なぜコニャクフにレースが?
レース細工はイタリア、イギリス、フランス、ポーランド、ベルギーやスペインで、何世紀にもわたって作られてきた、贅沢な商品だった。16世紀または17世紀にヨーロッパから中国へともたらされ、普通の織物とは異なり、宝飾品やその他の奢侈品と同様、銀貨で取引されていた。
その価値は、18世紀ポーランドの最も裕福な女性の一人、ゾフィア·デンホフォヴァ(Zofia Denhoffowa z Sieniawskich/ Maria Zofia Czartoryska, 1699-1771)にまつわる伝説からも明らかだ。700の村と30の町を所有していたこの女性は、ワルシャワのクラクフ郊外通りにある宮殿(今日のクラシンスキ宮殿)を、商人レスクル(Reskur)からレースを購入するために手放したという。何とも法外なレベルの取引だが、それだけの価値はあったのだろう。18世紀のポーランドでは、精緻な手編みのレースは絹糸だけでなく、金糸や銀糸も加えて作られていた。このような細工は世界でも数ヶ所の、限られた場所でしか生まれていない。
ポーランドにレース細工を初めてもたらした人物は、ポーランド王ジグムント1世(Zygmunt I Stary, 1467-1548)に嫁いだ、イタリア出身のボナ·スフォルツァ王妃(Bona Sforza, 1518-1548)とされている。彼女の孫、ヴワディスワフ4世(Władysław IV Waza, 1595-1648)は、ルーベンスが描いた肖像画において、細部まで作り込まれたレースの襟をつけて着飾っている。数百年にわたりレースは希少な装飾品で、入手できたのは最も裕福な人々に限られ、貴族の女性または修道女のみが手作りするものだった。19世紀半ば、機械による大量生産が始まると、小さな町や村にも広まっていったが、祝祭日の装いの一要素としてとどまり、それが特別な機会であることを強調する役目を持っていた。
コニャクフのレースについての最初の記録は200年前、既婚女性が被る帽子であるチェピェツ(czepiec)やチェペク(czepek)に関するものだ。かつてポーランドでは、花嫁が乙女の(つまり楽しく気ままな)時代に別れを告げ、既婚女性の仲間入りをする「オチェピヌィ(oczepiny)」という象徴的な儀式が、農村部の婚礼における最も重要な慣習となっていた。夕方または夜まだ早いうち、年長の女性たちが花嫁を別の部屋へと連れていく。そこで花嫁の髪から婚礼の花冠を厳かに外し、頭にぴったりフィットする帽子をかぶせ、きっちり結びつける。その上にさらにベールをかぶせ、あごの下または頭の後ろで結んだ。
花嫁はこのように変身を遂げてから、婚礼の会場に戻る。帽子なしに人前に出ることはその瞬間から、はしたない振る舞いと見なされた。それも隣人から批判されるだけではない。既婚女性がこの慣習を軽んずると家に雷が落ち、家財道具が火事ですべて焼き尽くされるという迷信があった(帽子がないというだけで、厳しい罰である)。この帽子の唯一の装飾的な要素は、女性の額を覆うレース飾りの部分だった。産業革命を経て、機械編みのレースが、繊細でより美しい手編みのレースを代替するようになったのは、不思議なことではない。手編みの技術は、貴族の邸で奉公していたコニャクフの年若い少女たちにより習得されていった可能性がある。