目次:生涯と作品 | リアリズム | グロテスク | 論証性 | アポクリファ | 大失敗(フィアスコ)あるいはペシミズム | オブセッション | 作品:ポーランド語初版一覧
生涯と作品
レムは1921年9月12日、裕福な耳鼻咽喉科医サムエル・レム(Samuel Lehm)とサビナ・ヴォッレル(Sabina Woller)の息子として生まれた(子ども時代については自伝的作品『高い城(Wysoki Zamek)』に詳しい)。いとこに文学者のマリアン・ヘマル(Marian Hemar)がいる。カロル・シャイノハ第二ギムナジウムを卒業後、ルヴフ工科大学への入学を予定していたが、ルヴフはソ連軍の占領化にあったため実現しなかった。父親のつてを頼って医学部で勉強を始めたが、ルヴフがナチス・ドイツ軍に占領された期間は学業を中断、機械工や溶接工として働いた。戦後、医学の勉強を再開したが、軍隊への招集を避けるため卒業試験は受けなかった。1946年にはソ連市民になることを嫌い、家族全員でクラクフに移住した。
この頃よりレムは『クジニツァ(鍛冶場)(Kuźnica)』,『ティゴドニク・ポフシェフヌィ(カトリック週報)(Tygodnik Powszechny)』,『ノヴィ・シフィアト・プシィグト(新冒険世界)(Nowy Świat Przygód)』といった雑誌に作品を発表し始める。初期には詩(後に『高い城』に付属として収録)や占領期を題材にした物語を書いた。『新冒険世界』にはレムのSF第一作となる『火星から来た男(Człowiek z Marsa)』が連載された。
1947年から1950年の間、レムはミエチスワフ・ホイノフスキ博士(dr Mieczysław Choynowski)率いる科学論研究院で働いた。しかしこの研究院が閉鎖されると生活に困窮した。初の単行本として出版したSF長編『宇宙飛行士たち(邦題: 金星応答なし)(Astronauci)』が思いがけず成功したこと、また前作の『主の変容病院(Szpital Przemienienia)』の出版に問題があった(検閲のため加筆され、三部作『失われざる時(Czas nieutracony)』へと編成、主人公が共産党員証を受け入れるという結末になった)ことから、レムは以後SFを書いていくことに決めたのだった。この決断のおかげで、一方では、人間の生活における科学技術の役割というテーマについて思う存分考えを巡らすことができ、もう一方では検閲を容易にかいくぐることができるようになった。
1953年、放射線科医のバルバラ・レシニャック(Barbara Leśniak)と結婚。1968年に長男トマシュ(Tomasz)が誕生した。1983年から1988年まで外国(ベルリン、ウィーン)に住んだ後、再びクラクフに戻った。晩年は『ティゴドニク・ポフシェフヌィ』誌に集中的に寄稿した。2006年3月27日死去。遺灰はサルバトル墓地に埋葬された。レムは自身を不可知論者だとしていたが、葬儀は家族の希望によりカトリック式に執り行われた。
レムは名誉博士号をいくつか授与されている(ヴロツワフ工科大学、ヤギェウォ大学、ルヴフ大学、ビーレフェルト大学など)。また1973年にアメリカSF作家協会の名誉会員となった。なお1975年には通常会員の申し出を受けたが、形式上の問題があり断っている。作家の名前を取った「3836 Lem」という小惑星も存在している。
早くも1961年には『ジチェ・リテラツキェ(文学生活)(Życie Literackie)』497号にて、ヤン・ブウォンスキ(Jan Błoński)がレム作品の形式の多様性について言及している。レムは同時代のSFで実現可能なほぼ全てのことを扱っている。あるいはこう言えるかもしれない。SFを執筆した期間はさほど長くないにもかかわらず、極めて多作であり、レム一人でSFというジャンルの歴史を繰り返したのだと。単純で疑うことを知らない希望に満ちた物語(『宇宙飛行士たち(邦題: 金星応答なし)(Astronauci)』,『マゼラン星雲(Obłok Magellana)』)から始まり、そのあとすぐパロディ(『恒星日記(邦題:泰平ヨンの航星日記)(Dzienniki gwiazdowe Ijona Tichego)』)が続き、「ありうる世界のうちで最悪のもの」という黙示録的な凝縮されたヴィジョン(『エデン(Eden)』)へ行き着く。さらにレムは、SFがもたらす文学の可能性を体系的に探求し続けた。
レムの作品は大まかにいくつかのグループに分けることができる。楽観的な初期の作品(後に作家自身が「社会主義リアリズム的」だと批判している)に続いて、1960年代は古典的なSFを書いたが、同時にSFのジャンルに独自のリアリズムを導入した。ここで述べているのは『エデン(Eden)』(1959),『星からの帰還(Powrót z gwiazd)』(1961),『ソラリス(Solaris)』(1961),『無敵(邦訳:砂漠の惑星)(Niezwyciężony)』(1964),『天の声(Głos Pana)』といった作品、および、様々な短編集の中に収められ最終的には『宇宙飛行士ピルクス物語(Opowieści o pilocie Pirxie)』(1968)として刊行された作品群のことだ。1968年以降、レムがこの文学形式に戻るのは、『大失敗(Fiasko)』(1978)においてのみである。
グロテスクの趣向を含む作品が書かれた期間はもっと長い。時々は舞台を逆に過去に設定しながら、宇宙を旅する冒険家の泰平ヨンや、宇宙建造士トルルルとクラウパツィウスといった個性的な主人公によってシリーズ化している。これらのテキストには、新造語などの言葉遊びがふんだんに盛り込まれている。例えば技術的封建制の造語や押韻、また未来の世界に登場する道具の名前は非常にグロテスクだ。泰平ヨン・シリーズ最後の作品『地球の平和(Pokój na ziemi)』は1987年に刊行された。
やがて創作の比重はエッセイや哲学的論考へと移行していく。このタイプの作品の中では、やはり『技術大全(Summa Technologiae)』が最も重要だろう。『偶然の哲学(Filozofia przypadku)』もまた言及に値する。この作品に見られる世界観はアンチ推理小説『捜査(Śledztwo)』,『枯草熱(Katar)』にも現れている。
グロテスクとエッセイの狭間に位置するのが、いわゆるアポクリファ(外典)、実在しない本の書評である。ここで注意しておきたいのは、『完全な真空(Doskonała próżnia)』ではグロテスクとエッセイの比重は半々だったが、それ以降は次第に真面目な様相を帯びてくることだ。一連の書評の最終作「ホロコーストとしての世界(World as Holocaust)」では、この本は実際に存在すると読者が思うような書き方で書いている。
晩年は精力的に時事評論の執筆を行った。主に『ティゴドニク・ポフシェフヌィ』誌や月刊誌『オドラ(Odra)』に寄稿、後者では「Rozważania sylwiczne(シルヴァ式思索;*シルヴァは複数の文学ジャンルが混在する形式)」として発表した。評論のテーマは主に広義の文明の現代と未来である。伝統的な形式で書かれているため、以前の大胆な作品からはかけ離れているように思えるが、「人工知能の前では必ず人工馬鹿とでも言うべきものが現れるに違いない」というような、発想の冴えは健在である。
以上、ざっと概略を述べた。詳しい分析を以下に続けるが、ここでは本の出版年順による時系列ではなく、いくつかのテーマによって分類する。各作品については、レム研究家のイェジー・ヤジェンプスキ(Jerzy Jarzębski)による優れた解説があるので、そちらを参照してほしい:lem.pl。
リアリズム
レムの作品世界と、古典的SFで描かれる世界との決定的な違いは、レムは基本的に、特殊な物事を提示しているという書き方をしないことだ。それどころか、レムの描き出す現実の要素の多くは、未来の世界ではそれが当たり前で日常的なことだという印象を与える。『宇宙飛行士ピルクス物語(Opowieści o pilocie Pirxie)』がいい例だ。この作品世界では、太陽系は人間に管理された空間で、科学的な調査が済み、経済搾取を受け、さらには観光地になろうとしている。とはいえ、そこが安全な場所だというわけではないのだが。
また、『宇宙飛行士ピルクス物語』の宇宙飛行は、大航海時代末期の遠洋航海になぞらえられていると言えるかもしれない。例えば、短篇『テルミヌス(Terminus)』のロケットの描写である。白昼の光が差し込んでいるように見せかけた、丸い銅製の枠がついた窓。航海図の色に似せた淡青色の宇宙地図。そして、事故に遭った難破船-宇宙船の中で最後まで生きようとした人々の伝説化された物語。しかし、ピルクスの生きる現実では、宇宙飛行士という職業のロマンは次第に日常業務へと取って代わり、そのせいで数々の不備が見られるようになる。業務上の手続きや機器は、最新の科学技術と時代遅れの道具・方法が入り混じった、欠点だらけの代物になりつつある(これらはもちろん、未来の視点から見た話だ)。
実験的な新しさと避けようのない陳腐化の入り混じりは、小説に出てくる物の描かれ方に反映されている。最新の試作機(使い物になるかどうかはもちろんまだわからない)が頻繁に登場する一方で、不便であること、壊れていること、使い古されていること、建造上の誤判断(宇宙船コリオランの剥がれ落ちる装甲)といったことが緻密に描写される。しかしながら、人間にとって最大の脅威となるのは信用できない技術ではなく、人間自身の限界だ。『運命の女神(Ananke)』で前代未聞の大惨事を招いたのは、プログラマーの病的な完璧主義だったし、『条件反射(Odruch warunkowy)』では、信用ならないアラーム装置の表示を人間が解釈する際に誤りが発生し、結果的に一度ならず犠牲者を出した。主人公が同様の状況で解決策を見つけるとすれば、それは主人公にありがちな超人的資質のためでなく(むしろ宇宙飛行士ピルクスはどこかぼんやりした夢見がちな人物として描かれている)、決まったやり方から抜け出せる直感のおかげである。さらに言えば、一見欠点と思われる空想癖こそがピルクスの行動を実際効果的なものにしている。基本的に平凡な人間が努力の末勝ち取るという、弱点と強く結びついたヒロイズムのモデル(これはSFのジャンルでは新しい)は、ピルクスの人物像にジョセフ・コンラッド的性格をいくらか付け加えている。
レムの空想世界に読者が違和感なく入り込める理由の一つに、時代錯誤があるだろう。『エデン(Eden)』では、科学技術の進歩により、惑星間のみならず恒星間の移動が可能になっているのだが、登場人物の一人はオイルライターを使っている。このような状況は『ロボット物語(Bajki Robotów)』,『恒星日記(邦題:泰平ヨンの航星日記)(Dzienniki gwiazdowe)』で明らかに冗談として頻繁に登場する時代錯誤とは、区別すべきだろう。
その他に、いくぶん逆説的なリアリズムの表出として、主人公の前に未知の存在としてあらわれる現実の、極めて芸術的で精密な描写が挙げられる。興味深いのは、未知の現実というのが、地球外文明の場合もあれば、別の時代からやって来た人物が見た地球の場合もあることだ。この人物というのは、光速に近い速さの旅で生じる物理的パラドックスの犠牲者(『星からの帰還(Powrót z gwiazd)』)であったり、何年もの後に蘇生するという恩恵に与った者(『大失敗(Fiasko)』あるいは同じ問題を軽妙な筆致で書いた『泰平ヨンの未来学会議(Kongres futurologiczny)』)であったりする。
どんな場合においても、レムの描く未知の存在は、具体性がありほとんど触れられそうなぐらいだ。不安にさせられるのは、記述が不十分なせいなどではなく、対象が理解不可能な存在だからだ。生物と無生物、自然と人工、有機物と無機物の区別が曖昧にされることで、人間の認知の枠組みが試される。例として『無敵(邦題:砂漠の惑星)(Niezwyciężony)』に登場する、虫の大群と同程度の知能を持った小型の飛行戦闘自動装置「黒雲」を挙げることができるだろう。あるいは、『エデン』の生体オートメーション工場や、『ソラリス』から『恒星日記』まで様々に形を変えて登場する、知能を持ったゼリー状の物質。その他、レムによく見られる未知性の現れとしては、変形・破壊された建造物がある。これはたいてい大惨事の結果であるのだが、何があったのかは残骸から推し量るしかない。このモチーフは『宇宙飛行士たち』に既に見られ、様々な形で後の作品に現れる。
ヴワディミル・ボリソフ(Vladimir Borisov)はレムの描く未知なるもののイメージの力と具体性についてこう述べている(http://wkajt.republika.pl/acta/borisov.htm):
「少なくとも二つの空想の風景描写が、レムの比類なき言語表現力を証明している。千冊のSFを読んでも、こんなにもまざまざと想像上の現象を描いているのに出会うことはできまい。謎めいた対称体、擬態形成体(ミモイド)、山樹、長物など『ソラリス』に登場する怪物たちの描写。そして『大失敗』におけるタイタン星のバーナムの森の描写。森は、シェイクスピアのそれとは違いどこへも行かないが、その代わり変化し続ける。」
レムのリアリズムについては、全く異なる観点から論じることもできる。未知なるものを書く試みは、ドイツ占領下のポーランドを舞台にした初期の小説『主の変容病院(Szpital Przemienienia)』に既に始まっている。ヤジェンプスキによれば、この作品には、レムの円熟期の代表作と同じ哲学的問題が現れているという(とはいえ、最も難解な問いは悪役の文学者セクウォフスキによって発されているため、全く同じだとは言えないが)。
『主の変容病院』の中に、後のレム作品で展開される哲学的問題の萌芽があると言うからには、例を挙げねばなるまい。冷たい科学的合理性と人間性の対立というテーマは、『主の変容病院』では精神科医の議論という形で表されているが、再び『審問(Rozprawa)』において、反抗的な人造人間カルデルの発言と、彼と向き合うピルクスの熟考の中に現れている。また、医師の使命の人道的側面は『エデン』の登場人物ドクターの中に描かれ、不穏な狂気の描写は、人間よりもむしろ、人間の意識が風刺されているロボットに託して描かれることが多い(参照:『星からの帰還』では、廃棄処分になったロボットが宗教的恍惚を感じる)。
グロテスク
宇宙飛行士ピルクスの現れるところ、科学技術と人間性の接点についての真面目な熟考が始まるとするなら、泰平ヨン(イヨン・ティーヘ)のいるところ、作品はグロテスク的性格を持っていると言っていいだろう(ただし、『恒星日記(邦題:泰平ヨンの航星日記)』に収められている、タイトルの代わりに番号が振られた物語群は例外で、狂った発明家を描いた私的科学技術ホラーともいうべきスタイルが取られている)。イェジー・ヤジェンプスキは奇想天外な泰平ヨンの物語に、ほら吹き男爵の冒険との関連を指摘している(レム自身は、類似は全くの偶然だと述べている)。シリーズ全体にわたって、「ちゃんとした」SFではもはや登場の余地がないと思われるアイデアが利用されている。タイムトラベル(旅が続き番号になっていない理由が、このせいかもしれないと説明されている)、時間ループへの迷い込み、人間そっくりの宇宙人…このような小道具の使い方を見ていると、実は『恒星日記』は厳密な意味でのSFではなく、むしろ、ちょっと変わった仕掛けを使った(ディドロの『運命論者ジャックとその主人』の形式を模した)哲学小説なのではないか、と思えてくる。
哲学小説タイプの作品の中で、かなりの部分を占めるのが「レム名物」とも言える、アンチ・ユートピアをユーモラスに描いた作品群だ。衰退した惑星の社会は、ある時には全体主義の寓話となっている。惑星ピンタでは、人々は水の中で息をするように強いられているが、それは、かつては乾燥していた地表の灌漑を担当した官僚組織が発達し過ぎた結果なのだという。また別の時には、歴史の無目的性と混沌の象徴である。泰平ヨンは、タラントガ教授からもらった、時間の流れを速めることができる機械を、ある天体に設置するのだが、それは政権が転覆し、体制が次々に果てしなく変わっていく様子をただ観察するためだった。そして、この種の作品が、完全に真面目な思考実験になる場合もある。例えば、自分たちの代表者の体を自由な形に変えることができるようになった知的生命体の描写のように。
泰平ヨン・シリーズの笑いというのは、未来派的シチュエーション・コメディと、巧みな言語的冗談に基づく奇想天外な発想から来ている。この両方のユーモアが、『恒星日記』のいくつかの版に収録されたテキスト「宇宙を救おう。泰平ヨンの公開状」に冴え渡っている。この公開書簡には、グロテスクなまでに危険でおぞましい地球外生物が登場するのだが、最高水準の生態学によれば彼らを保護しなければならないという。絶滅の危機に瀕していたのは、例えば拷問椅子蟻だ。彼らは群れで旅行者を襲う。蟻の大群が、眺めのいい場所で、ちょうど腰掛けたくなるような籐椅子に姿を変えているのだ。
泰平ヨンは、比較的後期の小説『泰平ヨンの現場検証(Wizja lokalna)』と『地球の平和(Pokój na ziemi)』にも登場する。これらの作品は、表面上はコミカルだが、非常に真面目な問題を扱っている。一つ目は、科学技術が倫理をも含むような未来社会とはどんな形態だろうか、あるいは、人体とは異なる構造を持つ知的生命体が作る文明とはどのようなものかという問題(この代表例であるエンチア人は、飛ばない鳥を祖先とする知的生命体だ)。二つ目は非武装ということ。この二つ目の点では、哲学小説やスウィフトの『ガリバー旅行記』のような寓話的空想小説との類似はより顕著である。
レムの冗談には通常別の意味が隠されている。『ツィベリアダ(邦題: 宇宙創世記ロボットの旅)(Cyberiada)』に出てくる、メートル法に基づく幸福度を測る単位(1ヘドというのは、靴に釘を入れたまま1km歩き、それを脱いだ時の幸福度である)は純粋なグロテスクで、現実とは何の関係もないように思われる。しかし、心理学や社会学で使用されている数学的装置や統計ツールを思い浮かべる時、その深い意味が見えてくる。ところで、レムの不条理な笑いをもっと楽しみたい人には、『ロボット物語(Bajki Robotów)』をお勧めしたい。この小説の冗談の構造はこうなっている。高度科学技術の申し子であるロボットが封建社会に生きている。しかもそこにいるのはおとぎ話に出てくるようなキャラクターだけだ。残酷な独裁者、勇敢な騎士、王の偽相談役、お嫁に行く日を待つお姫様。おとぎ話の登場人物と違うのは、魔法使いの代わりに建造士がいることだけである。さらに言えば、建造士は例外なくいつも善玉の主人公として出てくる。この魔法使いと建造士の交代は、アーサー・C・クラークの思想と合致するように思われる。彼によれば、十分に発達した科学技術は何であれ魔術と変わらないという。そして建造士を善の側として描くことは、全く不条理な規則がまかり通っている世界でさえ、うまく適応する合理性と科学を称賛している印象を与える。しかし、このような理解は単純化に過ぎるだろう。というのも、『自動馬太(オートマタイ)の朋友(Przyjaciel Automateusza)』では、合理性は容赦なくもの笑いの種にされているからだ。主人公の自動馬太は小型の器械を買う。この器械は、耳の中に取り付け、友達相手のようにおしゃべりを楽しむことができる。ところが自動馬太は事故に遭い、無人島に流れ着いてしまう。するとこのエレクトロニクス・フレンドは、自動馬太にこの状況のもっとも合理的な解決策—つまり自殺—をとめどなく提案してくれるのだ。
『ロボット物語』や『ツィベリアダ』と同時期に書かれた作品に『Dyktanda(書き取り)』がある。短いナンセンスな内容のテキストで、綴りの難しい単語がたくさん出てくる。甥っ子(妻の姉妹の子)のポーランド語の勉強のために書かれたものだ。本として刊行されたのは2001年になってからである。『書き取り』は、時にぞっとするようなブラックユーモアが特徴だ。例として、肝臓を手に入れる方法を引用する。「肝臓を料理するためには、自動車を買って、誰かを轢くまで飛ばさなければなりません。肝臓は死んだ人にはもう必要ありませんから、中から取り出して、冷蔵庫にしまいましょう。」
論証性
先に述べたように、創作後期にはレムは徐々に小説を書くのをやめ、フィクションの要素のない形式へ移行し、より直接的に自分の考えを述べるようになった。しかし、「徐々に」エッセイに移行したというところに着目したい。実際のところ、それは創作初期から始まっていると言っていい。小説世界における現実の科学的説明というのはSFのジャンルではごく当たり前のものだが、『ソラリス』の作者はとりわけここに力を注いでいる。
論証性、つまりフィクションでない性質は、比較的初期の小説『宇宙飛行士たち(邦題:金星応答なし)』に既に始まっている。この作品はツングースカ大爆発とロケット技術についての物語で、フィクションの割合が比較的少ない。医者、科学者、発明家、パイロットといった、科学や技術が人生と切り離せないような人物を主人公に選んでいるため、科学的考察をほぼフィクション化の加工なしに小説に登場させる傾向が強まっている。実際、主人公を子どもや科学の素人にして、自分らを取り巻く世界について自然に質問させるというような別の枠組みは、レムの小説では試みられていない。
今述べた作家の選択は予兆的である。というのも、現実認知のプロであるレムの主人公たちは、遅かれ早かれ、まさにずぶの素人にならざるを得ない状況に放り込まれるからだ。レムは人間による認知の可能性の限界に位置する問題に関心がある。レムの小説の筋立ては基本的に、主に思考のための足場だった。だから、しばらく後にレムがフィクションの要素なしに自分の考えを述べる形式に移行したことは、何ら不思議ではない。
1960年代に書かれた一連の代表作の最後を飾る『天の声』は、やや逆説的になるが「エッセイ形式の小説」と呼べるかもしれない。これは、主人公の人物造形(天才的数学者のピョートル・ホガース、時に文化人類学的思考の傾向もある)と小説の舞台設定に負うところが大きい。物語は、「星からの手紙」の解読の試みが、明晰な頭脳の懸命な取り組みにもかかわらず、人類に典型的な軍事主義に堕ちてしまう様子を描いている。科学者を招集して秘密のメッセージを解読させるという計画は、マンハッタン計画を思い起こさせる。砂漠にある研究所や、権力者によるコントロール、そして大量虐殺の新兵器として利用できるかもしれない新しい科学技術の発見を期待して国家予算が投入される、といった側面を見てもそうだ。この第三の点は実現しなかったが、これはホガース教授の「裏切り」のためではなく、TREX効果(トランスポート・エクスプロージョン)の偶発的な性質によるものだった。ホガース教授はこの事実を、未知なる相手の非常な用心深さによるものだと受け取っている。発信者は、「手紙」の解読が破壊につながる可能性を予期し、それを阻止しようとしたのかもしれないと。
『天の声』が、接触(コンタクト)を扱った他の小説と異なるのは、認知の完全な失敗を描いている点だ。小説の登場人物たちは紛れもない天才科学者であるのに、できたことといえば、コンタクトに関する神話を次々と作り出し、コンタクトをほとんど「神の声(聖典)」のように扱ったことだけだ。「神の声」は宇宙を創造し、さらには解読されないように守られていた。解読されれば結果として人類に死をもたらしたかもしれない。
この小説が、60年代の人文学における普遍主義的傾向を痛烈に風刺しているという側面は、これまであまり指摘されてこなかった。メッセージ・コンテキスト・コード・発信者・受信者といった、登場人物が何度も繰り返すキーワードが、ヤーコブソンを代表とする構造主義的言語学に由来する用語なのは偶然ではない。また、計画に参加している人文学者たちは実際不要な者のように描かれている。時々は面白いアイデアも出すのだが、それは研究の目的とは全然関係がない。
フィクションとエッセイの狭間に位置する作品としては他に『GOLEM XIV』がある。この作品におけるフィクションの要素は、人類の知能をはるかに上回る人工知能の創造のみで、残りは、タイトルになっているスーパーコンピュータの思考の成果として披露される講義となっている。『GOLEM XIV』で示唆される進化の記述が、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(1976)と共通点があるのが興味深い。
レムのエッセイの中でも秀逸を極めるのが評論集『技術大全(Summa Technologiae)』だ。トマス・アクィナスの本を連想させるタイトルのこの作品は、技術と生物学の接点を分析しつつ、未来の発見の哲学的意味が考察されている。さらに、仮想現実(本書では「fantomatyka(幻影術)」と呼ばれている)等の概念も導入されている。並外れた知性を感じさせるテキストである。この本では、例えば、全能を語り得る(宇宙を創造し、それを支配する規則を制定することができる)ほど、人類が科学技術の頂点を極めたならば、一体どうなるかといったことが考察されている。同書に含まれる「進化落首(Paszkwil na ewolucję)」もまた挑発的な思考実験である。科学技術者の視点からすれば、自然淘汰は完璧からは程遠い構造に行き着く(単細胞生物のような初期の進化「プロジェクト」の方が断然優れている)と述べられている。タイトルからするとグロテスクのジャンルに入りそうだが、アイデア自体は極めて真面目に展開され、生物学が科学技術に徐々に取って代わられる可能性の考察へと繋がっていく。
また、他のエッセイ作品との関連で考えても、『技術大全』は特別な役割を担っている。というのも、後期のエッセイの大部分は『技術大全』の補足説明、修正、追加として扱えるかもしれないのだ。この事はレムとの対談を通じて、トマシュ・フィヤウコフスキ(Tomasz Fiałkowski)が気づいた。対談は『Świat na krawędzi(縁に立つ世界)』に収録されている。
「レムもまた、『技術大全』やその他の本に含まれた未来予測と、我々を取り巻く世界の類似を認めていた。満足していなかったわけではない。予測の大半は当たっていたし、自身の予想より早くに起こったのだ。しかし、失望がなかったわけではない。新しい発見を人々が悪用するのや、現代文明の多くの側面を見て、がっかりしていた。」
『SFと未来学(Fantastyka i futurologia)』もまた別の理由で、ノンフィクション作品群の中で特別な位置を占めている。作家が直接的な方法で、自分の創作分野についての見解を述べているのだ。ヤジェンプスキがこれを以下のように要約している。
「レムにとって、サイエンス・フィクションの評価で一番重要なことは、このジャンル名の最初の部分がいかに真面目に、いかに責任感を持って扱われているかに依るのではないか。」
本当らしさ、作品世界の中で論理的に辻褄が合っていること、そして架空の現実の特徴である基本的な異質性が、伝統的な冒険譚に魅惑的な背景を添えるだけでなく、筋立てに影響を与えるものであること。このような要請は、ずっと後にSF作家のヤツェク・ドゥカイ(Jacek Dukaj)が発表したSF公理を思い起こさせる。
最後に、『偶然の哲学(Filozofia przypadku)』もまた独特の作品で、構造主義への反発として生まれた(前述した『天の声』の解釈もこれを裏付けている)。レムは、偶然についての考察を文学から始めるが、そこを離れてまず偶然のプロセスによる場としての文化という概念を形成し、次にいかに偶然による作用を見分けるかということを教えてくれる。私たちは、目的に沿って結び付いた構造というものを無意識に見て取ってしまうのだ。
『偶然の哲学(Filozofia przypadku)』の続編というべきものはレムの哲学的作品の中には見当たらないが、二冊のアンチ推理小説『捜査(Śledztwo)』と『枯草熱(Katar)』がそれに当たるかもしれない(なおレムは『枯草熱』を『捜査』の改良版だと考えていた)。両作品がいずれも古典的な推理小説と異なっているのは、肝心の要素が欠けているからだ。つまり、犯人がいないのだ。一連の奇妙な偶然の一致が犯人の代わりになっている。さらに『枯草熱』では、謎解きもまた偶然の産物である。
アポクリファ
レムに特徴的な創作分野に、実在しない本の記述がある。架空の出版物への書評や序文という形式を取る。『完全な真空(Doskonała próżnia)』は主に未来の小説について、『二一世紀叢書(Biblioteka XXI wieku)』は実在しない通俗科学の本について記述されている。スタニスワフ・ベレシ(Stanisław Bereś)がこのタイプの創作について簡潔にまとめている。
「SF文学が文学のSFになった。」
このような特異な構造で作品を書く理由について、レムはものぐさのせいだと述べている。
「小説を書くのは誠実で時間のかかる職人仕事なのですが、年を重ねるにつれて、だんだん辛抱が効かなくなってきたように思います。アイデアの閃きを物語にするには、死ぬほど働かなくちゃいけません。これは知的労働の域を超えています。こういうこともあって、これらの本みたいなひどい省略をやったわけなのです。」(lem.pl)
ここで『完全な真空』に見られる文学的アイデアをいくつか紹介したい。実際、その中には長編小説に発展しうるスケッチ風なものもある。このグループに入るのは、一番長い物語の『親衛隊少将ルイ十六世(Gruppenführer Louis XVI)』で、敗戦したナチス・ドイツを脱出した者たちが、封建制のフランスを模倣した国家をアルゼンチンに建設しようとする奇天烈な試みを描いている。二つ目は、読者を罵倒する『てめえ(Toi)』、その複雑さでジョイスの『ユリシーズ』の向こうを張る『ギガメシュ(Gigamesh)』など「ヌーヴォー・ロマン」(新しい小説)の旗印の下に行われた実験的作品のパロディだ。三つ目のグループは『二一世紀叢書』にも通じるが、将来のエッセイの計画、将来に文化が辿る道の予想、そしてレムの小説以外の作品とも相通ずるアイデアなどである。例えば、某コウスカが書いたとされる作品は、グロテスクなまでに微に入り細を穿って人生における偶然の一致の役割について記述されており、『偶然の哲学』や小説『捜査』,『枯草熱』とも共通点がある。
大失敗(フィアスコ)あるいはペシミズム
レムは最初期の小説について、社会主義リアリズムに妥協し過ぎているとして、あまり語りたがらなかった。しかし、その「教条に従順」だという作品のどれを取っても、未来の共産党政府が話題に上ることもなければ、レムの科学・合理主義・テクノクラート礼讃もまた、当時のイデオロギー化された情勢に到底そぐわないものだとすれば、話はそう単純ではなくなる。つまり、作家が初期の作品について語りたがらなかった理由は、他にあると考えてよいのではないか。私は初期の作品に見られた楽観主義が、次第にレムの作品とは無縁のものになっていくという事実にこの理由を求めたいと思う。
レムのペシミズムは最後の小説『大失敗(Fiasko)』に最も色濃く現れている。『大失敗』は以前の作品に含まれたモチーフの要約のようでもある。主人公はある意味では宇宙飛行士ピルクス(「ある意味では」というのは2つの体に転生するからで、一つはピルクスの体、もう一つはピルクスの救助に向かう若い宇宙飛行士の体)で、未知の文明との接触を目的とした旅は『マゼラン星雲』を思わせる。惑星の住人は『エデン』のように「外殻を閉じている」し、その軍事技術は『無敵』の黒雲を思わせる。『大失敗』と以前の作品との違いは、人々はここまで破壊本能を露わにしなかったこと、あるいは、接触の意思は相手側からの方が強かったことだ(レムはここで直接「接触の窓」という概念を導入している。これは、文明が、恒星間での交信が可能な技術水準に達してから自滅あるいは衰退するまでの間の、宇宙的スケールで言えば、短い期間のことを指す)。『大失敗』では人類も相手側も疑心暗鬼になり、結果として惑星を破壊してしまう。
この小説の結末の意味は明らかだ。暴力は人類の遺伝子にあまりにも強力に組み込まれているので、一番発動してはいけない時に発動しうるとレムは考えていたのだ。進歩や明るい未来の神話は、もう取り返しがつかないところまで、人間性の暗い側面を描いた物語に取って代わられた。
オブセッション(強迫観念)
レムの創作は、テーマだけでなく、複数の作品に繰り返し登場する作家お気に入りのモチーフからも記述することができる。未知の文明の表現方法と最後の小説『大失敗』について先ほど述べた際にも、このモチーフを既にいくつか紹介した。思考するゼリーや群知能を持つ虫型小兵器、それから不可思議な人間の欲求を体現するロボットといったアイデアは、レムの代表作を何冊か読んだ人ならきっと誰もが気づいているだろう。けれど、それほど頻繁には登場しないが、レムの創作全体を語る際に同じく重要となる一連のモチーフをここでは指摘したい。
一つは、様々な種類のシークレットサービスである。レムが早くからこのテーマに関心を持っていたことは、『高い城』に記されたように、子ども時代に架空の(多くの場合秘密の)文書を作成する遊びをしていたことにも見て取れる。レム自身このように回想している。
「[ギムナジウムの]生徒だった頃、大量の重要書類を製造した。身分証明書、パスポート、卒業証明書、資格証明書、各種証明書、法的文書。おかげで私は有り余るほどの富、貴族の称号、権力を手に入れた。それから「全権委任」状、許可証、暗号化された証明書、最高機密暗号文書も。これらは全て地図上にはない国に関わるものだった。」
ほぼ階級や文書や秘密の暗号のみで構成されたこのような世界は、グロテスク小説『浴槽で発見された日記』に再現されている。しかし、根本的な違いは、小説の主人公が、この世界を支配している秘密の階級の規則を今学び始めたばかりということだ。また重点が、官僚主義化した世界の構造への憧れから、ほとんど神秘的な意味での「裏切り」を通じて、その世界から抜け出そうとする個人の試みへと移行している。
頻繁に好んで繰り返されるモチーフには他に、人工的に保存されていた情報の全蓄積が失われるといった世界規模の大惨事がある。『浴槽で発見された日記』では、その原因は紙を分解する地球外バクテリアだった。『地球の平和(Pokój na Ziemi)』では、人間の制御を離れた人工的な進化の結果として出現した兵器だった。この場合、被害は電子化されたあらゆる情報に及び、人類の歩みを大幅に後退させた。最後に、『恒星日記(Dzienniki gwiazdowe)』(*邦訳では単行本『短篇ベスト10』国書刊行会)収録の物語『A・ドンダ教授(Profesor A. Dońda)』では、相対性理論にユーモラスな補足が提案され、物質・エネルギー・情報の等価性が要請されている。これによれば、世界で飽和状態に近づいている情報がその限界値を超える時、人類によって作り出された知識の全てが消滅し、新しい宇宙が誕生するという。
情報過多というオブセッションは他の方法でも表現されている。例えば、『完全な真空』収録の『逆黙示録(Perycalypsis)』という作品では、作家・芸術家のための助成金制度が提案されている。これは、もうこれ以上人類の財産を増やすことは不必要なので、彼らに創作活動を控えてもらう方策だ。『現場検証』では、高度に発展したルザニア文明が、一方で自らが達成した科学的成果を把握できなくなる問題に直面しており、定期的にいわゆる科学陥入(自らの知的資源の大規模調査)を実施している。
以上列挙したモチーフを見ると、レムの創作における科学のイメージについて考えさせられる。作家は硬直した合理主義を離れ、次第にその避けがたい人間らしさ、つまり限界のある性質に注意を向けるようになった。このため、科学的調査の社会学的背景の記述には頻繁にグロテスクの要素が登場する。これは風刺小説に現れるだけではない(『未来学会議(Kongres futurologiczny)』)。スタニスワフ・ベレシは『ソラリス(Solaris)』に出てくる、思考する海の調査状況を記述する部分についてこのように指摘している。
「レムは、その博識と仮説を立てる創造力(科学概念のポストモダン的ゲーム)で私たちを圧倒すると同時に、科学の発展を支配しているメカニズムに対して批判的(惑星の調査状況を風刺的に再現)である。宇宙の謎に対する人間の無力さ、また人は自らのカテゴリーの論理の外に出られないということを示している。」(http://wkajt.republika.pl/acta/beres3.htm)
レムの神学への傾倒も十分に扱われてこなかったテーマだろう。それはしばしば『恒星日記(泰平ヨンの航星日記)』に登場するロボット修道士(破壊教団の神父)のようなグロテスクの形で現れる。しかし、先に取り上げた『技術大全』や『天の声』を諧謔のカテゴリーで扱うのは難しい。特に後者の場合は興味深い。というのも、解読されなかった星からのメッセージを福音書と見なすならば、この福音書は、それに基づいて悪い行いが発生しえないようなユートピア的計画ということになる(「手紙」の部分的解読から生まれた新しい技術は、兵器として利用することはできない)。この意味で『天の声』は、より人間らしい、より人道的な神の言葉を提案しているのである。21世紀の初めにレムの作品は再び演劇や映画の分野で大きく取り上げられた。ブラザーズ・クエイ(Quay Brothers)監督『マスク(Maska)』(2010)をはじめとする未来派的作品や、2011年ポーランドのEU理事会議長国任期中の主要プロジェクトの一つに着想を与えた。