ショパンを演じた日本人
村上裕明(Hiroaki Murakami, 1983年生まれ)は日本に住んでいたころ、俳優になることなど考えてもいなかった。そんな考えが浮かんだのは、ポーランドに来てからのことだった。現在では、ワルシャワ屈指の劇団で活躍している。
ポーランド語がとてもお上手ですね。
まさにヤギェウォ大学のポーランド語コースが、私が初めて演技と出会った場所でした。どの授業を履修したらいいか分からなかったので、やむなく演劇の授業を選びました。それは21年前のことでした。日本人の神父役を任されたことを覚えています。ポーランド語をほとんど話せなかったにもかかわらず、その学期中ずっと台詞を暗記しようと頑張っていました。それがとても気に入ったので、次の学期も受講しました。その時にはもう大きな役を得ました。劇作家スワヴォミル・ムロジェク(Sławomir Mrożek, 1930-2013)の長編劇『Tango(タンゴ)』に登場するエデク(Edek)の役です。
それは本当に強烈な経験でした。私は何よりもまず、音で台詞を覚えることに集中し、自分が何を言っているかについてはあまり深く考えませんでした。同時に、プロによる『タンゴ』(筆者注:現代劇場(Teatr Współczesny)にて上演。演出マチェイ・エングレルト(Maciej Englert, 1946年生まれ)の公演の録画を何度も見ていました。その舞台でエデクを演じていたのは、もう亡くなってしまいましたが、クシシュトフ・コヴァレフスキ(Krzysztof Kowalewski, 1937-2021)でした。勉強して1年経ち、私もその役を演じることができました。
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村上裕明。写真:Bartłomiej Zawiła
どのようにして大学で演劇を勉強することになったのですか?
その時の演技が、ポーランド語コースの責任者だった教授に気に入ってもらえたんです。1年経って、その教授が私に尋ねたんです。「ヒロさん、これからどうされますか? コース終了後は何をなさるんですか?」と。 私は「全く分かりません」と答えました。私は具体的な目的もなく、好奇心から、ただ言語を学ぼうと1年ポーランドに来たのです。すると教授は「もしご希望なら、もう1年本校に残り、授業に参加してもいいですよ」と言ってくれました。そうして私はポーランドに残ることにしました。劇作家アレクサンデル・フレドロ(Aleksander Fredro, 1793-1876)などの作品を演じたことも覚えています。いくつかのアマチュア公演にも出演しました。
2年半が過ぎ、ある公演の後、あの時の教授がまた尋ねてきました。「ヒロさん、これからどうするつもりですか?プロの俳優になりたくないですか?」。私は「でも、どうすればいいんですか?」と聞き返しました。すると教授は、クラクフにある演劇大学のことを教えてくれ、入学を目指してみるよう説得してきたんです。
それからしばらくして、当時私が住んでいたアパートの大家さんも、これからどうするつもりなのかと尋ねてきました。私は、演劇大学に入りたいけれど、何から始めたらいいのか分からないと答えました。すると彼女はこう言いました。「それはちょうどよかったわ。私の夫は、その大学の学部長だったの。今はもう教鞭をとってはいないけれど、試験の準備のために指導してくれるかもしれないわ」その夫とは、舞台・映画俳優でもあった今は亡きエドヴァルト・ドブジャンスキ(Edward Dobrzański, 1929-2022)教授であり、国立クラクフ演劇大学(Państwowa Wyższa Szkoła Teatralna w Krakowie)(現スタニスワフ・ヴィスピャンスキ記念演劇アカデミー Akademia Sztuk Teatralnych im. Stanisława Wyspiańskiego)の伝説的な学部長でした。ですから、私は本当に幸運でした。偶然か、運命か ―― おそらくその両方でしょう。
そもそも、何がきっかけでポーランドに来ようと思ったのですか?
高校生の頃から、ヨーロッパに行きたいという夢がありました。観光ではなく、1、2年、長くても5年ほどそこに住んで、ヨーロッパの生活様式や文化、歴史に触れてみたかったんです。ただ単に、ヨーロッパでの生活がどのようなものか見てみたいと思っただけです。
普段、若い日本の方々と話をすると、パリやフランスのことをよく耳にします。
私はもっと個性的でありたかったんです。日本人がよく行く場所には行きたくありませんでした。思ったんです。「みんなが行くパリに行ったところで、何の意味があるんだ?」って。そこで、別のアイデアを探し始めました。そして、たまたまテレビで(クシシュトフ・)キェシロフスキ監督(Krzysztof Kieślowski, 1941-1996)の映画『トリコロール/白の愛(Trois couleurs: Blanc)』(1994)を見たんです。深夜1時に放送されていました。
映画『トリコロール/白の愛』の一場面、1994年。写真:Cortesia Album /East News
キェシロフスキ監督の作品に非常に興味を惹かれました。彼の映画はほぼすべて見ることができました。もっとも心に残ったのは『デカローグ(Dekalog)』(訳注:1989年に公開された連作)と『偶然(Przypadek)』(1987)です。そこで、私はポーランドを訪れました。
いつも不思議に思うのですが、なぜキェシロフスキの映画は日本の観客の心にこれほど響くのでしょうか?
私自身もはっきりとは分かりません。アンジェイ・ヴァイダ(Andrzej Wajda, 1926-2016 訳注:日本では「ワイダ」の名で知られる)は世界的に認められた素晴らしい映画監督ですが、彼の映画にはそれほど心を打たれることはありませんでした。キェシロフスキの場合は違いました。もしかすると、日本人は運命を巡る物語を好むのでしょうか。私自身は神を信じていませんが、彼の映画には何か精神的なものが宿っています。『ふたりのベロニカ(La Double vie de Véronique)』(1991)や『デカローグ』は宗教を扱った作品ではなく、それ以上のもの、ある種の精神性を描いているんです。『偶然』も同様です。キェシロフスキの作品で私が気に入っていたのは、映画が最後まで曖昧なままであるという点です。そこには多くの曖昧さやあやふやな感じがあり、常に何かが水面下で起こっています。まさにこうした要素が、私をポーランドへと駆り立てたんです。
大学では、キェシロフスキの世界に身を置く役者たちから指導を受けました。
エドヴァルト・ドブジャンスキ教授のおかげで、私は非常にしっかりと試験に備えることができました。 ―― 試験がどのようなものか、どんなことがあり得るかを話してくれていたんです。不合格になるなんて、まったく考えもしませんでした。
入学試験では緊張しませんでした。自分が外国人であり、ポーランド語の話し方が他の人より劣っていることは分かっていたので、ある面では自分の方が難しい状況になるだろうと覚悟していました。しかし、一つだけ全く思いもよらなかったことがありました。審査委員会の前に座っていると、突然、日本にいる頃から見ていた俳優、クシシュトフ・グロビシュ(Krzysztof Globisz, 1957年生まれ)の姿が目に入ったのです。『殺人に関する短いフィルム(Krótki film o zabijaniu)』(訳注:キェシロフスキ監督による1988年の作品)で彼は若い弁護士を演じており、私に大きな印象を残した役者でした。そして今、その同じ人物が審査委員会の席で私の目の前に座っていたんです。その時の感情は言葉では言い表せません。忘れられない出来事でした。
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クシシュトフ・グロビシュ。写真:Wojciech Plewiński / Forum
村上さんにとっては大きな衝撃だったでしょうね。
ええ、でもグロビシュにとってもそうだったようです。試験の途中で、彼は突然泣き出してしまいました。私のことを笑っているのかと思ったんですが、後で単に感動していたのだと気づきました。試験を終えて部屋を出たとき、私は合格できると確信していました。
大学生活はどうでしたか?
とても大変でしたが、それについて考える余裕はありませんでした。その時間はあっという間に過ぎてしまいました。朝8時から夜10時まで、大学で過ごしました。ずっと同じ人たち、つまり学生や先生方と一緒にいました。ハードでしたが、幸いにも良い仲間がいて、言葉の面で助けてくれました。先生方にも非常に支えて頂きました。私自身も、熱心にたくさん勉強しました。
村上さんの初期の役の一つに、2010年のパヴェウ・ミシキェヴィチ(Paweł Miśkiewicz, 1964年生まれ)演出による舞台『Klub Polski(ポーランド・クラブ)』でのショパン役がありました。そこにはパラドックスがあります。ショパンは「ポーランドを象徴するポーランド人」ですが、その役を演じたのは日本人でした。それについて、どのように感じましたか?
その時、本当にどこかにたどり着いたのだという感じがしました。入学試験で、「卒業したら、どこで働きたいですか?」という質問を受けました。その瞬間、ポーランドの俳優になりたいと思ったんです。
ショパンの役を頂いた時、その目標を達成したと感じました。ドラマティック劇場(Teatr Dramatyczny)で仕事をしていて、ポーランド人であるショパンを演じることになったんです。本当に幸せでした。私は他の人と違います。外国人です。言葉遣いや発音も少しおかしい。でも演劇の世界では存在できる。映画ならおそらくショパンを演じることはなかったでしょうが、舞台でなら演じることができました。
村上さんのフィルモグラフィや舞台でのキャリアを追ってみると、映画やドラマでは主に日本人役を演じているのに対し、舞台では出自やアイデンティティに関係なく、あらゆる役を演じられることに気づきました。なぜそうなのでしょうか?
それはやはり、舞台と映画は異なる芸術形態だからです。もちろん、監督 ―― または監督の寛容さと言った方がいいでしょうか ―― にも大きく左右されます。幸いなことに、既にデビュー当初から寛大な監督に出会えました。いつだったか、演劇大学の廊下でパヴェウ・ミシキェヴィチが私を見て尋ねました。「君は日本人?」「はい」「ピアノは弾ける?」 「いいえ」それだけの会話だったにもかかわらず、私を起用してくれました。重要なのは私がピアノを弾けるかどうかではなく、その役を演じ切れるかどうかだったからです。
ショパンがポーランド人だったことは周知の事実ですが、彼はポーランド人としての側面が強かったのか、それともフランス人としての側面が強かったのかという疑問がよく投げかけられます。ミシキェヴィチは、ポーランドの演劇大学に通う日本人である私を見て、これならうまくいくかもしれないと思ったのでしょう。何しろ、日本人はショパンをこよなく愛していますから。この舞台では、ショパンという作曲家はすでにポーランドを離れ、パリに住んでおり、孤独で、体調も優れず、パスポートの問題を抱え、ポーランド出身ゆえにおかしな発音でフランス語を話しています。ミシキェヴィチはこれに似た人物を私の中に ―― ポーランドにいる孤独な外国人で、おかしな発音で話す私の中に見出したのです。
この舞台では、ポーランド演劇界における数々のレジェンドたちと共演しました。イェジー・トレラ(Jerzy Trela, 1942-2022)、スタニスワヴァ・ツェリンスカ(Stanisława Celińska, 1947-2026)、ヴワディスワフ・コヴァルスキ(Władysław Kowalski, 1936-2017)、テレサ・ブジシュ=クシジャノフスカ(Teresa Budzisz-Krzyżanowska, 1942年生まれ)、マリウシュ・ブノワ(Mariusz Benoit, 1950年生まれ)……。残念ながら、既にこの世を去ってしまった方も何人かいます。デビュー作でまさにこの方々と共に舞台に立てたのは、本当に大変幸運なことでした。
日本の演劇からはインスピレーションを受けましたか?
全く受けていません。日本に住んでいた頃、演技には全く興味がありませんでした。
日本では、その職業に関わる家系に生まれなければ、つまり「役者の血」が流れていなければ、俳優業という道に進むのは難しいですよね。歌舞伎の世界を描いた映画『国宝』(李相日監督、2025年)をご覧になりましたか?
演出家のクシシュトフ・ヴァルリコフスキ(Krzysztof Warlikowski, 1962年生まれ)が「面白い日本映画だ」と勧めてくれたので、わざわざ映画館に見に行きました。見ていて、日本映画とポーランド映画では演技スタイルがどれほど違うかを強く感じました。日本の映画には間(ま)がたくさんあります。例えば、「これは私が決めたことです」という台詞を、 ポーランドでは一息で言い切ります。しかし日本では、「これは……〔間〕私が……〔間〕決めたことです」という感じになります。日本ではそういう演技をするのです。
現在はワルシャワの新劇場(ノヴィ・テアトル Nowy Teatr)に所属し、ヴァルリコフスキの劇団の一員ですね。この劇団の多くのメンバーは、共通の世代的経験を持っています。つまり、1980年代と90年代、ポーランドの体制転換という時期を覚えているということです。そこでどのように自分の居場所を見つけたのでしょうか?
とてもうまくやれています。ひょっとすると、私が少し目立つ存在だからこそ、そう感じられるのかもしれません。この劇団のメンバーは皆、非常に個性の強い人物ばかりです。――ヤツェク・ポニェジャウェク(Jacek Poniedziałek, 1965年生まれ)、マヤ・オスタシェフスカ(Maja Ostaszewska, 1972年生まれ)、マグダレナ・チェレツカ(Magdalena Cielecka, 1972年生まれ)、マウゴジャタ・ハイェフスカ=クシシュトフィク(Małgorzata Hajewska-Krzysztofik, 1965年生まれ)、アンジェイ・ヒラ(Andrzej Chyra, 1964年生まれ)。以前はズィグムント・マラノヴィチ(Zygmunt Malanowicz, 1938-2021)やエヴァ・ダウコフスカ(Ewa Dałkowska, 1947-2025)もいました……。 もちろん、私はヒラやマチェイ・シュトゥル(Maciej Stuhr, 1975年生まれ)ほど経験豊富で評価の高い俳優ではありませんが、その場に合わないと感じたことは一度もありませんでした。
移住というテーマを扱った舞台に取り組む際、ご自身の移住体験を活かしていますか? 国と国を行き来して暮らしてきた経験は、俳優としての仕事にどのように役立っているのでしょうか?
それはとても面白い質問ですね。私がこの劇団に所属しているのは、私が日本で得た経験から何かを提供するためでもあると感じているんです。もし誰かが私を高く評価してくれたり、私の演技を気に入ってくれたりするのなら、それはまさに私が異なる文化の出身であるからかもしれません。単に外見が違うとか、違ったアクセントで話すというだけのことではないのです。
その文化から、役作りにどのような要素を取り入れていますか?
最近、『冬の光(Goście Wieczerzy Pańskiej)』(訳注:イングマール・ベルイマン監督の映画『冬の光(Nattvardsgästerna)』(1963)に基づいた、トマシュ・フリゼウ(Tomasz Fryzeł)演出の舞台作品。初演:2023年)に出演し、漁師ヨナス役のマレク・カリタ(Marek Kalita, 1958年生まれ)の代役を務めました。私の演じる役はスカンジナビア出身なので、最初は「どう演じればいいんだろう?」と悩んでいました。何しろ、年齢も外見もマレクとは全く違いますから。それでも、なんとかその要素を融合させることができました。この登場人物は、原子爆弾によって世界が今にも終わってしまうのではないかという恐怖の中で生きています。まさにこの点で、私は日本での経験を活かすことができました。
もちろん、それは私自身の体験ではありませんが、私が育った国には、広島と長崎の記憶が息づいています。私はそれを感情に置き換えようと試みました。 ―― 世界が今にも終わってしまうという恐怖、原子爆弾があらゆるものを破壊してしまうかもしれないという恐怖を、どう伝えればよいのか。この登場人物は最終的に、まさにその恐怖ゆえに自殺してしまいます。モノローグでは、私が日本にいた頃から知っているもの、つまり、原爆とは何か、そしてそれに伴う恐怖がいかに大きいものであるかという認識を取り入れました。
その時、公演終了後に同業者や演出家、そして数名の観客と話す機会がありました。彼らは私の話を聞いてくれました。その登場人物がスカンジナビア出身であろうと、他のどこの出身であろうと関係ありません。 ―― 私はアジア人であり、それは一目瞭然ですが、何よりもまず感情やテーマを伝えようと努めています。それがうまくいけば、人々は耳を傾けてくれるのです。
日本とポーランドでは、身体や顔、声の使い方において大きな違いがあるかもしれません。日本の習慣をポーランドの基盤に移し替えることは、村上さんにとってどのような感じでしたか?
私の仕事においては、それは身体の表現や表情だけでなく、叫び声にも関係しています。日本では、度々感情はまさに叫び声によって表現されます。私も舞台でそれを活用していますが、それは私にとって自然なことです。しかし、ポーランドのコンテクストでは、その響きが少し異なります。ポーランドでは、誰かが感情を表したいとき、「クソッ、ちくしょう」と言うことが多いです。一方、日本ではただ「ほう!」とか「へえ!」と叫ぶことがよくあります。ポーランドでは「気をつけて!」と言うところを、日本では単に「あああ!」と言うこともあります。文化的背景も表現に影響を与えます。
どんな役柄に最も惹かれますか?
それはどちらかといえば、映画やドラマに関する夢ですね。本当にたくさん準備しなければならないような役をやりたいです。例えば、スポーツ選手の役で、コーチと一緒に3か月間トレーニングしなければならないような役とか。あるいは、イタリア語やフランス語、ドイツ語を話す人の役で、それらの言語を習得しなければならないような役もやってみたいですね。
準備の段階が好きなんですか?
とても好きです。残念ながら、これまでそういう経験はあまりありませんでした。たいていは、ただ役をもらい、すぐに台詞を覚え、撮影現場で数回のリハーサルをして、撮影を始めます。
つまり、規律が好きということですか?
そして冒険も。俳優であることの素晴らしさはまさにそこにあります。 ―― 役作りの過程です。
インタビュー:ウカシュ・マンコフスキ(Łukasz Mańkowski)、2026年8月26日
日本語訳:スプリスガルト友美(Tomomi Splisgart)、2026年9月4日