ポーランド・イギリス・アメリカ共同製作(2023年)の歴史ドラマ。アウシュヴィッツ強制収容所の所長の視点で描き出される「悪の凡庸さ」とホロコーストについての物語。2024年、ジョナサン・グレイザー監督による本作は、第96回アカデミー賞国際長編映画賞と音響賞を受賞した。
ある夏の午後、川のほとりで家族がピクニックを楽しんでいる。暑さで空気がゆらめく中、数十メートル下からは水流の心地よい音が聞こえ、子どもたちが草むらで日光浴をしている。ここにもし「野の花を飛び交う蜜蜂」と「きらきら輝く網を直す漁師」がいたならば、詩人チェスワフ・ミウォシュ(Czesław Miłosz;1911-2004)の1944年の代表作「世界の終わりの歌」〔沼野充義による訳が『ポーランド文学の贈り物』恒文社、1990年に所収〕が描く場面そのものだ。映画『関心領域』は、人々が気づかないまま世界の終末が忍び寄ることへのミウォシュの警告を彷彿とさせる、ホロコーストと、われわれの窓のすぐ外で繰り広げられる悪についての物語である。
グレイザーの作品では、アウシュヴィッツ強制収容所の所長で、収容所の拡張と「改善」の指令を受けてオシフィェンチム(Oświęcim)に配属されたルドルフ・ヘス(Rudolf Höß;1901-1947)の家族の視点からホロコーストが観察される。ただ、スクリーンに「死の工場」そのものは現れない。英国のジョナサン・グレイザー監督(Jonathan Glazer;秀作『セクシー・ビースト』と『アンダー・ザ・スキン――種の捕食』の作者)が狙うのは、ナチスドイツが生み出した阿鼻叫喚の光景を再現することではなく、芸術的かつ知的な挑発により、歴史映画を現代に通ずるメタファーへと変えることだからだ。
グレイザー監督のカメラは収容所の壁の反対側、ヘスと彼の家族が住む屋敷での日常を追いかける。ここでは戦争がはるか遠くの出来事のように感じられる。居間では、暑い列車の中で気を失ったドイツ婦人について女性たちがうわさ話をし、家の裏では少年がうら若い少女のファーストキスを奪う。中庭では家族からルドルフへの誕生日プレゼント、塗りたてのカヤックが乾かされている。そして花でいっぱいの温室とプールを備え、緑が生い繁る庭は、理想郷をオシフィェンチムに見出した所長の妻、ヘートヴィヒ(Hedwig)の自慢の種だ。目の前の壁の上には収容所の監視塔がそびえているが、ヘス邸の住人たちにとってはそこまで気にならないようだ。もうすぐぶどうの苗木が追加で植えられ、この「不快な」景色を隠してくれるはずだ。
もちろん、収容所の世界は存在する。時折、まるで彼らに気づかせようと戦っているかのように、その存在を知らせる。使用人の靴がコツコツ立てる音は、遠くから聞こえる銃声と混ざり合い、収容所の焼却炉から立ち上る暗煙には、窓を閉めざるを得ない。川で釣りをすれば人骨が流れてくるし、使用人は収容所から帰宅したルドルフの靴にこびりついた血を洗い落とさなければならない。しかし、これは単に舞台の背景に過ぎない。なんといっても登場人物たちの人生は、どこか他の次元にあるのだ。
グレイザーがわれわれを壁の向こう側へと連れて行かないのは、意図があってのことだ。彼は見る者に「批評家」の快適なポジションへと落ち着くことを許さず、いわば中間ゾーンに引き留める。カメラが収容所の囚人、暴力、痛みと飢えの世界に入り込めば、彼の映画が台無しになることを知っている。人々の共感は、冷酷で無慈悲な内省を不可能にするからだ。そしてグレイザーは、そのような内省に長けた人物だ。
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ジョナサン・グレイザー監督『関心領域』、2023年、写真:Gutek Film
このイギリス人監督は挑発する。映画のタイトルである「関心領域」、つまり強制収容所とその周囲の世界では、なんでもない日常が繰り広げられ、人々がお金を稼ぎ、恩恵を得て、自分の世界を作り上げている。グレイザーは戦争の私物化と最大の悪をも自らの中へと取り込んでしまう人間のエゴイズムを語る。マーティン・エイミス(Martin Amis)による2015年の小説 The Zone of Interests(SS将校と収容所所長の妻の恋愛物語)におおまかな着想を得た『関心領域』は、悪の凡庸さ〔政治哲学者ハンナ・アーレントが『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil)』1964年(大久保和朗訳:みすず書房、1969年)で提唱した概念〕とそれを受け入れる方法、いわば「見ない」ことを可能にする「慣れ」についての歴史物語である。
アウシュヴィッツの背後で自分たちだけの楽園を築いていく人々について語りながら、グレイザーは、根本的な問いを投げかける芸術としての映画の力を示している。ここに多くの言葉はない。登場人物の対話は単純なコミュニケーションのためで、強い感情や哲学的な考えを表すのには用いられない。もっとも大切なのは映像だ。ウカシュ・ジャル(Łukasz Żal)による、無菌と言えるまでに冷やかな映像は、まるでわれわれが実験室の昆虫学者になり、奇妙な虫たちを観察しているような気持ちにさせる。加えてジョニー・バーン(Johnny Burn)とターン・ウィラーズ(Tarn Willers)が絶妙な方法で用いる音響は、恐ろしいまでに精密に、目に見えるものを越えた世界を伝える。夏の庭の牧歌的な映像は、遠くから聞こえてくる銃声や犬のくぐもった吠え声、収容所の焼却炉の轟音と合わさり、登場人物と観客の意識に入り込もうとする。
書店の棚がホロコーストをキッチュに語る本であふれ、アウシュヴィッツのタトゥー係、娼婦や歌手などを描く、不道徳な小説の映画化作品がスクリーンに次々と現れる時代に、グレイザーは傑作を生み出した。余計なものを削ぎ落としているため、形式的なマンネリズムとは紙一重。ここに強い感情は描かれていない。しかしそれにもかかわらず、この映画はそのような感情を呼び起こす。
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ジョナサン・グレイザー監督『関心領域』、2023年、写真:Gutek Film
グレイザーについては、ホロコーストのキッチュな描写から自分を切り離しながらも、その研究しつくされた美的に精密なビジョンが、実は学者や、美術館・権威のある映画祭の常連に向けられているだけで、彼自身もまたキッチュに近いと批判することもできる。アウシュヴィッツについておとぎ話のようなホラーを作ることで、ある一線を超えてしまったと。しかし、監督はスクリーン上でこのような批判への反論を成し遂げ、自分の映画を、単に効果的な、過去から届いた絵はがき以上のものにしている。
グレイザーはなにより、ホロコーストを語る上でのもっともわかりやすい2つの戦略を却下している。つまりスピルバーグの『シンドラーのリスト』(1993)やネムシュの『サウルの息子』(2015)のように、われわれが被害者と一体になり、一時的に彼らと悲劇をともにする「旅」に連れて行くことはしない。また、ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』(1998)やミヘイレアニュ『トレイン・オブ・ライフ』(1998)、また最近ではワイティティの『ジョジョ・ラビット』(2019)のような、道化師的な挑発も行わない。
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グレイザー監督は立ち位置をずらし、ホロコーストを資本主義の法則と企業秩序に従うメカニズムとして語る。登場人物の人生を動かすのは、利益第一の論理と、安定した生活・自分の居場所を得ようとする夢の追求だ。そこで支払う代償が、たとえ人間の命であっても気にかけない。監督がまったく異なる方法で描き出した唯一の人物が、収容所の囚人が強制労働を行う場所にリンゴを置きにやってくる、近くに住むポーランド人少女(背景がネガで、彼女自身は明るく輝いて見える)なのは偶然ではない。この少女のみが「関心領域」の論理を逃れ、他者に対して無私の心で助けの手を伸ばす。
グレイザーはこの映画を通して告発する。告発は、映画の登場人物のみでなく、観客に対しても向けられている。彼はホロコーストへの無関心について語りながら、ウクライナの死者や、ガザ地区で今も行われている殺戮など、われわれを取り巻く紛争に対する、われわれの無関心を指摘する。この映画には、ミウォシュの詩と同様、日常に埋もれた人々が予期するような、世界の終わりを告げる「稲妻と雷鳴」はない。しかしグレイザー監督の作品は、近年でもっとも衝撃的な映画のひとつである。
- 『関心領域』2023年
監督・脚本:ジョナサン・グレイザー
撮影:ウカシュ・ジャル
音楽:ミカ・レヴィ
衣装:マウゴジャータ・カルピュク
キャスト:クリスティアン・フリーデル、ザンドラ・ヒュラー、フレイア・クロイツカム
公開:2023年5月19日(CIFF)、2024年5月24日(日本)
執筆:バルトシュ・スタシュチシン(Bartosz Staszczyszyn)、2024年3月
日本語訳:柴田恭子(Yasuko Shibata)、2024年4月