作曲家、ピアニスト、政治家、偉人。1860年11月18日クリウフカKuryłówka生まれ、1941年6月29日ニューヨーク没。
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パデレフスキの作曲家、ピアニスト、同時に政治家で大いなる偉人、その上熱心な慈善家という幾重にも広がった活動は、20世紀前半の文化・政治の世界でトップの人物の中で、ポーランドだけでなく世界的にも突出している。パデレフスキは最高のピアニストの一人という名声を獲得すると、その名手としての活躍は50年以上続いた。最も著名なコンサートホールの聴衆に最も高額な謝礼で最も望まれた芸術家であり、彼のリサイタルはヨーロッパの王族の臨席の名誉を受けた。パデレフスキのコンサートツアーはヨーロッパ中の国々、南北アメリカ大陸、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドにタスマニアまで網羅した。また芸術家としての彼は、演奏だけでなく、作曲にもその情熱を注いだ。作品は、ネオロマン主義スタイルで、しばしば古典的なフォームを纏い、マズーレやクヤヴィアク、クラコヴィアクのようなダンスの形式も現れる。オペラ「マンル」("Manru")や「ポローニア交響曲」「ポーランドファンタジー」といったパデレフスキの作品は、著名な交響楽団のレパートリーに取り入れられた。パデレフスキの芸術的作曲手腕は、バイオリンソナタ、ピアノソナタ、3つのバリエーションシリーズ、ポーランド語テキスト(op. 7, 18)とフランス語テキスト(op. 22)の歌に示されている。パデレフスキのピアノ小曲のうち、モーツァルト風「メヌエットト長調」op.14の1番、op.8の「メロディー」、そしてop.16の「ノクターン」は、今日もなお人気記録を伸ばしている。
パデレフスキは人気に伴う経済的な成功を、公の活動に使った。財産は、同胞だけでなく、各国の人々と惜しみなく分け合った。基金や財団に投入し、彼の資金協力でコンサートホールや、パリのクロード・ドビュッシーとエドゥアール・コロンヌの記念碑やワイマールのフランツ・リスト像、ボンのルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベン像、ゼラゾヴァ・ヴォラのフレデリク・ショパン像、シカゴのタデウシュ・コシチューシコ像、ワシントン・スクエア・アーチなどの記念碑が生まれた。
多くの国が、パデレフスキの芸術的愛国的貢献に対してだけでなく、退役軍人や芸術家や知識人の世界への多額の支援に対して、最高の栄誉で讃えた。大英帝国勲章、フランスのレジオンドヌール勲章、ベルギー、スペイン、イタリア、ルーマニア、ザクセン、ロンバルディアの勲章、そしてポーランドからは白鷲大綬章、ポーランド復興勲章、そして死後にヴィルトゥティ・ミリタリ武勲章Virtuti Militariが贈られた。
123年(1795-1918)にわたりヨーロッパの政治地図に存在しなかったポーランドにとっては、パデレフスキは、政治家としても貢献をした。大いなる偉人であり、優秀な芸術家や作家、政治家の仲間であった彼は、あらゆる活動を通して祖国の独立回復のために尽くした。第一次世界大戦後は、自ら政府の先頭に立ち、彼の内閣は、常にポーランドと隣接する国々との協力関係に沿った国境防衛政策を実行した。
その長い生涯の晩年には主に人道支援活動に貢献した。