自分ならではの絵―― ポーランドの女性画家による自画像
日本の着物をまとったスラヴ文化の賛美者。伝統的な整った裸体画からはほど遠い、半裸のアーティスト。ポーランドの女性画家が描く自画像の歴史は、しばしば社会的な期待から抜け出す物語となる。
アンナ・ビリンスカ=ボフダノヴィチ
アンナ・ビリンスカ=ボフダノヴィチ、《自画像》、 1887年、
キャンバスに油彩。写真:クラクフ国立美術館
才能に恵まれた子どもがヴォイチェフ・ゲルソン(Wojciech Gerson, 1831-1901)の私立絵画学校に学び、パリの名門校、アカデミー・ジュリアンに通う――アンナ・ビリンスカ=ボフダノヴィチ(Anna Bilińska-Bohdanowicz, 1854-1893)は、このような専門的な芸術教育を受けた初のポーランド人女性だった。1887年、パリの官展(サロン)で最高位の金賞を獲得〔訳注:銀賞とする資料も存在〕。同年に制作された自画像に対する賞である。この女性画家のキャリアの理想的な集大成であり、一種のマニフェストとなった。自画像には、手に絵筆とパレットを持ち、制作に向かう画家の姿が描かれている。何世紀にもわたって知られてきた伝統的な構図だが、世の常で、細部にこそ真髄は宿る。ルネッサンス期の画家たちは優雅な衣装をまとい、誇らしげなポーズで自らの姿を描いた。自画像は、絵画を自由な芸術の一つに高めるための戦いにおける一種の武器であり、この戦いは成功を収めた。19世紀、特に写実主義が花開く頃、支配的な慣習はすでに、かなり緩やかなものになっていた。
ビリンスカは自分のアトリエの内部を見せようとはせず、彼女の背後には、ただ地味な布がかけられている。自らはシンプルな黒いドレスを着てエプロンをつけ、やや前かがみになって座り、無造作にまとめた髪のふさが、ひたいと耳から自然に下がっている。口元にはかすかな笑みが見られるが、顔は軽い疲労感を示している。自分の価値を知り、道を自力で切り開いてきたことを自覚する、たたき上げの女性がこちらを見つめる。19世紀末、女性が芸術家のキャリアを決心することに対する、自己否定と困難の代償を自覚していたビリンスカは、ワルシャワに女性のための絵画学校を設立しようと決意した。しかし、この計画はまもなく心臓病によって阻止され、パリで受賞作となった自画像を描いてからわずか6年後、ビリンスカはこの病のために亡くなった。
オルガ・ボズナンスカ
オルガ・ボズナンスカ《Autoportret z kwiatami》、1909年。写真:クラクフ国立美術館
ビリンスカの8年後に生まれたオルガ・ボズナンスカ(Olga Boznańska, 1865-1940)は、少し異なる芸術の時代に属する。当時、多くのポーランド人芸術家がやってきていたミュンヘンで絵画を学び、まもなく、印象主義が全盛期を迎えていたパリに移り住んだ。絵を描く自由の中、ボズナンスカは印象主義の影響を強く受けているが、空気による効果の研究や風景画には関心がなく、彼女の色彩も印象派の明るさからはかけ離れている。灰色と黒が支配し、よく取り上げたモチーフの一つが肖像画だった。有名な《Dziewczynka z chryzantemami(菊の花を持つ少女)》のように、子どもも描いている。
ボズナンスカの自画像には、より自由な筆使いと、目や手のひら等、細部に集中する方向性が、徐々に展開して行く様子が見て取れる。20世紀初頭の10年間に非常に多くの自画像が制作され、ボズナンスカが一つの決まった様式を用いるようになったのもこの時期だった。依然として19世紀末に流行した衣服をまとい、白髪まじりの髪を古風な髷に結う。顔は常に、どこか気高く物憂げな、同じような表情を見せ、自身のメディアイメージを意識的に作り上げていた。そのこわばった姿勢は、絵画としての自由と対照をなしていた。《Autoportret z kwiatami(花のある自画像)》では、画家の身体の胸から下はまるで背景に混ざって溶け込むかのようで、タイトルの花も特定できない。ここで重要なのは、花の種類ではなく、灰色の色調を突き破る、鮮やかな赤い輝きである。
アニェラ・パヨンクヴナ
アニェラ・パヨンクヴナ、《Autoportret z córką(娘との自画像)》、1907年。クラクフ国立美術館
ボズナンスカと同い年のアニェラ・パヨンクヴナ(Aniela Pająkówna, 1864-1912)は同様に成功への強い意志を持ち、彼女もミュンヘン、続いてパリで教育を受ける道を歩んだ。フランスの首都ではアカデミー・ジュリアンを始めとする学校に通い、ビリンスカとはほぼ隣同士の場所に住んでいた。フランスを旅して周り、学業を終えるが、成功と失望を交互に経験している。1890年のパリ官展には出展資格が得られず、その一年後にルヴフ(Lwów, 現ウクライナのリヴィウ Львів)に引っ越して初めて、自身のアトリエを構えることができた。芸術運動「若きポーランド」のボヘミアン・コミュニティの指導者、スタニスワフ・プシビシェフスキ(Stanisław Przybyszewski, 1868-1927)に出会ったのもルヴフでのことだった。
プシビシェフスキとの関係から娘スタニスワヴァが生まれ、パヨンクヴナは彼女の肖像画を1907年に描いている。少女は正面を向き、白いドレスを着て髪の毛に白いリボンをつけ、絵の構図と色彩の中心を占めている。画家自身は後ろに下がって娘の背後に隠れ、彼女とは対照的に鑑賞者の方は見ず、横を向き、疲れたまなざしで前方を見つめている。次第に色彩が印象派の波動を放ち始めていたパヨンクヴナは、芸術の志をなお追う中、同時に娘の世話をし、負債を抱えた文学者を支えなければならず、これは彼女の成功への助けにはならなかった。
ゾフィア・ストリイェンスカ
ゾフィア・ストリイェンスカ、《Autoportret(自画像)》、1935年頃、グワッシュ、紙、42×33.2 cm、個人蔵。写真:http://www.artinfo.pl
ゾフィア・ストリイェンスカ(Zofia Stryjeńska, 1891-1976)の人生には、まるでスリラー小説から抜き出してきたようなエピソードがいくつかある。ミュンヘンのアカデミーで学ぶため、男装してポーランドを出発。女性であることがあばかれ退学処分を受けるまで、当時まだ女子学生を受け入れていなかった同大学で1年間学んだ。兄の衣服を借り、タデウシュ・フォン・グジマワ(Tadeusz von Grzymała)の名で旅をした。生涯をつ通して金銭面で恵まれることはなかったが、時とともにより良く対処できるようになり、名声を得たのも早かった。
1920年代、ストリイェンスカの人気は頂点に達する。その成功は、スラヴ民俗のテーマを現代的な形式と融合させたこと、つまり民芸とフォルミズム〔1917-1922に興隆した前衛文芸・芸術運動。キュビスム、表現主義、未来主義や民芸が着想元〕に近い形式とを、巧みに組み合わせたことによる。エリートや権力者だけでなく、芸術の知識を持たない人々をも魅了した。1925年にはパリの現代装飾美術国際博覧会(アール・デコ博覧会)のポーランド館で、自身の最高傑作となる作品を制作する。非常に幻想的なアイディアの一つが「ヴィテジョン(Witezjon)」で、実現は叶わなかったが、ゼロから細部にいたるまで彼女が設計した、スラヴの神々の壮大な神殿だった。このような背景から、ストリイェンスカは自画像では、自身をスラヴの女神、または少なくとも農婦の姿で描くと思われるだろう。しかし実際はまったく異なっていた。1930年代に描かれた、グワッシュの自画像が残されている。ストリイェンスカは流行りの着物に身を包み、どこか心ここにあらずといった様子で前方を見つめる。その姿はまさに現代的な女性であり、画家であることを示す要素は見られない。古典的な心理描写の肖像画により近い絵だ。
メヴァ・ウゥンキェヴィチ=ロゴイスカ
メヴァ・ウゥンキェヴィチ=ロゴイスカ、《Autoportret》、1930年、キャンヴァスに油彩、ワルシャワ国立美術館蔵、写真:ワルシャワ国立美術館
メヴァ・ウゥンキェヴィチ=ロゴイスカ(Mewa Łunkiewicz-Rogoyska, 1895-1967)は、小さな頃から芸術に触れていた。母親が画家だったのだ。しかし彼女の絵は、美術史の教科書で探そうと思っても見つからない。メヴァは大戦間期、比較的スムーズにスタートを切った。ポーランドとヨーロッパの前衛芸術家たちの集まりで活動し、パリの名門、国立装飾美術学校(École nationale supérieure des Arts Décoratifs)の課程を修了する。総合的キュビスム〔対象を分解する分析的キュビスムと異なり、コラージュ等を用い、色彩や素材を平面上で統合して表現〕を発展させたピュリスム〔純粋主義。明快で端正な形態、幾何学的な構成が特徴〕に魅了された。ウゥンキェヴィチの絵には、かなり幅広い種類の絵画概念が反映されている。時とともに抽象画の方向に傾いて行き、最終的に1950年代からその制作を始めた。ただ、メヴァは、前衛芸術家たちの教条主義や、近代絵画の理想を追求する姿勢からは距離を置いていた。実践において解決策を探るプラグマティストであり、社会主義リアリズムもその一つだった。
1930年の《Autoportret(自画像)》では、当時、ヨーロッパの絵画とともに彫刻や建築を席巻していた古典主義様式が表されている。自画像のメヴァはほとんど彫刻のような姿勢を取っている。生身の人間であるより、石で作られた像のようだ。しかし古典的な仕草で手に取った、ひだのある布は、ウェーブがかって短く切られ、横へとなでつけられた髪型と同じく、現代のものだ。構図と色彩の調和を探求するピュリスムにしたがい、映画のセットのように平面的に作られた背景と相まって、メヴァの自画像は、折衷主義的なこの画家の作風を表す、良い例となっている。
タマラ・ウェンピツカ
タマラ・ウェンピツカ、《Autoportret w zielonym Bugatti》、1925年、板に油彩、複製:Marek Skorupski / Forum
タマラ・ウェンピツカ(Tamara Łempicka, 1894-1980)は社会の主流派への仲間入りを果たした。ただ、美術の世界ではなく、貴族や有力者たちのサロンである。社会的エリート層の家に生まれたウェンピツカは、ペテルブルクで絵画を学び始め、パリで勉強を続けた。しかし前衛を追求する活動には参加せず、その形式上の成果を、すっきりと簡素化された形で、いわば魅力的な「衣装」として用いた。ウェンピツカはこの技術に習熟し、当時ちょうど全盛期を迎えていたアール・デコの流行の波にうまく乗る。貴族や中上流階級のため、多くの肖像画、裸体画や静物画を描いた。1930年代末にはアメリカ合衆国に移住し、ハリウッドスター好みの作品を制作するようになる。ウェンピツカはこの環境に完全に溶け込み、自身のメディアイメージに気を使ったが、多くの男性や女性との恋愛もそのイメージを華やかなものにした。恋愛を隠そうとはせず、人気を得る上で役立つ強力なカードとして、意識的に用いたのである。
この姿勢を見事に映し出すのが、1929年の《Autoportret w zielonym Bugatti(緑色のブガッティに乗る自画像)》である。とは言え、婦人雑誌の表紙になったこの絵では、アーティスト自身の姿を見失いかねない。ウェンピツカは心理描写に興味がなかった。自信にあふれ、解放された女性が最新のファッションに身を包み、高級スポーツカーのハンドルを握るという、考え抜かれたポーズこそが重要だった。この絵により、ウェンピツカは映画・音楽・ファッション業界の有名人が占めていた領域に踏み込むが、それには代償も伴った。社交界の流行ははかなく過ぎ行くのが常で、その時がやって来ると、ウェンピツカは新しい現実に対応することができなかった。
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エヴァ・クリルク《Et in arcadia(アルカディアにも)》、1976年、キャンヴァスにアクリルとコラージュ。写真:クラクフ国立美術館
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Ewa Kuryluk, "Et in arcadia", 1976, akryl i kolaż na płótnie, fot. MNK
ウェンピツカの自画像をユーモラスにパロディ化したのが、戦前の華やかさからはほど遠い、エヴァ・クリルク(Ewa Kuryluk, 1946- )の《W samochodzie(車の中で)》である。ラリースーツを着て、タバコを口にくわえたヒロインが、ドアがしまらないまま、ボンネットの下にツタの葉が生い茂る、赤いボロ車のハンドルを握っている。現代的な野心が、ここで「鉄のカーテン」の東側の生活という厳しい現実に直面する。もっとも、カーテンのこちら側であっても、文化大臣の娘という彼女の社会的な地位は、それほど悪いものではなかった。
ハイパーリアリズムは、クリルクの制作に大きな影響を与えた。キャリア初期のシュルレアリスム的な絵は、写真に依拠した構図へと移行。ハイパーリアリストたちが作り上げた方法を自らの条件に合わせて利用した。リアリスト的なイメージが、古典的な構図の奥行きがない、平坦な色調の背景に描かれている。
クリルクは自身を絵のヒロインとしたが、常にそこから一定の距離を置き、アイロニーを保っていた。まさに模範的な社会主義の女性として、産業用の機械を背景に毛皮の帽子をかぶってポーズを取りつつ、手にはミッキーマウスの人形を持っている。クリルクはポーランド民主共和国(PRL)の慣習のタブーを破った。彼女の親密な自画像は慎み深さからかけ離れ、時に検閲を招いた。下着をつけるところ、ベッドの中、入浴後、半裸の姿など、まるでスナップ写真がとらえたような画家の様子が描かれる。クリルクは理想化せず、媚びず、ありのままの自分と、近しい人々の日常の状況を記録している。
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アガタ・ボガツカ、《Rzeczywiście, młodzi są realistami》、2003年、キャンバスにアクリル、130×130 cm。写真:Galeria Raster
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クリルクの21世紀の後継者を探すとすれば、最も近いのが、アガタ・ボガツカ(Agata Bogacka, 1976- )だ。彼女の絵画は新しい世紀の最初の10年において、世代のマニフェストになった。ボガツカは、クリルクの作品がすでに最も重要な変化をもたらした1970年代半ばに生まれ、コミックに近い、平面的な人物描写の独特のスタイルを発展させた。自分や、体制転換後のポーランドで育った同世代の人物を好んで描いた。2000年代のボガツカの作品は、新時代を迎えた大都市に住む20代の若者の人生を描き、さまざまな感情の光景から構成される。その中心となる軸は、しばしば失敗に終わる人間関係や、親密さへの渇望である。
20世紀から21世紀への変わり目、新しい世代を表現する重要な展覧会の一つ、「Rzeczywiście, młodzi są realistami(たしかに若者はリアリストだ)」展が、ワルシャワのウヤズドフスキ城現代美術センター(CSW Zamek Ujazdowski)で開催された。ボガツカはここで、展覧会と同じタイトルの作品を発表した。これは親密な自画像で、ヒロインは鑑賞者から、見えないバリアによって隔てられている。シャツ一枚で脚を開いて鏡の前に座っているが、巧みに組まれた構図により、のぞき趣味的な欲望からは逃れている。その顔すら、鏡の枠によって切り取られているため、私たちには見えない。
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カロリナ・ヤブウォンスカ、《Beating(殴る)》、2017年。写真:karolinajablonska.com
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クラクフ出身のカロリナ・ヤブウォンスカ(Karolina Jabłońska, 1991-)による絵画の主題は、基本的にボガツカの初期の作品とそれほど変わりない。ただ、形式的には二人の間に大きな違いがある。ヤブウォンスカにおいては、ボガツカのような繊細で直線的なスタイルや、抑えたパステル調の色彩は見られない。描かれる人物は巨体で不恰好、その姿は絵の枠いっぱいに広がる。ヒロインの多くは、画家自身の分身である若い女性たちだ。ヤブウォンスカは自身のイメージを理想化しないのみならず、グロテスクに誇張し、欠けた歯など、細部を念入りに作り込む。構図も荒削りで、簡素で左右対称、単一のモチーフに基づいている。人物の心理ドラマも強く誇張された形を取り、緊張が身体に現れている。最もよく使われるコミュニケーションの形は、血があたりに飛び散る、顔面への殴打と、怒りの中、吐き出される唾である。
絵画上の分身を手荒く扱うヤブウォンスカは、一見して原始的な衣装をまといながらも、近代・現代美術の象徴的な作品にも言及することを厭わず、自らの職業の状況をも語っている。
執筆:ピョトル・ポリフト(Piotr Policht)、2018年3月2日、改訂:2026年5月14日
編集:ウルシュラ・ヤブウォンスカ(Urszula Jabłońska)、日本語訳:柴田恭子(Yasuko Shibata)、2026年6月28日