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ウッチ映画大学:ポーランド映画製作者を輩出している学校
第二次世界大戦中、ポーランドの映画産業は機能していなかった。戦後、国立ウッチ映画大学Państwowa Szkoła Filmowa w Łodzi / Łódź Film Schoolがポーランド映画再生の礎となった。大学は1948年10月8日から開始され、学生にはのちに歴史の本にも登場する顔ぶれが揃っていた。アンジェイ・ムンクAndrzej Munk、アンジェイ・ヴァイダ(ワイダ)Andrzej Wajda、ヤヌシュ・モルゲンステルンJanusz Morgenstern、カジミェシュ・クッツKazimierz Kutz。また、ドキュメンタリー映画作家のカジミェシュ・カラバシュKazimierz Karabasz、アンジェイ・ブジョゾフスキAndrzej Brzozowski。そして撮影監督のイェジー・ヴイチクJerzy Wójcik、ヴィトルド・ソボチンスキWitold Sobociński、ミェチフワフ・ヤホダMieczysław Jahoda、ヴィエスワフ・ズドルトWiesław Zdortらである。
戦後ポーランドの文化・芸術はゆっくりと展開し、検閲の始まりに耐えなければならなかった。このような背景にもかかわらず、ウッチ映画大学は進歩的で革新的だった。芸術の自由の本物の砦だった。教師と学生はヨーロッパ・アヴァンギャルドの流行を追いかけ、不条理劇の戯曲を読み、ヴィトルド・ゴンブロヴィチWitold Gombrowiczやフランツ・カフカFranz Kafkaの深い心理分析に傾倒していた。外国の映画、ヨーロッパの古典だけでなく、イタリアのネオレアリズモの最新作を上映する国内の数少ない場所だった。上映室は、珍しいものを見たい学生や学外からの観客で溢れた。ウッチ映画大学を卒業した巨匠には、アンジェイ・ヴァイダAndrzej Wajda、クシシュトフ・キェシロフスキKrzysztof Kieślowski、ロマン・ポランスキRoman Polański、アンジェイ・ムンクAndrzej Munk、クシシュトフ・ザヌッシKrzysztof Zanussi、マレク・コテルスキMarek Koterskiらがいる。長年に渡って大学は映画製作者を育て続けてきた。最近の卒業生には、ヴォイチェフ・スマジョフスキWojciech Smarzowski、マウゴシカ・シュモフスカMałgośka Szumowska、ヤン・ヤクプ・コルスキJan Jakub Kolski、クシシュトフ・クラウゼKrzysztof Krauze、アンジェイ・ヤキモフスキAndrzej Jakimowskiらがいる。2014年レオン・シレル記念国立ウッチ高等映画テレビ演劇学校(ウッチ映画大学の正式名称)は、「ハリウッド・リポーター」誌による世界最高の映画学校ランキングに選ばれた。
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戦後
戦後間もなく、社会の中での映画の役割、映画と当局との関係が決まった。共産主義政権は、映画を真の社会主義国家を作るためのプロパガンダの道具とみなしていた。
ドキュメンタリー映画や長編映画には社会主義リアリズムが要求された。社会主義リアリズムに忠実で、当局好みの社会主義の理想を描いた最初のポーランド映画は、エウゲニウシュ・ツェンカルスキEugeniusz Cękalskiの『輝く畑Jasne łany』である。その他にも、イェジー・ザジツキJerzy Zarzyckiとイェジー・パッセンドルフJerzy Passendorferの『ベルシャザールの饗宴Uczta Baltazara』(1954)、レオナルド・ブチュコフスキLeonard Buczkowskiの『マリエンシュタットでの冒険Przygoda na Mariensztacie』(1953)(ポーランド初のテクニカラー映画)など多数ある。映画の巨匠の初期の作品もまた、社会主義リアリズムの教義の影響が見られらる。イェジー・カヴァレロヴィチJerzy Kawalerowiczの『セルロースCeluloza』、アンジェイ・ヴァイダAndrzej Wajdaの『世代Pokolenie』、アレクサンデル・フォルトAleksander Fordの『バルスカ街の5人組Piątka z ulicy Barskiej』など。
アレクサンデル・フォルトの『バルスカ街の5人組』は50年代の最高傑作である。この作品は1954年カンヌ国際映画祭で受賞した。
ヨーロッパ中で、数年に渡った戦争の痛みを癒す映画が求められていた。ポーランドでは、占領下のワルシャワの日常生活を描いたレオナルド・ブチュコフスキLeonard Buczkowskiの『禁じられた歌Zakazane piosenki』がこの要望に応えた。
ヴァンダ・ヤクボフスカWanda Jakubowskaの『アウシュビッツの女囚Ostatni etap』はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の囚人の実話に基づいた作品で、国外でも観客の心を打った。この映画は50カ国で上映され、フランスでは280万人を動員した。1950年ヴァンダ・ヤクボフスカは世界平和評議会の世界平和賞を受賞した。同年の受賞者に、パブロ・ネルーダPablo Nerudaとパブロ・ピカソPablo Picassoがいる。
またアレクサンデル・フォルトの戦争映画『国境街Ulica graniczna』(1948)もヨーロッパ中で大評判となった。第二次大戦中のユダヤ人とポーランド人の子どもたちを描いた物語である。フランスでは約100万人の観客を動員した。
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ポーランド派Polska szkoła filmowa
1950年代、戦争の灰の中から映画の新しい潮流が出てきた。「ポーランド派Polska szkoła filmowa / the Polish Film School」である。ポーランド派は、戦争体験と折り合いをつけるのを助ける映画を作ろうとした。ポーランド派に属する人々の大半は1920年代生まれである。戦争は彼らの青春を滅茶苦茶にした。だから戦争の結果をカメラに映さずにはいられなかった。この潮流を代表する映画監督には、アンジェイ・ヴァイダAndrzej Wajda、アンジェイ・ムンクAndrzej Munk、イェジー・カヴァレロヴィチJerzy Kawalerowicz、ヴォイチェフ・イェジー・ハスWojciech Jerzy Hasがいる。
1956年政治情勢の変化に伴い、ポーランド派は表舞台に現れた。ポーランド派は社会主義リアリズムとそれに迎合するものを拒絶し、別の目標に向かっていた。過度のロマン主義と国家の神話から芸術を解放しようとしたのである。
映画評論家のジグムント・カウジンスキZygmunt Kałużyńskiは1959年にこう書いた。「[ポーランド派の映画は]どんな犠牲を払っても英雄であるべきだという広く行き渡った理想、盲目的な愛国心崇拝への批判だった(略)」(「Film」48/1959)
スターリンの死後、ソ連のポーランドへの締め付けが緩み始め、ポーランドの共産党政権は映画製作所を作ることを許した。映画の巨匠の時代はこの動きの中で出てきた。
映画評論家のタデウシュ・ルベルスキTadeusz Lubelski教授はこう書いている。
「終わったばかりの戦争について、国内では未だ何の議論もなされていなかった。ポーランド派の作る映画は、観客を深く感情的な対話へ引き込み、傷を癒した。遠くない過去の物語を語りつつ、ポーランド派は別の現在進行中のテーマを扱っている。つまりポーランド人の精神性と未来の展望である。」
ポーランド派の作品には、アンジェイ・ヴァイダAndrzej Wajda『地下水道Kanał』(1956)-1957年カンヌ国際映画祭受賞、『灰とダイヤモンドPopiół i diament』(1958)、『ロトナLotna』(1959)、またアンジェイ・ムンクAndrzej Munk『鉄路の男Człowiek na torze』(1956)、『エロイカEroica』(1957)、『不運Zezowate szczęście』(1959)などがある。
ヴァイダとムンクは、作品の中で同じ対象を分析している。ポーランドの歴史、国家の敗北、誇り、愛国心、祖国への責任感である。これらの価値観に対して、信念を表すと同時に、疑問を呈している。
ポーランド派は心理的・実存的映画でもよく知られている。この映画の例としては、ヴォイチェフ・イェジー・ハスWojciech Jerzy Hasの『縛り首の縄Pętla』(1957)、『別れPożegnania』(1958)、『共同部屋Wspólny pokój』(1959)や、イェジー・カヴァレロヴィチJerzy Kawalerowiczの『戦争の真の終りPrawdziwy koniec wielkiej wojny』(1957)、『夜行列車Pociąg』(1959)、『尼僧ヨアンナMatka Joanna od Aniołów』(1960)などがある。同じ傾向の作品に、タデウシュ・コンヴィツキTadeusz Konwickiの『夏の終りの日Ostatni dzień lata』(1958)、『死者の日Zaduszki』(1961)がある。
ポーランド派の映画界への影響はいくら誇張してもし過ぎることはない。ウッチ映画大学から名誉博士号を受けているマーティン・スコセッシMartin Scorseseは、以下のようにのべている。
「あなた方の映画-ヴァイダ、ポランスキからスコリモフスキまで全部-がどれだけ私の映画作品に影響を与えたか、説明できないほどです。しかも今なお影響を与えているのです。ある時気づいたのですが、俳優や撮影監督に何かを説明したい時、私は1950年代のポーランド映画を彼らに見せるんです。」
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アンジェイ・ヴァイダAndrzej Wajda―国民的映画監督
アンジェイ・ヴァイダ(*「ワイダ」で知られるが、ポーランド語の発音に近い表記は「ヴァイダ」)Andrzej Wajdaを抜きにしてポーランド映画を語ることはできない。何年もの間、ヴァイダは世代の代弁者だった。その映画は変わりゆく社会・政治的状況を反映していた。ドキュメンタリー映画ではないのに、ヴァイダ作品は歴史の本のようだ。初期作品では戦争を扱い、その後『大理石の男Człowiek z marmuru』と『鉄の男Człowiek z żelaza』では、労働組合「連帯」が、苦しい共産主義社会の中で果たした役割を描いた。ヴァイダは世界的名声を獲得し、日本にも根強いファンがいる。2000年に生涯の功績を称えられアカデミー名誉賞を受賞した。
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ヴァイダははじめ映画監督になるつもりはなかった。クラクフで絵画を勉強していたが中退。映画製作の道に進むことを決め、ウッチ映画大学に入学した。しかし絵画はヴァイダの映画製作に影響を与え続けた。映画の視覚効果に注意を払い、『灰とダイヤモンドPopiół i diament』、『白樺の林Brzezina』、『婚礼Wesele』といった映画の中でしばしばポーランド古典絵画に言及している。
『灰とダイヤモンド』は非常に重要な作品だ。戦後にポーランド人が自国をどのように見ていたかを定義している。『世代Pokolenie』では「コロンブス世代Pokolenie Kolumbów」の悲劇的な運命に初めて光を当てた。「コロンブス世代」とはポーランドが独立を回復した1918年のすぐ後に生まれ、青春期が第二次世界大戦と重なった世代のことである。
『ロトナLotna』はヴァイダ初のカラー映画で、ポーランドのロマン主義を容赦なく批判している。『大理石の男Człowiek z marmuru』では、共産主義政府の広めた嘘に喚起を促し、その続編の『鉄の男Człowiek z żelaza』では、「連帯」とその共産主義との闘いは決して忘れられることはないということを確認した。
ヴァイダは作品の中で国家の神話を解体し続けた。国家的英雄を崇める社会の中で、ヴァイダも英雄主義の物語を語りながら、しかし、あの独特の結末で終える。つまり「で、それがどうした?」という問いを投げかけるのだ。この手法のせいで、ヴァイダは国民の大多数から賛同を得られなかった。しかし奇妙なことに、まさにこの手法が、今の彼を作った。ポーランドのあらゆるものの最高権威となったのだ。
歴史映画を得意としたが、ヴァイダは初期の頃から様々なジャンルの映画を製作している。ヌーヴェルヴァーグの『夜の終りにNiewinni czarodzieje』(1960)では、社会の隅に追いやられた反抗的なジャズ世代の若者を描いた。『すべて売り物Wszystko na sprzedaż』は1968年、友人であり有名な俳優だったズビグニエフ・ツィブルスキZbigniew Cybulskiの不慮の死を受けて撮影した作品で、芸術の世界における監督の悲しい自画像となっている。『白樺の林Brzezina』(1970)はヤロスワフ・イヴァシュキェヴィチJarosław Iwaszkiewiczの小説に基づく。死のテーマを扱い「エロスとタナトス」の詩的な舞踊を描いた。
『約束の土地Ziemia obiecana』は、19世紀末の資本主義の野蛮な現実を描いたポーランド映画屈指の名作である。2007年にはこれまでの作品の中で最も個人的な映画を作った。アカデミー賞候補になった『カティンの森Katyń』は1940年4月と5月に起こった大量殺戮の史実に基づく。ソ連の秘密警察(内務人民委員部NKVD)により2万2千人のポーランド市民が殺害された事件である。ヴァイダは家族をこの事件で失っており、個人的に極めて重要な意味を持っていた。
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アンジェイ・ムンクAndrzej Munk
アンジェイ・ムンクAndrzej Munkもまたポーランド派Polska szkoła filmowa立役者の一人である。ヴァイダは英雄主義とロマン主義の物語を使い、ポーランド人が戦争から立ち直るのを助けたが、ムンクは理性主義を使い、ポーランド人のロマン主義を批判した。
ヤツキェヴィチJackiewicz監督は、『エロイカEroica』(1957)と『不運Zezowate szczęście』(1960)について、このように書いた。
「『ムンク・スタイル』は、ポーランド派の他の監督の抒情詩調とは一線を画していた。ムンクの映画は、ヴァイダ作品の詩的な語り口ではなく、18世紀の哲学小説と比較されるべきだ。ムンク映画の本質は、ドキュメンタリー的要素を含んだリアリズムである。(中略)ヴァイダの隠喩がブニュエル的だとするなら、ムンクの使う隠喩は、むしろチャップリンの喜劇のシュルレアリズムに近い。」
『エロイカ』や『不運』で有名になる前、ムンクは実際にドキュメンタリー映画作家だった。社会主義リアリズムの教義を遵守しながら、時に誇張しながら、ムンクは鉄道員や炭鉱夫の労働環境を撮った。
三本の長編映画を製作した後には、同世代の中で抜きん出た監督となった。「ポーランド版市民ケーン」とも呼ばれる『鉄路の男』は、元鉄道技師の物語だ。他の映画では戦争を真正面から取り上げた。『エロイカ』と『不運』では、ポーランドの最近の出来事、戦争のトラウマ、英雄主義の崇拝を議論するために、皮肉と客観性を使った。『エロイカ』は「アンチ・ヒーロー」の映画だと言われている。
インタビューに答えて、ムンクはこのように述べている。「どんな犠牲を払っても英雄であるべきだという、社会に広く受け入れられている理想が、いかに個人に影響を与えているか。そして、その理想が人をいかに英雄にさせるのか。こういうことを描きたいと思った。人は生まれつき英雄ではないのだ。」
ムンクは1961年自動車事故で亡くなる。未完の『パサジェルカPasażerka』が遺作となった。
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60年代
ポーランド派Polska szkoła filmowaと並行して、60年代映画界には新しい動向が生まれた。これを「第三のポーランド映画Trzecie Kino Polskie」と呼ぶ。戦後の映画は、まず戦前の映画様式を残す作品群から始まった。次に、第二次世界大戦に参加した人々が戦争体験を清算しようとした「ポーランド派」が続く。この後に登場したのが、戦後に育ったつまり戦後の現実しか知らない若い作家たちだ。時はスターリン主義末期。国の歴史を受け入れたり、社会主義の祖国を建てたりする代わりに、この若い映画製作者たちがテーマに選んだのは、日常生活、道徳的な選択、楽観主義、大人になることへの恐れだった。
イェジー・スコリモフスキJerzy Skolimowski
イェジー・スコリモフスキJerzy Skolimowskiは、この世代のポーランド映画の第一人者である。
映画監督、脚本家、俳優、詩人、画家。スコリモフスキは多彩な顔を持つ。若い頃はボクサーだった。のちに短編『ボクシングBoks』を撮り、1962年ブダペストの国際スポーツ映画祭でグランプリを受賞している。脚本家としてのデビュー作はアンジェイ・ヴァイダAndrzej Wajda監督『夜の終りにNiewinni czarodzieje』(1960)である。ロマン・ポランスキRoman Polański監督『水の中のナイフNóż w wodzie』の脚本も手がけた。長編監督デビュー作は『身分証明書Rysopis』(1964)。学生時代に撮った数本の短編を一つに合わせて長編にするという珍しい方法で作った。
第三作となる『障壁/バリエラBariera』は、「第三のポーランド映画」の原則に依然として忠実なものの、リアリズムから脱却して、象徴言語を使用している。また、これまでの作品と違い『障壁/バリエラ』は私的な要素が少ないが、これは検閲官の要求により、監督自身が俳優として主人公を演じることができなかったからでもある。
スコリモフスキは次の作品『手を挙げろ!Ręce do góry』でさらに大きな問題に直面した。ポーランド青年同盟(共産党傘下の青年組織)の描き方が検閲官の不興を買ったのだ。問題となったシーンでは、学生たちがスターリンの巨大ポスターを貼っているが、手違いで、目が四つになってしまう。結果として、『手を挙げろ!』は長年に渡って上映禁止となり、公開されたのはようやく1981年になってからだった。
1967年スコリモフスキは国外移住を決める。国外での最初の数年に撮った二本の映画『出発Le Départ』と『早春Deep End』は監督の新境地を開いた。
1991年には、ヴィトルド・ゴンブロヴィチWitold Gombrowiczの小説『フェルディドゥルケFerdydurke』に基づく映画『フェルディドゥルケ30 Door Key』を製作したが、この出来に極めて不満足だった監督は、この後17年間映画を撮らなかった。沈黙を破り2008年に公開した『アンナと過ごした4日間Cztery noce z Anną』は成功を収めた。
続けて2012年には『エッセンシャル・キリングEssential Killing』を公開。捕虜となったアフガニスタン人がCIAの秘密収容施設から逃げ出し、大自然の中サバイバルを繰り広げる物語である。この映画の脚本は、ポーランドのCIA秘密収容施設の報道に着想を得た72歳の監督が数日で書き上げたという。
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ヴォイチェフ・イェジー・ハスWojciech Jerzy Has
ポーランド映画界に偉大な映画監督は多い。ヴォイチェフ・イェジー・ハスWojciech Jerzy Hasも巨匠の一人であり、一度見たら忘れられない独特の視覚的宇宙を作り出した。
ハスはポーランド映画の幻視者と言われることが多い。批評家によれば、ハスの作品はその詩情によって驚くほど密接に結びついており、まるで同じ物語を別の方法で何度も語っているかのようだという。ほとんどすべての作品にハス独自の世界が見られる。主人公の冒険や、彼らが巻き込まれる話の展開や問題はいつも二の次で、それよりも舞台となっている視覚的状況の方が重要なのだ。ハスの世界は、独特の語りのリズムと奇妙な物を使った(批評家はよく「rupieciarnia(がらくたの寄せ集め)」というポーランド語を使う)時間の迷路を旅しているようだ。ハスはこのように説明している。「映画という夢の中で、時間はしばしば特殊な方法で交差する。過去の物、過ぎ去った出来事が現在に重なる。無意識が現実に侵入する。だから夢は、未来を現す。」
ハスは作品が政治的・商業的な意味を持つのを避けたので、プロパガンダを志向する産業からは排除されることが多かった。ハスは、その代表作をポーランド派の全盛期に撮っているにもかかわらず、作品のスタイルは似ていない。同僚の監督アレクサンデル・ヤツキェヴィチAleksander Jackiewiczがハスについて、もし彼が画家だったら「きっとシュルレアリストだったに違いない。年代物の品々を緻密に描き、思いがけない方法で組み合わせて見せただろう」と言っている(実際ハスは若い頃絵画も勉強していた)。
プライヴェートでは、孤独を好み、どちらかと言えば気難しく無口な人物だったが、作品の中で大いに語っている。最も有名な作品『サラゴサの写本Rękopis znaleziony w Saragossie』(1965)と『砂時計Sanatorium pod klepsydrą』(1973)は世界的なカルト映画の古典である。
『サラゴサの写本』にはファンが多い。ルイス・ブニュエルLuis Buñuel、ペドロ・アルモドバルPedro Almodóvar、デヴィッド・リンチDavid Lynch、フランシス・フォード・コッポラFrancis Ford Coppola、マーティン・スコセッシMartin Scorsese。彼らはほんの数例である。1998年にスコセッシは老朽化したハス作品の修復を助け、マーティン・スコセッシとフランシス・フォード・コッポラのプレゼンツ・シリーズの一部として、2002年アメリカでDVD化を行った。
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イェジー・カヴァレロヴィチJerzy Kawalerowicz
ヴォイチェフ・ハス同様、イェジー・カヴァレロヴィチJerzy Kawalerowiczもまたポーランド派に属さない。ポーランド派がポーランド人の運命の分析にかかりきりだった頃、カヴァレロヴィチはもっと普遍的なテーマを選んだ。
デビュー作はネオリアリズム的だ。このスタイルを使うことで、退屈な日常を詩に変えた。現実の優れた観察と、繊細な視覚的イメージを通じて、真に迫る人間像を描き出す手腕は、瞬く間に高い評価を得た。
最もよく知られている作品は、『尼僧ヨアンナMatka Joanna od Aniołów』(1961年カンヌ国際映画祭にて審査員特別賞を受賞)と『太陽の王子ファラオFaraon』(1967年アカデミー外国語映画賞候補)である。この二作はカヴァレロヴィチの監督スタイルを最もよく表している。
ウカシュ・マチェイェフスキŁukasz Maciejewski は映画批評誌「Film」にこう書いている。
「ポーランド映画界の芸術家たちの中で、カヴァレロヴィチは最高の職人である。もちろん、褒め言葉だ。彼の映画は文字通り、ヨーロッパ的であり、どの時代にも通用する。(中略)同世代の映画監督たちが「若きポーランド」やロマン主義といった過去の時代に言及するなか、カヴァレロヴィチは詩を散文で豊かにしている。」(「Film」、2008、no. 2)
扱う主題は多岐に渡っているにも関わらず、カヴァレロヴィチの作品にはある傾向が通底している。それは、個人あるいは集団において抑制が効かなくなった感情に対する、根深く本能的とも言える抵抗だ。この態度はロマン主義も拒否する。映画批評家のマリア・コルナトフスカMaria Kornatowskaのこのコメントがよく知られている。カヴァレロヴィチは「感情と信念」よりも「賢人の眼鏡」(*アダム・ミツキェヴィチの言葉による)を好んだのだ。
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イェジー・ホフマンJerzy Hoffman
60年代のポーランド映画は、歴史映画と時代劇が優勢だった。アカデミー賞候補になったイェジー・カヴァレロヴィチの長編『太陽の王子ファラオFaraon』(1965)は、古代エジプトが舞台で、高額の製作費がかけられた。ステファン・ジェロムスキStefan Żeromskiの小説を原作としたアンジェイ・ヴァイダの時代劇映画『灰Popioły』は国民的な議論の引き金となった。この映画の中で、ヴァイダは、ポーランドのロマン主義の伝統を率直に批判している。一方、ヴォイチェフ・イェジー・ハスの幻想的な『サラゴサの写本Rękopis znaleziony w Saragossie』(1965)はポーランドだけでなく、世界中の観客に熱狂的に受け入れられた。
しかしながら、ポーランド時代劇映画の立役者はイェジー・ホフマンである。ホフマンは、ヘンリク・シェンキェヴィチHenryk Sienkiewiczの小説を原作としたデビュー作『パン・ヴォウォディヨフスキ/草原の火Pan Wołodyjowski』で一躍有名となったが、それ以前には挑戦的なドキュメンタリーを製作していた。
シェンキェヴィチ(1846-1916)は国民精神を鼓舞するような歴史小説を書いた。この白黒映画『草原の火』によって、娯楽映画の名手と見なされるようになったホフマンは、これに特化していく。同じくシェンキェヴィチの小説を映画化した『大洪水/遠雷Potop』はホフマンの最高傑作だろう。1974年製作、アクションありロマンスありの5時間に及ぶ大作である。映画の舞台は17世紀。1655年から1658年の間の「大洪水」を背景とする。「大洪水」とは、スウェーデンによるポーランド・リトアニア共和国の侵略のことで、最終的にはポーランド・リトアニア軍がこれを阻止する。主人公は勇敢な兵士で、命をかけて祖国を守り、ポーランド女性アレクサンドラ・ビッレヴィチAleksandra Billewiczに恋をする。まさにメロドラマと冒険譚の融合である。この映画は1975年にアカデミー賞候補となる。観客動員数は2700万人を超え、テレビでの視聴者はさらに数百万人多い。
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モラルの不安の映画Kino moralnego niepokoju(1976-1981)
70年代ポーランド映画には大きな変化があった。歴史のテーマがもはや主流ではなくなった。ポーランドの映画監督は、共産主義国の現実を生きる人々の心理を追い始めた。小さい町や田舎の生活、汚職、賄賂、コネ、共産主義者の理想と共産主義国の問題との衝突。こういったテーマを扱った。
1975年グダンスクで開催された映画監督フォーラムで、アンジェイ・ヴァイダとクシシュトフ・ザヌッシKrzysztof Zanussiが行ったスピーチが、この新しい動向のきっかけとなった。二人は、共産主義当局が芸術の自由を抑え込み、また社会や政治の重要な問題を人々に公に議論させないようにしていると言って非難した。
「モラルの不安の映画」という言葉を作ったヤヌシュ・キヨフスキJanusz Kijowskiは、このように説明している。「モラルの不安というものはそもそも映画の基本である。というのも、不安とは戦い、利害の衝突であり、モラルというのは善と悪の戦いだからだ。つまり、どの映画にも基本的に含まれている。(中略)しかし、70年代末ポーランドではこの言葉は当局にとって別の意味を持ち始めた。みんなが信じているものを破壊する存在のように見なされ始めたのだ。当時、権力者はあらゆる崇高な言葉を恐れていた。「道徳」というのは「社会主義の」という形容詞が付かなければ、全然機能しないものになっていた。だから、共産党的権威のお墨付きのない、デカローグ(十戒)や、体系外の規則や価値観について語ることは、支配層にとって脅威だった。」
この「モラルの不安」の最初の映画はクシシュトフ・キェシロフスキKrzysztof Kieślowskiの『スタッフPersonel』(1976)だ。これはキェシロフスキの長編デビュー作でもあった。しかし「モラルの不安の映画」が全盛期を迎えるのは、アンジェイ・ヴァイダの『大理石の男Człowiek z marmuru』が公開された後である。「モラルの不安の映画」の代表作には以下のものがある。アグニェシュカ・ホラントAgnieszka Hollandの『田舎役者Aktorzy prowincjonalni』と『孤独な女Kobieta samotna』、クシシュトフ・ザヌッシKrzysztof Zanussiの『保護色Barwy ochronne』、『啓蒙Iluminacja』、『コンスタンスConstans』、フェリクス・ファルクFeliks Falkの『司会者Wodzirej』、アンジェイ・ヴァイダAndrzej Wajdaの『麻酔なしBez znieczulenia』、そしてクシシュトフ・キェシロフスキKrzysztof Kieślowskiの『偶然Przypadek』。
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クシシュトフ・ザヌッシKrzysztof Zanussi
クシシュトフ・ザヌッシKrzysztof Zanussiは、直接「モラルの不安の映画」とは関係していない。それどころか、ザヌッシの映画は、国内外の映画のいかなる潮流にも属したことはない。ザヌッシ曰く、
「私の映画は、まず文学から生まれてくる。それは人間の言語みたいなもの。映画における視覚化という考え方に私はいつも疑いを抱いている。」(「Film magazine」、1992 No. 17)
70年代にザヌッシは『家族生活Życie rodzinne』、『壁の向こうZa ścianą』、『啓蒙Iluminacja』、『保護色Barwy ochronne』、『螺旋Spirala』を製作した。
ザヌッシの主人公は、いつも同じ瀬戸際に立たされている。ある価値観と、それを捨ててしまいたい衝動の間で選択を迫られるのだ。ザヌッシの映画はまた「作家主義の映画」の例だとされている。ザヌッシ自身がほとんど全作の脚本を手がけた。愛、死、幸福、良心といった永遠の問題がザヌッシの映画のテーマである。今日の世界にこれらの問題がどう現れているかを観察し、作品の中で探求している。
映画批評家のアンジェイ・ルテルAndrzej Luterは、ザヌッシの映画は実存的だと言っている。
「ザヌッシの映画は我々を挑発する。本質的な問いを投げかける。精神の豊かさ、宗教、信仰、これらは悪やそれ自体は無意味な苦しみに対して、十分な、納得のいく答えになりうるのだろうか?あるいは、死の神秘に対する十分な答えになりうるのだろうか?」(「Kino」2009、No. 6)
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クシシュトフ・キェシロフスキKrzysztof Kieślowski
クシシュトフ・キェシロフスキKrzysztof Kieślowskiは世界的に有名なポーランド人映画監督である。しかしキェシロフスキは最初から映画監督を目指していたわけではない。「実を言うと、学校に行きたいと思ったことがない。ボイラー室の火夫になりたかったんだ。」『Krzysztof Kieslowski: I'm So-So…』の中で監督はこう話している。しかし最終的には、三度目の受験でウッチの映画大学へと進学する。受験に二度失敗したが、諦めなかった。「意地になっていた。(中略)あの馬鹿どもが僕をとらないっていうなら、意地でも合格してやるって思ったんだ。」
しかし、その甲斐あって、大学では尊敬できる人たちに出会うことになる。講師でドキュメンタリー映画監督のカジミェシュ・カラバシュKazimierz Karabaszやイェジー・ボサクJerzy Bossakである。大学を卒業すると、ワルシャワのヘウムスカChełmska通りのWytwórnia Filmów Dokumentalnych i Fabularnych(ドキュメンタリー・長編映画製作会社)で働き始めた。長編フィクション映画に興味のなかったキシェロフスキは、共産主義時代のポーランドの人々の日常をフィルムに収め始める。
映画評論家のマレク・ヘンドリコフスキMarek Hendrykowskiは以下のように述べている。
「クシシュトフ・キシェロフスキが最初に愛を捧げたのはドキュメンタリー映画だ。今日ではフィクション作品が世界的な成功を収めたことで、ドキュメンタリー作家としての時代は陰に隠れてしまっている。まさにこのドキュメンタリー映画が、何年も前に彼の作家としての個性を形作ったこと、多くのフィクション映画の中にはドキュメンタリー作家として培った経験が生きているということを、私たちはほとんど忘れてしまっている。」
ドキュメンタリーはキシェロフスキに、現実を観察する方法を教えた。その観察者の視点で、社会主義の闇を描いた最初のフィクション映画を撮った。『スタッフPersonel』と『アマチュアAmator』である。
1985年キシェロフスキはワルシャワの有名な弁護士クシシュトフ・ピェシェヴィチKrzysztof Piesiewiczと共同で脚本を書いた。二人はその後長年に渡って共同脚本家として仕事をすることになる。二人の共作には以下のものがある。『終わりなしBez końca』、『殺人に関する短いフィルムKrótki film o zabijaniu』、『デカローグDekalog』、『ふたりのベロニカLa Double vie de Véronique』、『トリコロール三部作Trois Couleurs』。90年代の初め、キシェロフスキは詩情あるリアリズムを捨て、神秘的な表現を使うようになった。キシェロフスキの映画は世界的な称賛を得た。
トリコロール三部作が完成すると、キシェロフスキは引退を発表した。亡くなる数ヶ月前、キシェロフスキはピェシェヴィチと共同で『天国Raj』、『地獄Piekło』、『煉獄Czyściec』の三部作の脚本執筆に取り掛かっていた。三部作は未完に終わったが、「天国編」をもとに、2002年ドイツの映画監督トム・ティクヴァTom Tykwerが『ヘヴンHeaven』(ドイツ・イタリア製作)を製作した。