは驚くに当たらない。ジャズは揺籃期から成熟期へと展開するにつれ、より多様になり洗練された。1960年代、ポーランドのジャズはディキシーランド(伝統的)、ストレート・アヘッド(主流)、アバンギャルド(フリー)の3つの基本スタイルに進化した。
ジャズに対する関心が高まったことで、より多くが求められるようになった。1960年代と1970年代のポーランドジャズでは、メインストリームとアヴァンギャルドをはっきりと区別することは難しい。その二つの間の微妙なところをいく音楽家があまりにも多いのだ。だからたぶん、現代ポーランドジャズを分析するには、主要な人物に焦点を当てていく方法が一番いいだろう。
クシシュトフ・コメダ、写真:Marek Karewicz / Kordegarda Gallery アーカイヴ
1960年代そしてポーランドジャズ史上最も重要な音楽家はクシシュトフ・コメダ(Krzysztof Komeda、本名クシシュトフ・トシュチンスキ Krzysztof Trzciński)だ。1931年4月27日ポズナン生まれ。7歳の時にピアノを始めたが、戦争によってコンサート・ピアニストになる道は閉ざされた。
ポズナンで医学を学び、耳鼻咽喉科の医師となった。音楽活動をする際には、子ども時代のあだ名「コメダ」を使った。1950年代のポーランドでは、名誉ある医学博士が「西側の退廃音楽」であるジャズを演奏することはできなかったのだ。コメダは伝説のバンド、メロマニ創設者の一人である。プロのジャズピアニストとしてのキャリアは1956年第1回ソポト・ジャズ・フェスティヴァル(Festiwal Jazzowy Sopot)に始まる。イェジ・グジェヴィンスキ(Jerzy Grzewiński)のディキシーランド・バンドと自身のセクステットで演奏した。その後12年間ポーランドとスカンディナヴィアで、自分のバンド(コンボ、トリオ、カルテット、クインテット、セクステット)とともに演奏活動を続け、現代ポーランドジャズ界を風靡した。
コメダがポーランドジャズに果たした役割はほんの数行では言い表せない。天才、作曲家、先見の明を持った人、共演者、リーダー…こんな言葉も彼を表すのに十分ではない。この才能に溢れた、しかしピアノの名手とは言い難い、医学学位を持った青年が、一体どうやってポーランドジャズにこのような大きな影響を与え得たのか。彼と共演した音楽家が皆口を揃えて、コメダの音楽と人格からどれほどの影響を受けたかを強調するのはどういうわけなのだろう。コメダと長い間共演したトマシュ・スタンコ(Tomasz Stańko)はこのように述べている。
「コメダはとても静かな男だった。リハーサルの時、何も言わなかった。ただの一言も。コメダが楽譜をくれて、私たちは演奏した。静けさは圧倒的だった。アプローチが正しいとか間違っているとか言わなかった。ただ笑っていた。コメダはそのような強い力を持っていて、音楽はとても個性的で、いつも私に自己表現や解釈の余地を十分に与えてくれた…。シンプルであることがいかに重要か、本質的なものをいかに演奏するかを教えてくれた。異なるハーモニーや非対称、多くの細部を使った異なるアプローチを教えてくれた。最初にコメダと仕事をすることができて、私はとても幸運だった…。」
コメダの音楽の特異性は、従来のジャズスタイルの間の取り方というより、スラヴ的叙情性や19世紀のポーランド・ロマン主義音楽の伝統、作曲の過程で時間の扱いが変わることに由来するようだ。独自のヨーロッパ式ジャズ作曲法の創始者の一人として高く評価されている。
コメダの代表アルバム『Astigmatic』(Polskie Nagrania “Muza”「ムザ」ポーランド・レコードレーベル)はペンギン・ガイド・ジャズで「シンプルで、本質を突いている!」と評された。ポーランドジャズにおいてこれより影響力を持つアルバムはまだ出ていない。他にコメダが傑出し、世界的な名声を獲得した分野に映画音楽がある。40本以上の映画音楽を手掛け、その中にはアンジェイ・ヴァイダ(ワイダ、 Andrzej Wajda)監督の『夜の終りに(Niewinni czarodzieje)』などのポーランド映画の古典も含まれている。イェジー・パッセンドルフェル(Jerzy Passendorfer)、イェジー・スコリモフスキ(Jerzy Skolimowski)、ヤヌシュ・モルゲンステルン(Janusz Morgenstern)、イェジー・ホフマン(Jerzy Hoffman)、レオナルド・ブチュコフスキ(Leonard Buczkowski)、ヤヌシュ・ナスフェテル(Janusz Nasfeter)、といった他のポーランド映画監督や有名なデンマークの映画監督ヘニング・カールセン(Henning Carlsen)とも仕事をしている。特に重要なのは、ロマン・ポランスキ(Roman Polański)監督との非常に成功した共同作業で、『タンスと二人の男(Dwaj ludzie z szafą)』、『袋小路(Cul-de-sac)』、『水の中のナイフ(Nóż w wodzie)』、『吸血鬼(The Fearless Vampire Killers)』、『ローズマリーの赤ちゃん(Rosemary's Baby)』などの映画音楽が生まれた。トマシュ・スタンコ1968年12月ロサンゼルスで『ローズマリーの赤ちゃん』の音楽を制作中に、コメダは謎めいた事故により脳に損傷を負い、帰らぬ人となった。38歳という若さで不慮の死を遂げてから数十年が経とうとしているが、時の経過にもかかわらず、コメダの音楽は生き続け、新しい音楽家に影響を与え、新しいリスナーを次々と獲得している。数え切れないほど多くのポーランドジャズ音楽家がコメダの遺産と楽譜を研究しているが、中でもトマシュ・スタンコとレシェク・モジジェル(Leszek Możdżer)が先頭に立っている。
トマシュ・スタンコ、写真:Marek Dusza
1962年、20歳のトランペット奏者トマシュ・スタンコとピアニストのアダム・マコヴィチ(Adam Makowicz)が「Jazz Darings」を結成した。後にジャズ評論家の J. E. Berndt が「ヨーロッパ発のフリージャズ・コンボ」と称した。スタンコはクラクフ音楽アカデミーの卒業生で、1963年クシシュトフ・コメダに招かれ、彼のバンドに参加する。共演はコメダの死まで続いた。コメダの音楽が若いスタンコに与えた影響は大きく、スタンコはこう述べている。
「叙情性、本質的なものだけを演奏する感覚、構造や非対称性へのアプローチ、多くのハーモニーの細部。最初にコメダと仕事ができて、私はとても幸運だった。」
1968年ズビグニエフ・セイフェルト(Zbigniew Seifert)が新結成のスタンコ・クインテットに参加し、すぐにアルトサックスからエレクトリック・ヴァイオリンに切り替えると、ヨーロッパ・ジャズ史の新章が幕を開けた。スタンコとセイフェルトの他、クインテットのメンバーにはヤヌシュ・ムニャク(Janusz Muniak、サクソフォンとフルート)、ヤン・ゴンチャルチク(Jan Gonciarczyk)/ボロニスワフ・スハネク(Bronisław Suchanek、ベース)、ヤヌシュ・ステファンスキ(Janusz Stefański、ドラム)がいた。このクインテットからは3枚のアルバムが生まれている:『Music for K』(1970)、『Jazz Message from Poland』(1972)、『Purple Sun』(1973)。しかし、クインテットのライブパフォーマンスにはアルバムが比較にならないほどの魔力があった。スタンコ・カルテットはヨーロッパでカルト的人気を博し、その潜在的創造力が絶頂に達した1973年に解散した。次に、音楽的向上に常に関心を持つスタンコは、様々な音楽家とのすばらしい共演の時代に入る。アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ(Alexander von Schlippenbach)率いるグローブ・ユニティ・オーケストラ(Globe Unity Orchestra)、クシシュトフ・ペンデレツキ(Krzysztof Penderecki)、ドン・チェリー(Don Cherry)、ステュー・マーティン(Stu Martin)、デイヴ・ホランド(Dave Holland)、ゲイリー・ピーコック(Garry Peacock)、ヤン・ガルバレク(Jan Garbarek)らとの演奏を楽しんだ。インドのタージ・マハルのような特別な場所でのソロトランペットコンサートや、電子音楽や電気音響音楽を使うなどの新しい試みも行った。1970年代の最も重要な仕事はフィンランドのドラマー、エドワード・ヴェサラ(Edward Vesala)との共演だろう。『Balladyna』と『TWET』をはじめとする彼らの一連のアルバムは、次の数十年の即興音楽の新しい方向性を定めた。
1980年代初頭スタンコは短期間であるがマッコイ・ターナー(McCoy Tyner)と共同関係にあり、このことはスタンコのキャリアにとって極めて重要なものとなった。二人の共演はピアニストのスワヴォミル・クルポヴィチ(Sławomir Kulpowicz)、ヨーロッパで一二を争う革新的コントラバス奏者ヴィトルド・レク(Vitold Rek、本名ヴィトルド・シュチュレク Witold Szczurek)、伝説のドラマー、チェスワフ・“マウィ”・バルトコフスキ(Czesław "Mały" Bartkowski)に影響を与えた。クルポヴィチは inFormation を結成。カルテット(クルポヴィチ、レク、バルトコフスキ、スタンコ)として、1980年代初めにポーランドで2枚のアルバム『A i J』、『Music 81』をレコーディングした。戒厳令下の政治的混乱と社会的抑圧の時代をよく捉えている。スタンコと inFormation の共演は、芸術の自由、独立、創造性のすばらしい証拠である。音楽的には、21世紀初めに始まるスタンコの別のカルテット(マルチン・ヴァシレフスキ Marcin Wasilewski、ミハウ・ミシキェヴィチ Michał Miśkiewicz、スワヴォミル・クルキェヴィチ Sławomir Kurkiewicz)へと繋がっていく。スタンコは1984年の短い間、セシル・テイラー(Cecil Taylor)のビッグバンドにも参加していた。そのすぐ後、スタンコは別のアンサンブル「Freelectronic」を結成し、ポスト・マイルス的音楽というコンセプトに基づく実験的試みを、アルバム『Lady Go…』、『Chameleon』、『C.O.C.X.』で行った。「即興の語り」でよく知られるウィリアム・フォークナー(William Faulkner)、ウィリアム・S・バロウズ(William S. Burroughs)、ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)といった作家からいつも着想を得るという。スタンコは80年代のある時期を、ポーランドの作家スタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェヴィチ【ヴィトカツィ】(Stanisław Ignacy Witkiewicz 【Witkacy】)の遺産の研究に捧げている。ヴィトカツィ同様、スタンコも創作過程における薬物の影響に関心を持っていた。この「ヴィトカツィ時代」はアルバム『Witkacy Peyotl』としてファンに報いた。後に自身の薬物使用に関して、スタンコはこう結論付けている。
「ジミ・ヘンドリックスはかつてこう言った。ドラッグは若者のためのものだと。おそらく私は少し時間がかかってしまったが、でももう子どもじゃない。」
1990年代初め、スタンコの成熟したスタイルが完成した。90年代最初のアルバムは、クシシュトフ・ポペク(Krzysztof Popek)のレーベル「Power Bros」からリリースされた『Bluish』である。この画期的なアルバムに続いて、ECMレコードとの契約を更新、スタンコの作品の中で最も評価の高いアルバムをリリースした。『Matka Joanna(尼僧ヨアンナ)』、ピアニストのボボ・ステンソン(Bobo Stenson)を迎えた『Leosia(レオシャ)』、コメダに捧げた『Litania(連祷)』、また多国籍アンサンブルによる『From the Green Hill』、そして、マルチン・ヴァシレフスキ(ピアノ)、スワヴォミル・クルキェヴィチ(ベース)、ミハウ・ミシキェヴィチ(ドラム)との一連のアルバムは世界中の評論家やジャズファンの間で絶賛された。2002年、21名の名だたるヨーロッパ・ジャズ評論家の投票の結果、スタンコは第一回ヨーロッパ・ジャズ・アワードを受賞。ヨーロッパ最高のジャズ音楽家として栄誉を受けた。現在まで、スタンコはECMと密接な共同関係にあり、スカンディナヴィアやアメリカの最も才能ある若い音楽家と様々なバンドを結成しながら、質の高いアルバムをリリースしている。
ズビグニエフ・セイフェルト、ワルシャワ、1970年代、写真:Marek A. Karewicz / FORUM
1960年代後半に輝かしいキャリアを開始し、スタンコ・カルテットを経たズビグニエフ・セイフェルト(Zbigniew Seifert)は、すぐにヨーロッパ・ジャズを代表する存在になり、ジョン・コルトレーン(John Coltrane)の精神を「超越」しうる最初のヴァイオリン奏者とされた。1946年7月6日生まれ、6歳でヴァイオリンを学び始める。その10年後にサクソフォンも始めた。クラクフ音楽大学でヴァイオリンを学ぶ一方、自らのジャズ・グループでアルトサックスも演奏していた。ジョン・コルトレーンの音楽はセイフェルトのキャリアを通じて強い影響を持ち続けた。スコット・ヤナウ(Scott Yanow)は以下のように書いている。
「ズビグニエフ・セイフェルトがヴァイオリンで達成したことは、ジョン・コルトレーンがサックスで達成したことに等しい。」
セイフェルトは早い時期から、また後にはスタンコ・クインテット(1969-1973)のメンバーとして、ヨーロッパで名を馳せた。リーダーとして、セイフェルト(ズビッギー Zbiggy の愛称で親しまれた)はフリー・ジャズからフュージョンまで幅広い音楽を演奏した。短い生涯の中で、アメリカとヨーロッパの大スター奏者と共演する幸運に恵まれた。ハンズ・コルラー(Hans Koller)、ヨアヒム・キューン(Joachim Kuhn)、ビリー・ハート(Billy Hart)、マイケル・ブレッカー(Michael Brecker)、ジョン・スコフィールド(John Scofield)、エディ・ゴメス(Eddie Gomez)、チャーリー・マリアーノ(Charlie Mariano)、ジャック・ディジョネット(Jack DeJohnette)、オレゴン(Oregon、バンド)他である。オレゴンとは傑作『Violin』を録音している。70年代半ばから後半にかけて、セイフェルトはリーダーとして一連のアルバムを録音し、ジャズ界きってのユニークな存在、そして卓越したヴァイオリン即興演奏家としての地位を確立した。アメリカそして世界での活躍が約束されていたが、1979年白血病により急逝、その死を惜しまれた。
ズビグニエフ・ナミスウォフスキ、1966年 Jazz Jamboree にて、写真:Tadeusz Wackier / FORUM
ウィリス・コノヴァー(Willis Conover)はズビグニエフ・ナミスウォフスキ(Zbigniew Namysłowski)についてこう述べている。
「初めてポーランドを訪れた時、ポーランド音楽家のレベルの高さに全く驚かされた。ナミスウォフスキがはっきりと群を抜いていた。国際的な投票で、ヨーロッパの聴衆はこのポーランド最高の音楽家を世界でも最高だと認めていることがわかった。彼はジャズ、ポーランド、自分自身の三つの伝統を讃える。ナミスウォフスキを聞き逃すというのは、20世紀におけるユニークな創造力の源を聞き逃すのに等しい。ナミスウォフスキは巨人だ!」
ナミスウォフスキは多くの楽器の名手である。4歳からピアノを弾き、12歳でチェロをマスターした。その後ワルシャワで音楽理論を学んだ。初め(1950年代)はディキシーランド・ジャズのグループでトロンボーンを吹き、1960年代はアルトサックスでモダン・ジャズに進出。アンジェイ・トシャスコフスキ率いるハード・バップのグループ The Wreckers に参加した。1963年自身初のカルテットを結成すると、イギリスのデッカ Decca レーベルより画期的なアルバム『Lola』をリリース。ナミスウォフスキは、好きなミュージシャンとして、ジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズ(Sonny Rollins)、ウェイン・ショーター(Wayne Shorter)、ジョー・ヘンダーソン(Joe Henderson)を挙げているが、ブルース、ロック、またポーランド、バルカン諸国、インドの伝統音楽などからも影響を受けている。また作曲家としても非常に成功しており、ジャズ以外のジャンル、ポーランド版ファンクや洗練されたポップまで網羅している。作曲の分野ではナミスウォフスキはすぐに彼とわかる独特の表現を使う。すなわち、調和的言語、記譜の範疇を超えたスウィング、ジャズの伝統、そして彼の作品にいつも見られるポーランド民族音楽への賛美だ。ポーランドジャズの革新的・先駆者であるだけでなく、ポーランドジャズにおける彼の役割は、ジャズ史上にアート・ブレイキー(Art Blakey)のジャズ・メッセンジャーズ Jazz Messengers が及ぼした影響に匹敵すると言えるかもしれない。ナミスウォフスキは若い音楽家にとっての比類なきメンターである。今日もなお、ナミウォフスキは自分らしさを貫き、独自の音楽言語に磨きをかけている。巨匠自身の言葉を引用する。
「成功するためには、ホレス・シルヴァー(Horace Silver)の主旋律を演奏するだけではもう十分でない。レコードからの借り物を演奏してはならない。(中略)やりたいことをやりたいように演奏するために、私は自分のカルテットを結成し、自分の音楽を作り出した。」
アダム・マコヴィチ、写真:Jan Bebel / FORUM
アダム・マコヴィチ(Adam Makowicz)もまたポーランドジャズの真の天才の一人である。数十年に渡って第一線で活躍し、今日に至るまでその超絶技巧とスウィングでジャズファンを驚嘆させてきた。電気・音響構成の両方を含む、様々なスタイルを習得。1974年以降主にソリストとして活動してきた。マコヴィチは自分の曲でも他の作曲家の作品解釈でも独自のスタイルを持つ名ピアニストである。彼のスタイルは、アート・テイタム(Art Tatum)とジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin)を祖とするアメリカの伝統と、ロマン主義の伝統に関わるヨーロッパ音楽の要素を組み合わせている。現在、マコヴィチはジェローム・カーン(Jerome Kern)、アーヴィング・バーリン(Irving Berlin)、コール・ポーター(Cole Porter)、ジョージ・ガーシュウィンといった作曲家による古典スタンダード曲の解釈にますます多くの時間を割いている。マコヴィチの演奏会は概ねフィルハーモニーの聴衆に向けられている。マコヴィチ本人が目下自分の音楽を「ジャズよりもクラシックに近い」と称している。この傾向はピアノや小さなバンドのために書かれた曲にも現れている。ジム・フジーリ(Jim Fusilli)がウォール・ストリート・ジャーナル紙にマコヴィチについて、かつてこう書いた。
「アダム・マコヴィチはベニー・グッドマン(Benny Goodman)に称賛され、アート・テイタム、エロル・ガーナー(Erroll Garner)、テディ・ウィルソン(Teddy Wilson)に匹敵すると見なされ、ジャズ出版物は褒め称え、ヨーロッパ中が天才と絶賛している。マコヴィチ氏の熱烈なスタイル、盤石のコーディング、そして素早い、テイタムのような右手のフレージングを見れば、彼がこれまでに受け取った賛辞ではまだ足りない。」
ミハウ・ウルバニャク、写真:Eugeniusz Helbert / FORUM
1970年代から80年代にかけて、ミハウ・ウルバニャク(Michał Urbaniak)はおそらく世界で最も名の知れたポーランドのジャズ音楽家だった。1960年代後半からコメダのバンドなど様々なバンドの天才奏者として、また自分のバンドのリーダーとして活躍したウルバニャクは、1973年にコロムビアから革新的なアルバムをリリースし、世界的キャリアを開始した。それ以来彼の情熱は、運命に翻弄されながら止まる所を知らない。長年の演奏活動を通して、ウルバニャクの独創性のあらゆる要素は常に健在である。まっすぐな表現、スラヴの無邪気さ、音楽の折衷主義、現代的な調音、ポーランドの民族音楽の影響、そしてそれらが全てそつなくアメリカ・ジャズの語彙の中に取り込まれている。1975年から1989年にかけて、ウルバニャクは The Michal Urbaniak Fusion のリーダーを務めた。アメリカ全土で最高のコンサートホールやクラブ(Village Vanguard、Village Gate、Carnegie Hall、New York Jazz Festival、Newport、Washington)で活躍した有名なバンドだ。当時、ウルバニャクは永遠のジャズ・レジェンドたちと共演する機会があった。ジョージ・ベンソン(George Benson)、レニー・ホワイト(Lenny White)、ウェイン・ショーター(Wayne Shorter)、マーカス・ミラー(Marcus Miller)、ビリー・コブハム(Billy Cobham)、ジョー・ザヴィヌル(Joe Zawinul)、ロン・カーター(Ron Carter)、ステファン・グラッペリ(Stéphane Grappelli)、マイルス・デイヴィス(Miles Davis)らである。その当時マイルスとの共演は、どんな名誉ある賞を受けることより、意味のあることだった。デイヴィスはこの機会にこう言ったそうだ。
「あのポーランドのヴァイオリン弾き、俺にくれよ!いい音出しやがんだ!」
1990年代初めはキャリアの絶頂期だった。ウルバニャクの名前は、名誉ある『Down Beat』などの重要なジャズ調査の様々なカテゴリーで何度も挙がっている。作曲では、常に世界のジャズの最新動向と自分独自のスタイルを融合させようと試みてきた。すぐに彼のものだとわかる独特の演奏音と、現在の音楽的慣習を一つに合わせている。新しい発想と新しい音を追求し続ける姿勢において、ミハウ・ウルバニャクはおそらく他のポーランド人ジャズ音楽家の誰よりも、マイルス・デイヴィスの精神の近くにいるのではないか。
ヤス・ムーヴメントの主役たち、写真:Krzysztof Szymanowski、作者による提供
1990年代に新しい音楽傾向が生まれた。確立された物事の秩序を劇的な手法で無にしようという動きだった。この新しい動向を yass(ヤス)と言う。芸術革命というものは、旧体制を批判し、巨匠をその台座から放り捨てることで成り立つものだ。しかし、Yassの戦いは規模が全く違っていた。あらゆるものに反抗したのだ。権威、怠惰な社会、メディア、初期資本主義の消費主義、規範、色の欠如、言語、さらには天気まで。
西暦2014年ポーランドジャズ界には二世代の卓越した音楽家が揃っている。一方はすでに定評のある、広くよく知られた巨匠たち。もう一方は創意に溢れる若い層で、その多くが世界有数のジャズ科の卒業生である。この有り余る才能について書くには別の記事を設けねばなるまい。ここでは、さらにポーランドジャズについて知る手がかりとなるように、とりわけ優れた10人を挙げたい。(アルファベット順)
情報源:Cezary Lerski執筆の記事『Polish Jazz – Freedom at Last』を基に、編集・コメント・序文・リスナープロファイル・最終二パラグラフの執筆を Wojciech Oleksiak が行った。2014.6.30
日本語訳:YA、2018.01