結論として、シモナは森の動物たちとひとつ屋根の下、ビャウォヴィエジャ国立公園(Białowieski Park Narodowy)の敷地内で暮らした。そこにはお気に入りのカラス、シモナが助け、育てたメスイノシシのジャプカ(訳注:カエルちゃんの意)、猫のように振る舞うオオヤマネコがいた。人々はシモナ・コサックを恐れていたが、シモナの方でも人々の存在を好んでいたわけではなかった。
ニキフォル ―― 絵具を手にした奇人

ニキフォル・クリニツキ、クリニツァの市場で。複製:FoKa / FORUM
画家のニキフォル・クリニツキ(Nikifor Krynicki, 1895-1968)は、クシシュトフ・クラウゼ(Krzysztof Krauze, 1953-2014)監督の映画『ニキフォル 知られざる天才画家の肖像(Mój Nikifor)』の中で、クリスティーナ・フェルドマン(Krystyna Feldman, 1916-2007)がその役を見事に演じきったことで、再び脚光を浴びることになった。ニキフォルはポーランド南東部の少数民族、ウェムコ(Łemko)の出自で、極度の貧困の中で育ち、身体的な障がいのために社会で生活することができなかった。少々ないがしろにされる存在であったり、またクリニツァ(Krynica)の観光名物のような存在であったりした。足が不自由で、口がきけなかった。文字の読み書きもあまりできず、歪んだ鏡文字で署名していた。彼は紙の上と水彩絵具の入ったカラカラに乾いた箱の中に愛を見つけた。ポーランドプリミティヴィズム(原始主義)の創始者で、その作品はポーランド人の作品として唯一、パリのルーブル美術館に展示されている。ニキフォルは、クリニツァの風景と、その美しさを絵画に留めるという行為を愛したのだった。
ガウチンスキ夫妻、コンスタンティ・イルデフォンスとナタリア ―― 詩人とミューズ
ナタリア・ガウチンスカとコンスタンティ・イルデフォンス・ガウチンスキ、結婚式の日に、1930年6月1日ワルシャワにて。写真:Muzeum Literatury / East News
『Pieśń o żołnierzach z Westerplatte(ヴェステルプラッテの兵士の歌)』を書き、マトゥラ(高校卒業試験)によく出題されるテーマとして高校生の記憶に刻み込まれる前に、詩人コンスタンティ・イルデフォンス・ガウチンスキ(Konstanty Ildefons Gałczyński, 1905-1953)は恋に落ちていた。心から、誠意をもって、変わることなく、銀のナタリア(Natalia, 1908-1976)(この詩人は妻のことをこう呼んでいた)を愛していた。ナタリアもまた、作家であり、ロシア文学翻訳家でもあった。
銀のナタリアへの愛は、惜しみなく度々打ち明けていた。「きみを恋いしてはやいくとせ(Już kocham cię tyle lat)」という詩がその良い例だ。
きみを恋いして、はやいくとせーー
光とやみの走馬灯。
もう八年になるかしら、
ひょっと九年……おぼえがない。
もつれて一つにもやもやと――
きみがどこやら、ぼくがどこやら。
道のなかばを考えかんがえ――
ハテ……きみは叛逆、敗北、ぼくの流浪?
このぼくはきみのまつ毛、まき毛?
(米川和夫訳『北の十字架――ポーランド詩集』青土社、1987年)
二人は1929年5月のある日曜日の朝、ジェミャンスカ(Ziemiańska)という有名な喫茶店で出会った。詩人のルツィヤン・シェンヴァルト(Lucjan Szenwald, 1909-1944)の紹介だった。コンスタンティはナタリアに立つよう言うと、じっと見つめ続けた。恥ずかしそうに「あなたはこんなにも小さな顔をして、こんなにも大きな目をしているのですから。そして白目の部分はエナメルのように青いのですから」と言い訳をしながら。
それから一週間の間、その女性が再び現れるのを待ちながら、コンスタンティは喫茶店で過ごした。だが、現れることはなかった。そこで、ガウチンスキはシェンヴァルトからナタリアの住所を手に入れ、その運命の人の元を訪れると、もう二度と手放すことはなかった。ガウチンスキ夫妻の愛は、当時のヨーロッパに起こっていたドラマチックな歴史を背景に、嵐や別離を経験した。ガウチンスキがドイツ軍の捕虜となっていたとき、彼の友人は「おお、ナタリア、おお、ナタリア、我らの大隊は、記憶をなくすほどに君を愛している」というリフレインのある歌を作った。それはおとぎ話に見られる愛ではなく、詩に見られる愛だった。
ヴァンダ・ルトキェヴィチ ―― 世界の尾根の上の愛
ヴァンダ・ルトキェヴィチ、パキスタン/中国、1982年、K2遠征中(頂上を背に)。写真:イェジ・ククチカ・アーカイブ/Forum
登山家ヴァンダ・ルトキェヴィチ(Wanda Rutkiewicz, 1943-1992)は、1943年に生まれた。8千メートル級の山を登り始めたのは、その20年後のことだ。山々にすべてを捧げ、世界では三人目の女性として、ヨーロッパ人女性としては初めて、エベレスト登頂に成功した。また、K2登頂を果たした初の女性でもある。
ヴァンダは荒々しい「屠殺者」とか変人とか言われていた。ヒマラヤ登山の世界が、男性上位の風潮で支配されていたのを嫌い、女性の登山における自立を闘い求めた。