福山のクヤヴィアク
岡義昭さん・由美子さん夫妻は、広島県福山市で40年にわたり、ポーランドの民族舞踊を教えてきた。彼らの歩みを記録したのが、ダグマラ・フルガウ監督によるドキュメンタリー映画『日本のクヤヴィアク』である。
「コレーバーニ、コレーバーニ。ステップ、ステップ、ステップ。パラン・パム・パム、ストップ! 紳士は婦人の肩越しに視線を向けること」――刺繍入りの胴着、花柄のスカート、パフスリーブのブラウスを身にまとった女性たちが二つのグループに分かれる。今日は彼女たちの一部が男性役を務めることになっている。全員が集中してインストラクターの足さばきを見つめ、口を無言で動かしながら彼とともにステップを数える。「ステップ、ステップ、ホウゥビェツ、ホウゥビェツ」。
ドキュメンタリー映画における美しい一場面だ。ここで印象的なのは、ただ状況の異国性――日本人のインストラクターが「ホウゥビェツ」といった、あるステップの一種を表す言葉を口にし、ポーランド民族衣装をまとった日本の女性たちがクヤヴィアクを学ぶ場面――だけではなく、この舞踊の形そのものの魅力でもある。上昇と下降。力強く腕を上に放り上げ、顎を軽く持ち上げる。ドン、と足を踏み鳴らす。日本人舞踊教師はレコードのジャケットを手に取り、タイトルを読み上げる。『クヤヴィアチェク・ニェボラチェク(Kujawiaczek nieboraczek)』である。
1960年代の日本では、民族的伝統への回帰の波に乗り、民族舞踊も再び人気を集めるようになった。若者たちは、先祖の霊を迎える日本の盆の行事において、円陣を組んで踊ったり、祭礼の行列で披露されたりする、死者のための儀礼舞踊「盆踊り」を習った。当時20代前半だった岡義昭氏もまた、友人や仲間と同じように地域の舞踊団に所属し、日常からの息抜きとして踊りに親しんでいた。高校卒業後、広島県福山市の水道局に就職し、配管工として勤務していた。
民族舞踊の世界大会に参加するためにヨーロッパを訪れたとき、岡氏は自らの所属する団体で練習してきたものとはまったく異なる舞踊を初めて目にした。ポーランドやチェコ、ハンガリーの伝統舞踊は彼に強烈な印象を与えたのである。「こんな踊りが存在するとは知らなかった。頭をハンマーで殴られたような衝撃だった」と、ダグマラ・フルガウ(Dagmara Furgał)監督のドキュメンタリー映画『日本のクヤヴィアク(Japoński kujawiak)』の中で彼は語っている。その後、ポーランドのある村でダンスの公演を録画し、日本へ帰国後、そのアマチュアのカセット映像をもとにポロネーズやクヤヴィアクの最初のステップを学んだ。そしてまもなく、福山市近郊の鞆の浦において、自らフォークダンス協会を設立したのである。
「ポーランドの舞踊において最も大切なのは、相手の目を見ることです。たとえ家庭では配偶者の顔を見ない人でも、ここでは必ずそうしなければいけません」と、岡氏は生徒たちに冗談めかして語る。岡氏の学校に通う生徒は約350人、男性も数名いるが、大半は中高年の女性である。髪は短く切り揃えられ、ポーランドでのクヤヴィアク公演で見られるような三つ編み姿はない。だが、おそらくそれこそが二つのまったく異なる世界の衝突を生み出し、そのためにこそ踊りから目を離すことができないのである。
クヤヴィアク(kujawiak)は、ポロネーズ(polonez)、マズール(mazur)、クラコヴィアク(krakowiak)、オベレク(oberek)と並び、ポーランドの「五大民族舞踊」を構成する一つである。その特徴は抒情的な性格にあり、ペアの舞踊者は互いに向き合い、若干ウィンナ・ワルツのように、優しく揺れながら旋回する。そのため「恋人たちの踊り」とも呼ばれてきた。互いの近さが求められることは、日本の舞踊者にとって時に大きな障壁となる。さらに、ステップを踏む際のポーランド的な掛け声「ウッ、ハッ!」を大声で発することもまた難しい。心を開き、シャイな態度を棄てなければならないのである。相手との距離感と感情の抑制を重んじる日本の文化では困難なことだが、挑戦する価値がある。「私は60歳ですが、今は45歳のように感じます」と、あるワークショップ参加者は語る。学校の運営者たちも若いエネルギーに満ちている。『日本のクヤヴィアク』制作者であるフルガウは、まさにこのタイトルにもなった舞踊を通じて、岡義昭氏が将来の妻・由美子氏と出会ったと語っている。現在、夫妻は80歳前後となったが、今もなお、自らの協会で共に稽古に励み、舞踊の指導、ワークショップの開催のみならず、ポーランド人インストラクターの招聘も行っている。
ポーランドの舞踊指導者たちは、すでに1980年代半ばから岡夫妻の学校を訪れていた。ポーランド人民共和国崩壊後、その交流はさらに密接なものとなった。岡夫妻と親交を結んだ人物には、合唱舞踊団「シロンスク」(Zespół Pieśni i Tańca „Śląsk”)の芸術監督を務め、その後「マゾフシェ」(Zespół Pieśni i Tańca „Mazowsze”)で教育者となった著名な振付家・舞踊家イェジ・ヴイチク(Jerzy Wójcik; 1933-2008)、そして「マゾフシェ」の舞踊手であった妻のエヴァ・ヴイチク(Ewa Wójcik)が含まれる。2000年代に入ると、次世代を代表する優れた振付家たち――同じく「マゾフシェ」や「シロンスク」で教育活動を行ったゾフィア・チェフレフスカ(Zofia Czechlewska)とヤン・チェフレフスキ(Jan Czechlewski)夫妻――もまた、この学校を訪れるようになった。
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ダグマラ·フルガウ監督作品『日本のクヤヴィアク』より、2025年。写真:映画製作会社提供
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交流は日本からポーランドへの訪問という形でも行われている。2003年、岡義昭氏と妻・由美子氏は、合唱舞踊団「シロンスク」創立50周年記念行事において、舞踊団本部でマズールを披露し、その演技は大きな拍手をもって迎えられたと、自らの協会の公式サイトに記している。また、両氏は外国人として初めて、ポーランド民族舞踊の普及に尽力した功績により「シロンスク」から表彰状を授与された。
今日に至るまで、夫妻は当時の訪問の映像を時折見返している。そのビデオには、ポーランド中央部、ウォヴィチュ地方の美しい衣装に身を包んだポーランドの舞踊手たちと共に輪になって「Chusteczka haftowana(刺繍のハンカチ)」(パートナーを選ぶためにハンカチを用いる、ゲーム要素のある伝統的な踊り)を踊る姿が収められている。
舞踊を通じて結ばれた友情はきわめて強固なものとなった2024年4月には、ゾフィアとヤン・チェフレフスキ夫婦が福山においてワークショップを主宰し、日波舞踊交流40周年を記念した。
「これは私たちの踊りではないけど、今や私たちも踊っている。ここはワルシャワだと思って、そこの王宮にいると想像してみましょう」――インストラクターはこう語る。レッスンの中で参加者はポーランドの歴史や文化、習俗についても学ぶ。ポーランドから来たゲストに「ポーランドでは女性が優先される」と聞くと、一斉に笑いが起こる。歌詞の訳を耳にしてもまた笑いがはじける。「あなたなんか知らない、知らない、知りたくない/でも来て、来て、手を取って」。ポーランドの舞踊教師は、クヤヴィアクが互いに駆け引きをするような踊りであり、「いちゃつき」であると説明する。「あなたなんかと一緒に踊りたくない、でも踊りたくもある」。だからこそペアは腕を回して抱き合いながら、同時にわずかに体を離すのである。
岡氏は早期退職後、長年の夢であったポーランド民族舞踊の博物館を設立した。その構想はすでに1980年代から抱いていたものである。館内には「シロンスク」の歴史を伝える写真や、ポーランド各地の伝統衣装、さらにはクラクフの人形などが展示されている。岡氏がただ残念に思うのは、この博物館を2008年に逝去したイェジ・ヴイチクの存命中に実現できなかったことである。
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ダグマラ·フルガウ監督作品『日本のクヤヴィアク』より、2025年。写真:映画製作会社提供
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クヤヴィアクは19世紀になると農村の民衆文化からクラシック音楽へと浸透し、フリデリク・ショパン(Fryderyk Chopin; 1810-1849)やカロル・シマノフスキ(Karol Szymanowski; 1882-1937)といった作曲家たちにインスピレーションを与えた。一方、日本では、岡氏の学校に通う300人を超える生徒たち――多くは退職後の男女――にとって、外出のきっかけ、新たな交友を築く手段であり、日常を彩るものとなっている。「『日本のクヤヴィアク』は、愛を見出すこと、友情を育むこと、そして老い・衰え・時の流れに対する個人的な反抗を描いた映画である」とフルガウ監督は語る。ポーランドの観客にとっては、もう一つの発見があるかもしれない。それは、福山近郊の港町で開かれるダンスレッスンの参加者たちよりも、もしかすると自国の人々のほうが知らない、かつての情緒豊かな舞踊の姿である。
執筆:シルヴィア・ニェムチク(Sylwia Niemczyk)、2025年8月27日、改訂:2025年9月10日
日本語訳:下村杏奈(Anna Shimomura)、2025年9月