「鉄のカーテンを開こう」
初演の経験は「マゾフシェ」をアマチュア・グループからプロの団体へと変えた。今日のように優れたテクニックはなかったが、団員の個性が光った。文化人類学者で、民俗芸術について多くの著作があるアレクサンデル・ヤツコフスキ(Aleksander Jackowski;1920-2017)は次のように書いている。
スィギェティンスキは「民俗」について独自の理念を持っていた。〔……〕彼は何よりも、少女の歌の純粋で、透き通るように清らかな抒情性と、クラコヴィアクの力強いギャロップや、くるくると情熱的にオベレクを踊る男女を特徴づける、活気というか、底抜けのお祭り騒ぎの源となる生命力を引き出した。民俗をこのようにとらえたのはスィギェティンスキが最初ではない。彼の前にはショパンがいて、「マズルカ」や「スケルツォ」で、深い内省や抒情性とともに、それとは対照的な荒々しさ、激しさやドラマ性にあふれる内容を表現している。
気高さ、多様性と新鮮さが勝利を収めた。「マゾフシェ」がポーランド人の心をつかんだ後、外国公演に乗り出す時がやってくる。はじめにソ連と東ドイツ(1951年)、その他いくつかの東側諸国、続いてフランス(1954年)と世界のその他の国々で熱狂的な歓迎を受けた。パリ公演の後、ジミンスカは次のように述べた。
当時のいわゆる「鉄のカーテン」を開けたのは、私たちが最初でした。〔……〕公演前、カフェに行きました。そして帰ろうとすると、会場のシャイヨ宮(Palais de Chaillot)前には長い行列が……。皆、「マゾフシェ」のチケットのために並んでいたのです。
観客は概して好意的だったが、要求も大きかった。ポーランドの観客は「マゾフシェ」を他の民族舞踊団と比べられるだけに、より批評家精神にあふれていた。たとえば、舞踊にバレエの要素が多すぎるとの不満が述べられたという。また、彼らは自分の家やラジオで親しんできた歌を聴きたがった。このような希望はマゾフシェ地方だけでなく、ポドハレ(Podhale)、シロンスク(Śląsk)、カシュビア(Kaszuby)やヴァルミア(Warmia)等、ポーランドの他の地方からも寄せられた。そのため、これらの地方の歌も、徐々にレパートリーに加えられていく(今日までに40以上の地域の歌が作られている)。
一方、外国の観客にとって、「マゾフシェ」の公演は彼らが初めてポーランド文化と接触する機会だ。たいてい、ダンスと衣装のあざやかな色彩が大きな関心を呼び起こした。『Les Lettres françaises(フランス文学)』(1954)の批評を見てみよう。
彼らは民族衣装を着てわれわれの前に登場した。その色彩の豊かさは完璧に調和したひとつの美を作り出していた。〔……〕拍手が鳴りやまなかった。皆、ほとんどの踊りでアンコールに応えなければならなかった。〔……〕ダンサーたちは軽やかさと力強さに秀でていた。踊りの輪が展開し、比類のない、流れるような動きで絡み合う。われわれが最高峰の民俗芸術を見ることができたのは間違いない。
スイスの『Gazette de Lausanne(ローザンヌ新聞)』(1958)はこうだ:「少年たちは踊るのではない。ふっと浮かび上がり、空中で回転するのだ。少女たちは空を飛んでいる」(ちなみにコスチュームは重い。ウォヴィチュ(Łowicz)地方の衣装はなんと14キロもある)。
といっても、ダンスが常に最大の評価を受けたわけではない。エジプト、シリア、レバノンでは、ゆったりとした抒情的な歌が好まれた。日本の観客が大いに気に入ったのも歌謡だ。ヤツコフスキは、「マゾフシェ」が横浜の東芝工場を見学して去ろうとする時、1400人の合唱団がポーランド語で「若い娘が森へ行った(Szła dzieweczka do laseczka)」〔日本で「森へ行きましょう」として知られる童謡のもととなったポーランド民謡。1955年、ワルシャワを訪れた指揮者、荒谷俊治が採譜し、東大音感合唱団が日本語の歌詞をつけて紹介〕を歌ったと述べている。
したがって、芸術的な成功のみならず、商業的(そしてプロパガンダ的)な成功を収めるためには、ダンスの数を増やしたり、熱量を上げ、意外な展開を用意したりして、レパートリーを観客に合わせる必要があった。1955年にスィギェティンスキが亡くなると、妻が見事に彼のあとを継いだ(〜1997年)。今日の「マゾフシェ」を形作ったのは、まさにジミンスカだった。歌とダンスの出し物を、壮観なスペクタクルに変えたのだ。ジミンスカは真の民俗伝統に絶妙な舞台様式を与えた。公演が行われる国の歌を(原語で)プログラムに組み入れ、団員と外国の観客との対話関係が築かれるように気を配った。