ドキュメンタリー・長編映画監督、脚本家。1941年ワルシャワ生まれ、1996年同地没。
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クシシュトフ・キェシロフスキ(Krzysztof Kieślowski)は「デカローグ」シリーズ、「ふたりのベロニカ」、「トリコロール」三部作(「青の愛」、「白の愛」、「赤の愛」)で世界的名声を得た。単純な物語を描きながら、複雑な人間心理に関する難しく根源的で普遍的な問題を扱うことで、比類なき功績を残した映画監督である。彼の作品は一貫して「どう生きるべきか」を問い、それに答えようとしている。あるインタビューでキェシロフスキはこう語った。「人は誰でも、何かを始めるときには世界を変えたいと思っている。ぼくは文字通りの意味で世界を変えられると信じたことはないかもしれない。でも世界を記述することはできると思った。」
学生時代の作品
初期にはドキュメンタリーを制作していたが、最もよく知られる後期の作品には、特定の文化的・政治的・社会的ディテールが含まれていない。現実はミクロ世界のプリズムを通して描かれた。日常で遭遇する一見普通の場所が、誰もが持つ内面世界を構成する感情、直感、夢、迷信などの領域全体を、主要な関心事として扱うための適切な文脈となった。一連のイメージ、鑑賞者の目を物から物へ導くゆっくりとしたカメラワーク、微細なディテールに視線を集めるフレーミングは、象徴的な意味を持つ対象物に意識が向くように計算されている。
キェシロフスキはドキュメンタリー映画の制作からキャリアをスタートさせた。映画評論家のマレク・ヘンドリコフスキ(Marek Hendrykowski)はこう書いている。
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「クシシュトフ・キェシロフスキが最初に愛したのはドキュメンタリーだ。長編映画監督として世界的に成功を収めたことでドキュメンタリー映画が陰に隠れてしまった今日、この成功に先立つドキュメンタリー映画の時代がいかにキェシロフスキの芸術的アイデンティティを形成したか、そして長編映画がドキュメンタリー映画監督としての経験にどれほど負っているのかを私たちは忘れてしまっている。」
1962年に演劇専門学校を卒業すると、ワルシャワのTeatr Współczesny(テアトル・フスプウチェスヌィ *現代劇場)で衣装係として働いた。勉強を続け、1968年にウッチ映画大学を卒業し、1970年に監督科の学位を取得した。この時期に最初のドキュメンタリー映画「役所」、「ウッチの街から」および最初の短編劇映画「路面電車」を制作している。キェシロフスキのドキュメンタリー映画を主題にした書籍「Dokumenty Kieślowskiego(キェシロフスキのドキュメンタリー)」の著者ミコワイ・ヤズドン(Mikołaj Jazdon)はこう述べている。
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「最初の学生作品『路面電車』を覚えている人は、監督は初めから長編を作る運命にあったのだと主張するかもしれない。実際、若い男女のうまくいかなかった出会いを描いたこの短編無声映画には、現実や人生、そして偶然といった監督が最終的に関心を向けた事柄が多く含まれている。」
ドキュメンタリー映画
1966年から80年にかけて、キェシロフスキは十数本のドキュメンタリー映画を制作している。そのほとんどが共産主義時代のポーランドの社会的・経済的・政治的現実を探るものだった。群像を描いたものに「役所」「工場」「ウッチの街から」「病院」「労働者’71:我々抜きに我々のことを決めるな」、個人を主人公にした作品に「煉瓦工」「ある党員の履歴書」「ある夜警の視点から」「初恋」「種々の年齢の七人の女」がある。日常的な場所を背景にして、同時代のポーランドの現実を普遍的に描いている。こうすることでシステムの隠れたメカニズムに迫ろうとした。タデウシュ・ソボレフスキ(Tadeusz Sobolewski)は書籍『Kino Krzysztofa Kieślowskiego(クシシュトフ・キェシロフスキの映画)』の中で、この前提を検証して、以下のように結論づけた。
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「キェシロフスキの映画の主人公は、ドキュメンタリーであれ、(モラルの不安の映画に分類される)長編であれ、体制と戦ってはいない。むしろ、長編「傷跡」の工場長や、ドキュメンタリー「わからない」の元工場長、あるいはドキュメンタリー「煉瓦工」の主人公や、同じくドキュメンタリー「病院」の医師のように、ただ良い仕事をしたいだけだ。ところが、この良い仕事をしたいという姿勢が、そのような仕事を好まない体制側と衝突してしまう。こうして主人公たちは、些細な物事のために闘い続け(「病院」「ラリーの前に」)、わずかに願いを遂げるか、あるいは破れてしまう(「ある党員の履歴書」「わからない」)。目立たず静かな生活を送りたいという希望(長編「Spokój(平穏)」ドキュメンタリー「初恋」)もまた叶い難い。彼らはどちらかに与することを余儀なくされ(「スタッフ」「わからない」「アマチュア」)、政治上というだけでなく、人生上の難しい選択を迫られることになる。」
テレビ・ドキュメンタリー「写真」がプロとしてのデビュー作となった。1983年までワルシャワのWytwórnia Filmów Dokumentalnych(ドキュメンタリー映画スタジオ)に所属し、ドキュメンタリー映画の大半をここで制作した。当時のキェシロフスキのフィクション映画には、素人俳優や実在の場所、本人が演じる登場人物など、ドキュメンタリーの姿勢が現れており、これは後の長編映画にも影響を与えている。1973年にはテレビ用劇映画の第一作「地下道」を制作した。1980年にはドキュメンタリー最終作となった「週7日」を制作した。ドキュメンタリーを離れた理由は、共産主義時代に作家たちが置かれていた状況に関係していた。当時、制作の自由が制限されていただけでなく、当局によって芸術以外の目的で映画や映像素材が利用される恐れがあったのだ。これに加え、ドキュメンタリー自体の限界も影響していた。ある時、キェシロフスキはドキュメンタリーで愛を表現するのは難しいと語った(「初恋」で試みている)。監督は、登場人物の人生に作者が干渉することで生じる危険性にも気づいていた。
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長編映画
1985年にキェシロフスキは、ワルシャワの著名な弁護士クシシュトフ・ピェシェヴィチ(Krzysztof Piesiewicz)と共同で脚本を書き始めた。最初の共作は「終わりなし」であり、これ以降の作品はすべて二人の共同脚本となった。1988年の「殺人に関する短いフィルム」および「愛に関する短いフィルム」(二本とも「デカローグ」シリーズに含まれた)が世界的に高い評価を得た。1991年の「ふたりのベロニカ」以降はポーランド・フランス合作映画を制作し、1993年以降はすべての作品がフランスの有名な映画プロデューサー、マリン・カルミッツ(Marin Karmitz)との共同制作となった。
「デカローグ」「ふたりのベロニカ」「トリコロール」はドキュメンタリーや初期の長編映画とは異なり、現実的な要素が取り除かれ、最小限に簡略化されることによって、イメージの密度が増している。キェシロフスキは新しい題材に挑戦したというより、自らの映画言語に手を加え、様々な形式的解決法を意識的に模索していた。
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評論家のマリア・コルナトフスカ(Maria Kornatowska)によれば、「ふたりのベロニカ」以降、キェシロフスキは視覚的な美しさに細心の注意を払うようになった。画面上で支配的となる色を念入りに選び、ヒロインの撮影方法を変え、広告のような映像でその美しさを際立たせた。ドキュメンタリー映画制作の経験から生まれたこれらの手法が、映画の新しいスタイルの源となった。
キェシロフスキは「シンプルな物語」を語りたいと思うようになった。明快で、論理的に構成され、現実の要素と争いの痕跡がない物語を。それは、ほとんど人間の感情の領域だけを対象とする物語だった。監督は、ドキュメンタリーと劇映画との対比を、現実対ストーリー(真実対虚構)というより、思想対ストーリーとして捉えていた。ドキュメンタリーは作者の思想やメッセージといった言説で構成される点で、劇映画と異なると考えていたのである。しかし素材となる人生が作者の意図通りにならないドキュメンタリーではなく、むしろフィクション(特に後期の長編映画)にこそ、作者の思想の発展に基づいた構成を見ることができる。後期の作品で監督は外部の制限から自由になり、実験室の科学者のようにアイデアを実現している。「デカローグ」以降の作品に頻繁に現れるディテールは、映画の外の現実を再現するのではなく、感情を構築し、映画の情報を伝える重要な役割を果たしている。コルナトフスカは、キェシロフスキ作品ではシンボルや物がしばしば神秘的で不思議な意味を持つことを指摘している。
「殺人に関する短いフィルム」が国際的に大成功を収めた後、十戒をモチーフにした「デカローグ」シリーズの残りの作品が、西側諸国を中心に大反響を呼んだ。キェシロフスキ作品は、鑑賞者の視点の違いから、ポーランドと西側諸国で評価に差があった。「デカローグ」シリーズは一見ポーランドの現実を舞台にしている。各物語は、共産主義時代のポーランドに典型的な灰色の陰気な団地を中心に展開され、西側の鑑賞者が見れば非常にリアルに見えたかもしれない。しかしポーランドの鑑賞者にとっては、現実の生活や日常の細部が欠け、かなり抽象化された世界だった(現実の描写はドキュメンタリー作家であるキェシロフスキにとって自家薬籠中のものだったにもかかわらず)。
「トリコロール」三部作(1993-94)の完成後、キェシロフスキは監督業を引退することを発表した。亡くなる最後の数ヶ月間には、ピェシェヴィチと共同で「天国」「煉獄」「地獄」という三部作の脚本を執筆していた。
受賞歴
クシシュトフ・キェシロフスキはドキュメンタリー映画と長編映画の両方で数々の賞を受賞している。代表的なものに、「スタッフ」(1975)でマンハイム国際映画祭・グランプリ、「アマチュア」でモスクワ国際映画祭・金賞、「トリコロール/青の愛」でヴェネツィア国際映画祭・金獅子賞、「トリコロール/白の愛」でベルリン国際映画祭・銀熊賞がある。
1976年には週刊誌「Polityka(ポリティカ)」の「Drożdże(酵母)」賞を受賞し、1985年にはワグフ(Łagów)で開催された第15回Lubuskie Lato Filmowe(ルブスキェ・フィルム・サマー)で生涯功労賞を受賞した。
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1990年には「映像文化への顕著な貢献」が評価され、英国映画協会の名誉会員となった。1993年にはフランス文化大臣から文学芸術勲章が授与された。1994年には映画芸術とヨーロッパ文化の発展への貢献を認められてデンマークのC.J. Sonning賞が贈られ、同年に「トリコロール/赤の愛」でアカデミー賞監督賞にノミネートされた。1995年にはアメリカ映画芸術科学アカデミーの会員になった。1996年にはヨーロッパ・メディア賞(ジローナ)とヨーロッパ映画アカデミーのフェリックス賞を受賞した。2000年にはカトヴィツェのシロンスク大学ラジオ・テレビ学科に監督の名前がつけられた。
フィルモグラフィ
学生作品:
- 1966「Tramwaj(路面電車)」フィクション習作。不首尾に終わった若い男女の出会いを描く。台詞なし。
- 1966「Urząd(役所)」ドキュメンタリー習作。障害年金を支給する役人とその申請者を描く。官僚機械と人間ドラマ。
- 1967「Koncert życzeń(Concert of Requests)」(*タイトルは、視聴者からの近親者への誕生日メッセージ等とともに歌を流したテレビ・ラジオ番組の名前。また人々がそれぞれほしいものを要求して叶えられるような状況を指して言う。)若者の振る舞いやサブカルチャーを描いたドキュメンタリー習作。
ドキュメンタリー映画:
- 1968「Zdjęcie(写真)」テレビ映画。戦時中に撮られた写真の中に、二人の少年がライフルを抱えて微笑んでいる。撮影スタッフが彼らを探し、大人になった二人を見つけるまでを追う。
- 1969「Z miasta Łodzi(ウッチの街から)」ウッチ映画大学の卒業制作。都市ウッチの肖像。都市と産業に対する楽観的なコメントと、崩壊しつつある建物のイメージを組み合わせる。
- 1970「Byłem żołnierzem(私は兵士だった)」第二次世界対戦中に視力を失った兵士数人が体験を語る。公式に提示された戦争とは異なるイメージ。
- 1970「Fabryka(工場)」ワルシャワ郊外のウルスス地区にあるトラクター工場の経営会議の様子に、労働者の作業風景が挿入される。共産主義時代のポーランドの企業と社会主義経済を描いたうんざりするようなイメージ。
- 1971「Przed rajdem(ラリーの前に)」ラリー・モンテカルロへの参加準備をするポーランド代表ドライバーのクシシュトフ・コモルニツキ(Krzysztof Komornicki)を阻む数々の障害と罠。共産主義ポーランドの現実を描く。
- 1972「Refren(リフレイン)」葬儀場の仕事の記録。死んでなお避けて通れないお役所仕事。
- 1972「Między Wrocławiem a Zieloną Górą(ヴロツワフとジェロナ・グラの間)」ルブリンの銅山地帯に関する映画。
- 1972「Podstawy BHP w kopalni miedzi(銅山での労働安全衛生原則)」依頼を受けて制作された研修用映画。
- 1972「Robotnicy '71: Nic o nas bez nas(労働者’71:我々抜きで我々のことを決めるな)」70年代初頭のポーランドの労働者を捉える試み。1970年12月に起こった労働者の抗議行動と軍による暴動鎮圧後の社会の雰囲気、労働者の覚醒、政府の操作を伝える。作品はこのバージョンでは公開されず、作者の同意なく検閲されたバージョンが「Gospodarze(主人)」というタイトルで上映された。さらに当局は、カメラの前で発言した労働者に対抗する目的で映画の音声材料を盗んだ。
- 1973「Murarz(煉瓦工)」煉瓦工のユゼフ・マレサ(Józef Malesa)はかつての優秀労働者(przodownik pracy)であり共産党の活動家であった。5月1日労働者の日に過去を振り返り、スターリン時代や1956年10月の事件を回想する。新しい現実を築くことに意欲を燃やし、そして失望した人物の目を通したポーランドの歴史。
- 1974「Prześwietlenie(レントゲン)」肺病を患う人々についての映画。ドルヌィ・シロンスクのソコウォフスコ(Sokołowsko)にあるサナトリウムで撮影された。病と生きる人々を痛切に描く。
- 1974「Pierwsza miłość(初恋)」若いカップル(17歳と18歳)に最初の子が生まれるまでを追った。共産主義時代のポーランドで、大人としての人生を歩み始めた二人の若者の愛を描く。ここでは何事も簡単には行かず、どんな些細な物事も役所から役所へと奔走しなければならない。
- 1975「Życiorys(ある党員の履歴書)」演出されたドキュメンタリー。地方党統制委員会の会議で、党から除名された労働者が処分不服を訴えている。この労働者も経歴もフィクションだが、会議は、権力への服従を拒んで何かを成し遂げようとする個人に対する真の審判へと変貌していく。誠実さや尊厳という基本原則の名の下に反抗した人々が、いかに破壊されるかを描いている。この映画は研修目的で制作され、ポーランド統一労働者党党員向けに上映された。
- 1976「Szpital(病院)」ワルシャワのバルスカ通り(ul. Barska)にある外傷外科病院の救急室で撮影された。共産主義時代特有の何もかも不足した困難な状態にありながら、患者を助けようとする医者の姿。
- 1976「Klaps(カチンコ)」キェシロフスキの長編映画「Blizna(傷跡)」のアウトテイク集。
- 1977「Z punktu widzenia nocnego portiera(ある夜警の視点から)」工場の警備員であるマリアン・オスフ(Marian Osuch)は規律にこだわり、あらゆる物や人を完全にコントロールすべきだと考えている。一働き手でありながら国家の恐怖政治の模範的支持者である人物を例に取り、全体主義のメタファーを描く。一義的にネガティブな主人公が登場するのはキェシロフスキ作品では珍しい。
- 1977「Nie wiem(わからない)」皮革工場Reniferの工場長を解任された人物の物語。賄賂や内紛が蔓延する国営企業の実態に迫り、腐敗したポーランド経済と60年代の現実を描く。1981年公開。
- 1978「Siedem kobiet w różnym wieku(種々の年齢の七人の女)」十代の少女から引退間際の女性まで7人のダンサーを取り上げ、一人の女性の子供時代から老年期までの肖像のように描いた。移ろいを描いた詩的な作品。1981年公開。
- 1980「Dworzec(駅)」ポーランド統一労働者党第一書記のエドヴァルト・ギェレク(Edward Gierek)が提唱した「第二のポーランド(druga Polska)」構想の象徴的建造物となったワルシャワ中央駅を題材にした映画。この駅(ポーランドを象徴している)の現実と、構内のテレビから流れるプロパガンダ映像とのギャップ。
- 1980「Gadające głowy(トーキング・ヘッズ)」1歳の子どもから100歳の老人まで、様々な職業、様々な年齢の人々が質問に答える。「生まれた年は?」「あなたは誰ですか?」「いちばん大事なものは何ですか?」。そして生まれ年の情報とともに人々の総覧ができあがった。年代の異なる人々の夢や悩みが、人生に関する物語になっていく。二歳の男の子は自動車「シレンカ」になることを夢見て、100歳の女性は長生きを願う。この映画はポーランドについての物語でもある。自国をどのように想像し、何を変えていきたいか。1980年8月、ポーランド人は国の変化について率直に語り始めたが、この映画はこれを先取りしているかのようだ。
- 1988「Siedem dni tygodnia(週7日)」国際な映画シリーズ「City Life」に含まれる作品。7人の人々が1週間の間、日常生活を送る様子を記録した。日曜日には全員が一緒に朝食を取るために集まる。平均的なポーランドの家族の象徴的イメージ。ほとんど会話なしで進行する。製作はオランダ。
長編映画:
- 1973「Przejście podziemne(地下道)」(イレネウシュ・イレディンスキ(Ireneusz Iredyński)との共同脚本)テレビ用の中編映画。地方からワルシャワに出てきた若い教師が、昔別れた妻と地下通路で再会する。教師はよりを戻そうとするが、二人の感情はすれ違う。妻は大都会の生活によって冷たく皮肉な性格に変わってしまっていた。価値観の危機を描いた映画。
- 1975「Personel(スタッフ)」監督の実体験を基にしたテレビ映画。キェシロフスキはかつて主人公のロメク・ヤヌフタ(Romek Januchta)と同様に、劇場の衣装係として働いていた。配役のほとんどを素人俳優が演じており、主人公を演じたのは監督科一年のユリウシュ・マフルスキ(Juliusz Machulski)である。実際の内装を使って撮影され、本物の劇場仕立屋が参加して作られた本作は、ドキュメンタリー映画のようだ。アーティストとスタッフの間にある越えられない壁、若き日の幻想の喪失、人生最初の難しい選択を描く。
- 1976「Blizna(傷跡)」(ロムアルト・カラシ(Romuald Karaś)著『Puławy, rozdział drugi(プワヴィ、第二章)』に基づく。)社会心理劇。不適切な立地のため、住民の反発を招いた化学工場の建設を指揮する工場長を主人公とする。この映画はいわゆる「モラルの不安(moralny niepokój)の映画」に位置づけられる。工場長は自らの決断が住民や労働者との軋轢を生み、致命的な影響を及ぼすのを目の当たりにしながらも職務を続行する。1970年に社会変革の流れを受けて労働者の側に立つが、抗議行動は鎮圧され、失意のなか故郷のシロンスクに帰る。
- 1976「Spokój(平穏)」(レフ・ボルスキ(Lech Borski)著『Noc gitarzystów(ギタリストの夜)』収録「Krok za bramę(門から一歩)」に基づく。)テレビ映画。いわゆる「モラルの不安の映画」の先駆とされる作品。労働者のアントニ・グララク(Antoni Gralak)は刑務所から出た後、平穏な暮らしを築こうとする。しかし結婚相手も住む場所も見つけたものの、平穏は得られなかった。共産主義ポーランドの現実の中で、ストライキを組織する建設現場の同僚や、密告させようとする上層部と対立していく。やがて悲惨な結末を迎える。テレビ公開は1980年。
- 1979「Amator(アマチュア)」「モラルの不安の映画」の中でも出色の作品。アマチュア映画監督のフィリプ・モシュ(Filip Mosz)は国有工場の調達担当者として働いている。生まれたばかりの娘を撮影しようと映画用カメラを購入したところ、子どもだけでなく、職場の工場、さらには町の撮影をすることになっていく。カメラは嘘もつけるし、真実を伝えることもできると気づいた主人公は、真実を伝えたいと願う。しかしその代償として、家族の崩壊、他人との衝突、様々な問題を招く。ラストシーンは象徴的で、フィリプはカメラを自分に向け、自分の人生を語り始める。世界における芸術の位置、勇気、妥協しないこと、発言の責任の範囲、そして創造の自由の代償を探求した映画。
- 1981「Krótki dzień pracy(短い労働の日)」(ハンナ・クラル(Hanna Krall)との共同脚本。クラルのルポルタージュ『Widok z okna na pierwszym piętrze(二階の窓からの眺め)』に基づく。)テレビ映画(1996年公開)。1976年にラドムで起こった労働者の抗議運動に端を発する暴動を、この町の共産党委員会の第一書記であるヴァツワフ・ウレヴィチ(Wacław Ulewicz)の視点から描く。彼はデモ隊が党地方委員会を包囲したとき、建物内部の事務所にいた。
- 1981「Przypadek(偶然)」1987年公開。青年ヴィテク・ドウゥゴシュ(Witek Długosz)の三つの並行した物語。主人公が列車の切符を買うところから三通りの人生が進行する。最初の物語では列車に間に合い、車内で出会った理想主義的な共産主義者に刺激を受け、ヴィテクは党の活動家となる。第二の物語では、駅のホームで警備員と争いになり、逮捕されたことから、反体制側の活動家となる。第三の物語では列車に間に合わず、駅で出会った女性と恋に落ち、平凡な暮らしを送る。第一と第二の物語はいずれも、1980年8月に起こった労働者の大規模なストライキに対する主人公のジレンマと苦悩で幕を閉じる。一見幸せに見える第三の物語では、主人公は飛行機事故で命を落とす。人の運命の予測できない演出家としての偶然。
- 1985「Bez końca(終わりなし)」(クシシュトフ・ピェシェヴィチとの共同脚本)戒厳令下のポーランド。政治裁判で活動家の弁護を務めていた弁護士が亡くなり、残された若い妻は立ち直れずにいた。死者の魂もまた妻の生活に干渉し、妻はその存在を感じ取っている。夫を慕う気持ちから女性は死を選ぶ。主人公の個人的な物語に、若い労働者の政治裁判や社会の政治的立場、弁護士の職業倫理についての考察が織り込まれていく。
- 1988「Krótki film o zabijaniu(殺人に関する短いフィルム)」(クシシュトフ・ピェシェヴィチとの共同脚本)テレビシリーズ「デカローグ」の第5話の映画版。若い男が理由もなくタクシー運転手を殺害し、裁判で死刑を宣告される。克明に描写される刑執行の様子には、死刑制度への抗議の意味が込められている。
- 1988「Krótki film o miłości(愛に関する短いフィルム)」(クシシュトフ・ピェシェヴィチとの共同脚本)テレビシリーズ「デカローグ」の第6話の映画版。郵便局員の青年が、向かいの団地に住む魅力的な女性を望遠鏡で覗いている。未熟な若者の好奇心はやがて強い憧れへと変わる。しかし感情をシニカルに扱い、愛をセックスに還元することに慣れた女性は、男性の気持ちに素直に応えられない。
- 1988「Dekalog(デカローグ)」(クシシュトフ・ピェシェヴィチとの共同脚本)10篇のテレビ映画。ユダヤ教とキリスト教の基本的な倫理規範である十戒をモチーフにしている(厳密に言及しているわけではない)。
「Dekalog I(デカローグ第1話/ある運命に関する物語)」若い大学講師が、コンピュータで算出した氷の耐久性の数値を無条件に信じ、軽い気持ちで息子に近所の凍った湖でスケートすることを許す。ところが子どもは溺れ死に、父親は自責の念に駆られる。科学が十分に確実な答えを与えることはなく、常に大いなる力に支配された不測の事態が起こり得る。
「Dekalog II(デカローグ第2話/ある選択に関する物語)」若い女性の夫が危篤状態で入院している。女性は別の男性の子を妊娠している。産むかどうかは夫の生死にかかっている。女性は医師から夫の生存の可能性について正確な情報を聞き出そうとする。医師は女性に中絶させないための答えを意識的に選ぶ。
「Dekalog III(デカローグ第3話/あるクリスマス・イヴに関する物語)」かつて恋人に捨てられた女性。元恋人の男性は家族を選び、今は模範的な夫になっている。深いうつ状態に陥った女性は、危険な賭けに出る。もしクリスマスイブの晩をかつての恋人と過ごすことができなければ、自殺しようと決めたのだ。彼女は騙したり嘘をついたりして独特の方法ではあったが成功する。運命の賭けに勝った女性は、自殺の決意を捨てる。
「Dekalog IV(デカローグ第4話/ある父と娘に関する物語)」父と娘は、互いの間に家族の絆を越えた感情があることに漠然と気づいている。しかしこれまで認める勇気はなかった。演劇学校に通う娘は、父が気持ちを打ち明けるような状況を作り出す。亡き母の偽物の手紙を見せ、本当の父親は別の人間だと告げたのだ。望み通りの父の本心を聞くことができたが、同時に二人は、事実にかかわらずやはり父と娘であることを悟る。母の本物の手紙は破棄され、永遠に読まれることはない。
「Dekalog V(デカローグ第5話/ある殺人に関する物語)」「殺人に関する短いフィルム」のテレビ版
「Dekalog VI(デカローグ第6話/ある愛に関する物語)」「愛に関する短いフィルム」のテレビ版
「Dekalog VII(デカローグ第7話/ある告白に関する物語)」十代の娘が出産し、世間体を気にした母は自分の子として育てる。数年後、成人した娘は、母に子どもを奪われたと結論づけ、取り返そうとする。幼い子が争いの対象となり、所有したり奪ったりすることができるものとなる。
「Dekalog VIII(デカローグ第8話/ある過去に関する物語)」倫理学の教授を務める威厳ある女性。彼女は戦時中、嘘をつかざるをえない状況になるのを恐れて、ユダヤ人の少女を助けるのを拒んだ。原則に硬直した非情な解釈を適用することで、自らの行為を正当化しようとした。この決断は彼女の人生全体に影を落としている。
「Dekalog IX(デカローグ第9話/ある孤独に関する物語)」夫の病気のため満足いく性生活を送れない夫婦の物語。しかし二人の関係を損なっている本当の原因は嫉妬であった。この映画は「嫉妬に関する短いフィルム」とも呼ばれる。
「Dekalog X(デカローグ第10話/ある希望に関する物語)」二人の兄弟が父親から貴重な切手コレクションを受け継ぐ。その莫大な価値を知り、なんとか最後の一枚を入手してコレクションを完成させようと躍起になる。ついには自分の腎臓さえ売ろうとする。コレクションが盗まれたとき、事態の不条理さが露わになる。 - 1991「Podwójne życie Weroniki(ふたりのベロニカ)」(クシシュトフ・ピェシェヴィチとの共同脚本)同じ容姿、同じ名前、よく似た感性を持つ二人の若い女性が異なる国で暮らしている。二人は会ったことがないが、互いの存在を感じ、心理的に強く結びついている。ポーランドのベロニカがコンサートで歌唱中に心臓に負担がかかって亡くなると、フランスのベロニカは衝動的に音楽をやめてしまう。
- 1993「Trzy kolory: Niebieski(トリコロール/青の愛)」(クシシュトフ・ピェシェヴィチとの共同脚本)事故で夫と幼い娘を失ったジュリーは、新たに人生の目的を見出せずにいた。ジュリーは自由でどんな道も選べたが、家族の死という打撃から長い間立ち直れず、自由を生かす力を失っていた。
- 1994「Trzy kolory: Biały(トリコロール/白の愛)」(クシシュトフ・ピェシェヴィチとの共同脚本)魅力的なフランス人女性が、ポーランドからの移民で冴えない理容師の夫を捨てる。彼より自分の方が明らかに優れていると感じている。絶望したポーランド人男性は、しかしその才知で彼女を驚かせることになる。自分の価値を証明し、元妻の称賛と愛を取り戻すため復讐を計画する。キェシロフスキは、この映画で珍しくコメディに取り組んだことを強調していた。
- 1994「Trzy kolory: Czerwony(トリコロール/赤の愛)」(クシシュトフ・ピェシェヴィチとの共同脚本)自分の「片割れ」を探す人々を描いた、シンボルや記号に満ちた物語。この映画を見た人は、理想的なカップルは運命にプログラムされているが、時間的・空間的にすれ違い、永遠に出会えないこともあると納得するだろう。だからチャンスを逃さないためには、目の前に現れる暗号化されたサインを注意深く読み取らなければならない。
その他の作品:
キェシロフスキはテレビ演劇の演出も数多く手がけた。作品には、「Pozwolenie na odstrzał(間引きの許可)」(ゾフィア・ポスミシュ(Zofia Posmysz)の著作に基づいた作品,1972)、「Szach królowi(チェック)」(シュテファン・ツヴァイクの『Schachnovelle(チェスの話)』に基づいた作品,1973)、「Kartoteka(カード索引)」(タデウシュ・ルジェヴィチ(Tadeusz Różewicz)の戯曲,1976)、「Dwoje na huśtawce(シーソーの二人)」(ウィリアム・ギブスン(William Gibson)の戯曲,1976)がある。またクラクフのStary Teatr(スタリィ・テアトル)で自らの演劇「Życiorys(ある党員の履歴書)」を上演している(同名の映画に基づく)。
キェシロフスキの脚本を基にした映画もいくつかある。2000年のイェジ・ストゥール(Jerzy Stuhr)監督「Duże zwierzę(大きな動物)」(カジミエシュ・オルウォシ(Kazimierz Orłoś)著「Wielbłąd(ラクダ)」の翻案)、2001年にはキェシロフスキとピェシェヴィチの共同脚本「Raj(天国)」に基づき、ドイツ人のトム・ティクヴァ監督がドイツとイタリアで「ヘヴン」を制作した。
キェシロフスキについてのドキュメンタリー映画も多数制作されている。クシシュトフ・ヴィエジビツキ(Krzysztof Wierzbicki)監督「I'm so-so」(1995年)および「Kieślowski i jego "Amator"(キェシロフスキと『アマチュア』)」(1999年)、ドミニク・ラブルダン(Dominique Rabourdin)監督「Lekcja kina(シネマレッスン)」(1996年)、ミコワイ・ヤズドン(Mikołaj Jazdon)監督「Ostatnie spotkanie z Krzysztofem Kieślowskim(クシシュトフ・キェシロフスキとの最後の出会い)」(1996年)、ヴォイチェフ・マリノフスキ(Wojciech Malinowski)監督「Krzysiek Kieślowski(クシシェク・キェシロフスキ)」(2001年)、イレナ・ヴォウコヴァ(Irina Wołkowa)監督「Mój Kieślowski(私のキェシロフスキ)」(2005年)、Maria Zmarz-Koczanowicz(マリア・ズマシュ=コチャノヴィチ)監督「Still Alive」(2005年)。