マリア・スクウォドフスカ=キュリーの家
マリア・スクウォドフスカ=キュリー博物館、マリア・スクウォドフスカ=キュリーの家、ワルシャワ。写真:Wojtek Laski / East News
マリア・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie, 1867-1934)は生まれついてのワルシャワっ子で、まさにこの首都で、幼少期と青春時代を過ごした。いつも喜んでワルシャワに帰っていたようで、そのことについては何度も自身の手紙の中で振り返っている。フレタ通り(ul. Freta)16番地は、現在ではこの才能溢れるポーランド人女性の、ワルシャワにおける最も重要な住所の一つである。マリアはここでこの世に誕生し、ここに現在、マリア・スクウォドフスカ=キュリーの生涯を紹介する世界で唯一の博物館が置かれているのである。ドイツ出身の建築家シモン・ボグミウ・ズク(Szymon Bogumił Zug, 1733-1807、ドイツ語名はSimon Gottlieb Zug)によって設計されたこの建物の歴史は、1782年にまでさかのぼる。館内には、マリアとピエールが使っていた実験器具・容器のレプリカだけでなく、この女性科学者の家族が遺した記念品や文書、マリアの実際の私物(眼鏡ケース、米国大統領ハーバート・フーヴァーから贈呈された象の置物、革の鞄、その他衣類など)が展示されている。
スクウォドフスキ一家は数年にわたり、第二次世界大戦中に破壊されたノヴォリプキ通り(ul. Nowolipki)にも住んでいた。ムラヌフ地区(Muranów)の住民にとって、この著名な住人のことを連想させるものといえば、スファンスキ(Swanski)(= パヴェウ・コズウォフスキ(Paweł Kozłowski, 1980年生まれ))がデザインした壁画である。
ノヴォリプキ通り11番地にある建物の壁に描かれたスファンスキの壁画、マリア・スクウォドフスカ=キュリーをモチーフにしている。写真:Franciszek Mazur /AG
この巨大な壁画は、戦前スクウォドフスキ一家の住居があったちょうどその場所に描かれている。
ヴィスワ川の岸辺
ワルシャワを流れるヴィスワ川の岸辺に佇むマリア・スクウォドフスカ=キュリーの像。写真:Zofia i Marek Bazak/East News
マリアは若い少女だった頃から既に、ヴィスワ川の岸辺をよく散歩していた。マリアにとって大切だったその場所は、このノーベル賞受賞者が遺した最後の回想録にも登場する。まさにこのようなワルシャワを ―― ヴィスワ川を背景としたこの街を記憶しており、亡くなる2年前に次のように記している。
私はヴィスワ川の方へ一人で散歩に出かけた。[……]あるクラクフの歌に、ポーランドの水の魔力はあまりにも大きくて、それを一度愛した者は死ぬまで忘れない、と歌っているものがある。[……]この川は私にとって、その本質を理解することさえできないほどの魅力がある。
現在この川を見つめているのは、彫刻家ブロニスワフ・クシシュトフ(Bronisław Krzysztof, 1956年生まれ)のたがね(彫刻刀)から生み出されたマリア・キュリーの彫像だ。その姿は、ワルシャワ新市街にある聖母マリア訪問教会(Kościół Nawiedzania Najświętszej Marii Panny)のすぐそばで見ることができる。そこではマルチメディア噴水ショーや、川の対岸にあるプラガ地区の全景も併せて見ることができる。
ホテル・ブリストル(Hotel Bristol)
ホテル・ブリストル。写真:Łukasz Bochman/East News
ワルシャワで最も古く、最も豪華なホテルで、20世紀初頭にはここで、ヨーロッパ中で名高い優雅な舞踏会やパーティーが開かれていた。クラコフスキェ・プシェトミェシチェ通り(Krakowskie Przedmieście)には、最も裕福な客たちが訪れていた。その中には、歌手で俳優のヤン・キェプラ(Jan Kiepura, 1902-1966)、ピアニスト・作曲家であり、ポーランド首相も務めたイグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860-1941)、米国大統領ジョン・F・ケネディ、それにもちろん、初の放射線学研究室の立ち上げを支援するため、1913年にワルシャワへやって来たマリア・スクウォドフスカ=キュリーがいた。ワルシャワ科学協会(Towarzystwo Naukowe Warszawskie)は、当時既に2度のノーベル賞を受賞していた彼女を讃えて、晩餐会を主催した。しかし、マリアの姉であるヘレナ・シャライ(Helena Szalay, 1866-1961)が回想しているように、またしても祝賀会より学問の方が重要であることが露呈したのである。
「マリアは、多くの演説者のスピーチを聞きながら、時折メモ帳に何か書き留めていた。最後には、賛辞を贈ってくれた全ての人々に感謝の意を述べた。」しかしこの科学者は後に、スピーチは聞かずに、ただ複雑な数学の問題を解いていただけだったと姉に打ち明けた。そして、それを解くことができたと満足げだったというのだ!
ワルシャワ大学(Uniwersytet Warszawski)
ワルシャワ大学。写真:Maciej Zienkiewicz /AG
1925年、大学の門に数え切れないほどの群衆が殺到したことや、現代の放射能研究をテーマにしたマリア・スクウォドフスカ=キュリーの講演が熱狂的に受け入れられたことが、日刊紙に報じられた。ワルシャワ滞在中、マリアはワルシャワ大学評議会(Senat Uniwersytetu Warszawskiego)と面会し、物理学研究所(Instytut Fizyki)や、その隣にあるスタシツ宮殿(Pałac Staszica)も訪れた(そこにはマリアが名誉会員であったワルシャワ科学協会の本部が置かれていた)。
スタシツ宮殿(Pałac Staszica)
スタシツ宮殿、ワルシャワ。写真:Andrzej Bogacz/Forum
まさにここ、クラコフスキェ・プシェトミェシチェ通りと新世界通り(ul. Nowy Świat)の交差するところにある、歴史的な古典主義様式の建物の中で、マリア・キュリーはパリのラジウム研究所がどのように機能しているのかということと、ポーランドで同様の施設を設立することの必要性について講演したのだった。1997年には、スタシツ宮殿にあるホールの一つにマリア・スクウォドフスカ=キュリーの名が付けられた。この建物は、啓蒙思想家スタニスワフ・スタシツ(Stanisław Staszic, 1755-1826)の主導により、1820年から1823年にかけて建設された。イタリアの建築家アントニオ・コラッツィ(Antonio Corazzi, 1792-1877)の設計図に基づいて、王立科学友の会(Królewskie Towarzystwo Przyjaciół Nauk)のために建てられたものだった。現在は、ポーランド科学アカデミー(Polska Akademia Nauk)の拠点となっている。
癌研究センター(Centrum Onkologii)
ワルシャワ癌研究センター、マリア・スクウォドフスカ=キュリー研究所。写真:Włodzimierz Wasyluk/East News
マリア・スクウォドフスカ=キュリーの足跡をたどるワルシャワ散策は、癌研究センター(Centrum Onkologii)で締めくくろう。パリのInstitut du Radiumに倣って設立された、かつてのラジウム研究所(Instytut Radowy)で、同研究所の建設のための礎石が据えられたのは、90年前の1925年のことだった。1932年の開所式の際、マリア・スクウォドフスカ=キュリーは同研究所に最初の貴重な1グラムのラジウムを寄贈した。振り返ってみると、ポーランドおよび世界における現代の癌との闘いは、2つの画期的な発見から始まった。それは、レントゲン(Roentgen, 1845-1923)によるX線の発見と、ポーランド人女性科学者キュリー夫人によるラジウムおよびポロニウムの発見であった。
第二次世界大戦、とりわけワルシャワ蜂起が勃発したことは、この場所にとって悲劇的な結末をもたらした。1944年8月20日、ほとんど全ての職員と患者が殺害され、施設長のフランチシェク・ウカシュチク(Franciszek Łukaszczyk, 1897-1956)博士はドイツ兵に賄賂を渡し、焼け落ちた建物に潜入して、ラジウムをリュックサックに入れると、ワルシャワ近郊のレグウィ(Reguły)へと運び出したのだった。
参考文献:www.warsawtour.pl, dziejeonkologii.pl, Muzeum Marii Skłodowskiej-Curie w Warszawie(ワルシャワのマリア・スクウォドフスカ=キュリー博物館), Gazeta Wyborcza(ガゼタ・ヴィボルチャ紙)
執筆:Culture.pl、2017年3月8日、最終更新:2023年10月31日
日本語訳:スプリスガルト友美(Tomomi Splisgart)