アール・デコの美学を代表するポーランド人画家。ウェンピツカの創造した美学は、20世紀初頭の裕福なブルジョワの好みに合致した。
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タマラ・ウェンピツカ(Tamara Łempicka、あるいはタマラ・ド・レンピッカTamara de Lempicka)は1898年モスクワに生まれ、1980年メキシコで亡くなった。父ボリス・グルヴィク=グルスキ(Borys Gurwik-Gorski)は裕福なロシア系ユダヤ人で、商人か実業家であった。母のマルヴィナ(Malwina)は裕福なポーランド人デクレル(Dekler)家の出自であった。タマラは、妹のアドリエンヌ(Adrienne)と兄のスタンチク(Stańczyk)とともに、ワルシャワで母親と母方の祖父母によって育てられた。デクレル家は社交界・文化界のエリートであり、イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski)やアルトゥール・ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein)らとも親交があった。父親が姿を消したのは、タマラがまだ幼い時分であった。その事情は画家にとって、つらく深い秘密となった。タマラは両親が離婚したと述べていたが、ボリス・グルスキは自死したと見られている。大人になったウェンピツカは、自分がポーランド人であることを強調していた。出生証明書を偽り、出生地をモスクワではなくワルシャワとしていたとも伝えられる。作家の足跡を辿り、作品を解釈しようとするならば、その自伝がいかに芸術と強く結びついているかが見えてくる。絵の中に彼女が生きた世界の雰囲気が容易に感じ取れるというだけの話ではない。作家本人によって神話化された自伝は、作家像の創造という要素が、芸術のキャリアにおいていかに重要であったかを物語っている。
1911年タマラはサンクトペテルブルクに移り住み、親戚のステファ・スティフェル、マウリツィ・スティフェル夫妻(Stefa i Maurycy Stifer)の家に身を寄せた。ここでは美術大学で素描の授業を受けるとともに、晩には社交界・文化界の生活に熱心に参加するようになった。スティフェル夫妻は、タマラをマリインスキー劇場やユスポフ家のプライベート劇場でのバレエ公演や、ロマノフ家の避暑地であるツァールスコエ・セローでのエリートのためのリサイタルやコンサートへ連れて行った。ある時、サンクトペテルブルクのエリートたちが集う舞踏会でタマラは夫となるタデウシュ・ウェンピツキ(Tadeusz Łempicki)を見初めた。若い弁護士で、社交界でも名の知れた人物であった。彼の家族はワルシャワ出身で、サンクトペテルブルクではウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の「予備の宮殿」に住んでいた。母親のマリア・ノルヴィト(Maria Norwid)はツィプリアン・カミル・ノルヴィト(Cyprian Kamil Norwid)の姪にあたる。タマラは1916年にサンクトペテルブルクでウェンピツキと結婚した。同年にキゼット(Kizette)と呼ばれた娘のマリア・クリスティナ(Maria Krystyna)が生まれている。1917年にロシア革命が起こると、タデウシュ・ウェンピツキは逮捕された。ウェンピツキが釈放されると夫婦はデンマークで再会し、1918年夏にはそこからパリへ向かった。
タマラ・ウェンピツカはパリのアカデミー・ランソンでモーリス・ドニ(Maurice Denis)に学んだ。ドニは厳しく、理論的な教師であった。彼の指導の下、若き画家たちは絵画構成の基礎を習得し、描画技術を高めていった。造形性・装飾性を重視したドニの芸術観や絵画実践もまた無意味ではなかった。しかし、ウェンピツカにとって最も重要だったのは、次の教師アンドレ・ロート(Andre Lhote)の指導であった。ロートは画家、装飾家、批評家、芸術理論家であり、印象派の色彩解決やキュビズム的空間構成法など実験的な絵画原理を用いて、サロン絵画を近代化することを推進していた。とはいえロートの作品は、当時の絵画における前衛的探求とは無関係であった。印象派、とりわけキュビズムは、ルネサンスの伝統に根ざした絵画法自体に疑問を投げかけるものであったのに対し、ロートの目的は、折衷的で穏和なフォルムを考案することにあった。それは、有産階級の保守的な好みを満足させると同時に、彼らが「自分の獲得した絵画は『時代の精神』に沿っている」と感じられるものでなければならなかった。
ウェンピツカがロートに学んだ第一のことは、現代的な表現法と、偉大なるアカデミックの伝統としてのプッサン・ダヴィッド・アングルらの古典様式とを一つに組み合わせる技であった。タマラの作品の特徴は、単純化された立体によるフォルムはポストキュビズム的であるが、構成自体は古典的秩序の枠に収まっていることである。ウェンピツカは芸術の伝統への関心を深めていった。ルネサンス芸術に惹かれていた作家は、イタリアを旅行し、巨匠たちの作品を学んだ。この影響を受けて、明るく澄んだ、鮮やかな色使いをするようになり、画面上の細部に至るまで、緻密に作品を仕上げた。また様式化された、しばしばマニエリスム的でさえあるフォルムや人物像によって、画面には装飾性が加わった。伝統とモダニズムの融合、これに加えた装飾性がまさに当時の鑑賞者の嗜好を刺激し、タマラの人気は決定的となった。1920年代の半ばには、アール・デコ美学の隆盛とともに、ウェンピツカは一躍時の人となり、パリや外国(ポーランドを含む)のサロンで展示を行った。
人気はすぐに経済的な成功へとつながった。ウェンピツカの創造した美学は裕福なブルジョワの趣味に合い、彼女が選ぶテーマも同様だった。作家が主に描いたのは肖像画、静物画、そして何より裸体画であった。裸体画は、裕福なブルジョワのサロンを飾ることを想定されていた。貴族の女性や金持ちの起業家の妻たちがこぞってタマラに肖像画を発注し、その多くは等身大のものだった。殺到する注文にウェンピツカは絵画の大量生産を余儀なくされ、この時期には日に十数時間制作することも珍しくなかったという。一方、芸術評論家たちは、ウェンピツカの作品に対し否定的な傾向にあった。彼らが作品を「キッチュに近い、あるいは少なくとも罪深い肉体性」などと批判するとき、その批評には美学的なものから倫理的なものまで複数のカテゴリがごったになっていた。画家を「倒錯的絵画の喧伝者」と呼び、その裸体画の明らかなホモエロティックな性格を指摘する者もいた。もちろん、作品のこの側面はむしろ、より多くの人気と注目を集める結果となった。ウェンピツカの作品におけるまぎれもない価値は、観察した周囲の世界を、独自に開発した絵画言語に置き換える能力にある。彼女の肖像画は、様々なタイプの同時代人、作家の日常にいる登場人物を表しており、つまり社会的・文化的なエリートの一覧となっている。個人的なものが典型的なものと融合し、その造形は選択されたテーマに完全に合致している。ウェンピツカの絵画には狂乱の20年代の雰囲気がほのめかされている。例えば、1929年の《緑のブガッティを運転する自画像(Autoportret w zielonym Bugatti)》は、当時の解放された女性の象徴と見ることができる。『La Pologne』の記事にはこう書かれた。
Text
「タマラ・ド・ウェンピツカのモデルは現代女性である。ブルジョワ道徳的な偽善も恥も知らない。日に焼け風に吹かれ、体はアマゾーンのようにしなやかだ。」
ウェンピツカが活躍した時代には、デカダン主義が色濃くあった。この観点から作品と私生活を分析するならば、確かに当時の特徴がよく表れている。タマラのライフスタイルは一般的な社会通念とはかけ離れていた。数多くのロマンスは、女性とであれ男性とであれ、真実であれ噂であれ、慎重に隠されるということがないばかりか、芸術家像、そして真に独立した女性のイメージを構成する一要素となった。ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio)との有名な交際は、夫婦の最終的な危機を招き、1927年に離婚となった。
1934年にウェンピツカは、オーストリア・ハンガリー最大の土地所有者であるラウル・クフナー(Roul Kuffner)男爵と再婚した。1938年冬には夫とともにヨーロッパを離れることを決断。台頭しつつあったファシズムを警戒したためと考えられている。クフナーの出自のため、財産を清算してアメリカへ渡った。1940年代にウェンピツカはハリウッドスターや社会的・経済的エリートたちお気に入りの肖像画家となり、ここでもまた豪奢でデカダン風の社交生活で名を馳せた。しかしながら、戦後の芸術に極端な変化が起こり、シュルレアリスムや抽象画の伝統に世間の注目が移ると、ウェンピツカの人気はたちまち凋落した。画家はスタイルを劇的に変えようと試み、シュルレアリスム風の風景画や、表現主義風のテクスチャを用いた抽象画などを模したが、キャリアには翳りが見えた。1962年に夫が亡くなると、タマラ・ウェンピツカは画家を引退し、メキシコに移住した。1980年当地で息を引き取った。
執筆:マグダレナ・ヴルブレフスカ(Magdalena Wróblewska),2010年7月
日本語訳:パヴェウ・パフチャレク(Paweł Pachciarek)、YA、2021年3月