レオン・ヴィチュウコフスキ
レオン・ヴィチュウコフスキ《春(Wiosna)》、1931年、ビドゴシュチュ国立美術館コレクション。写真:CC / Wikimedia
レオン・ヴィチュウコフスキ(Leon Wyczółkowski; 1852-1936)の作品は「若きポーランド」運動のネオ・ロマン主義の素晴らしい例だ。ヴィチュウコフスキはフランス印象派からかなり大きな影響を受けていた。光と色の問題に深い関心を持ち、自分の絵画でどのように光の効果を実現できるかに焦点を定めた。この様式の最も優れた彼の作品には《ウクライナでの耕作(Orka na Ukrainie)》(1892年)、《ビートを掘り出す(Kopanie buraków)》(1893年)、そして《クロッケーの試合(Gra w Krokieta)》(1895年)がある。
ヴィチュウコフスキのスタイルは1900年以降に変化を遂げる。そして厖大な数の風景画(タトラ山地の雄大な景色はその一例)、肖像画、風俗画、静物画、花、都市風景画、そして芸術的・歴史的な遺産などを描くようになった。彼の絵画はまた、自然や家族のテーマについて非常に感情的な姿勢を表明している。
ヤツェク・マルチェフスキ
ヤツェク・マルチェフスキ《聖アグニェシュカ(Święta Agnieszka)》1920-1921年、木板に油彩、80×120 cm、写真:ワルシャワ国立美術館所蔵
ヤツェク・マルチェフスキ(Jacek Malczewski; 1854-1929)は「若きポーランド」の絵画に象徴主義を導入し、ロマン主義の伝統の再生を促した画家・挿絵家である。ポーランド人としての強い意識、祖国の風景の美しさへの感受性とポーランド民俗についての知識を持ち、これらは全て彼の芸術作品の重要な要素となっている。マルチェフスキの絵画作品の多くは愛国心と受難のテーマに対峙し、革命家や亡命者たち、そしてポーランド自体の献身的な自己犠牲や苦難を称えている。
マルチェフスキは聖書、ギリシャ・ローマ神話、ポーランド文学など様々な源泉から象徴を引き、自分の絵画に組み込んだ。ロマン主義詩人ユリウシュ・スウォヴァツキ(Juliusz Słowacki)の詩「アンへッリ(Anhelli)」(1837)に大きなインスピレーションを得て、分割されたポーランドの苦しみと希望を表現するために、エッレナイ(Ellenai)とエロエ(Eloe)という人物をよく描いた。キリストや預言者エゼキエルなど宗教的な人物も登場し、非常に大きな苦難を通して自由へと導かれることが象徴的に表される。キメラ(Chimera)もマルチェフスキ作品の特徴であり、誘惑、残虐さや容赦のなさを表している。
スタニスワフ・ヴィトキェヴィチ
スタニスワフ・ヴィトキェヴィチ《ハルヌィ(Halny)》〔タトラ山地の局地風〕、1895年、キャンヴァスに油彩、93×132 cm。写真:クラクフ国立美術館
ヴィスビャンスキと同じく画家・戯曲家だったスタニスワフ・ヴィトキェヴィチ(Stanisław Witkiewicz; 1851-1915)のキャリアは、ポジティヴィズム(実証主義)と「若きポーランド」の時代にまたがっていた。彼の筆による美術批評が示すように、ロマン主義については複雑な思いを持っていたが、ポーランドの人々とポーランドの風景を観察し描くことをこよなく愛する、愛国的な画家だった。宗教、倫理や民族アイデンティティの問題を扱うモラリストとして知られ、高い評価を受けていた。
ヴィトキェヴィチは「ザコパネ様式」への関心とその提唱者として最もよく知られている。彼はタトラ山地の自然、高地の人々や彼らの建築・装飾芸術に魅了されていた。ヴィトキェヴィチはザコパネ(Zakopane)の建築や装飾にポーランドの民族様式を見出し、これを全ての社会階層の人々に広げ、普遍的なものにするべきだと唱えた。芸術家たちによるこの様式の発見は、ポーランド文化の大切な要素を絶滅から救い、全民族のために復活させる上で、非常に重要な契機だと考えていた。
2017年4月21日公開、2021年2月18日改訂
日本語訳:柴田恭子(Yasuko Shibata)、2025年3月