能と戒厳令
1975年の二つの公演は、対照的な結果を生んだ。ヴロツワフの第5回国際演劇祭《開かれた劇場》(1975年10月19日~26日)では、太田省吾(1939-2007)主宰の転形劇場が『Święto głodu(飢餓の祭り)』を上演した。老い、夢と幻影をテーマに、身体の動きと歌を合わせた作品である。能と歌舞伎を変容させた点は、ほとんど注意をひかなかった。「天上桟敷」の感覚的な衝撃の後、評論家たちが見たのは静的な絵だった。エルジュビェタ・モラヴィエツ(Elżbieta Morawiec, 1940-2022)はこの日本の作品を、グロトフスキとカントルを連想させる実験の、よくある模倣にすぎないと一蹴した。文化の違いは、もはや即、魅了を意味するものではなかった。
鈴木忠志(1939- )の早稲田小劇場は、諸国民演劇祭(Teatr Narodów/Théâtre des Nations)ワルシャワ大会(1975年6月8日~28日)でより好意的な反応を得ている。主催者は鈴木忠志の『Trojanki(トロイアの女)』(1974)を招待したが、俳優たちの事情でこの作品の上演は叶わなかった。その代わり、二部構成の小さなプログラムが紹介された。公演に先立ち、高橋康也(1932-2002)が、鈴木が編み出した俳優訓練法について短い講演を行なった。その後、コラージュのようなパフォーマンスによって実際に訓練メソッドが披露され、プログラムによれば、歌舞伎に関連するモチーフが用いられた。書簡、舞台指示、公演記録、写真や外国のプレス資料など、この公演にまつわる記録は、同時期の日本の演劇イベントの中で最も豊富に残っている。この時、ポーランドの評論家は日本という文化的なカテゴリーではなく、俳優に焦点を当てた。最も強い印象を与えたのは、白石加代子(1941- )が演じた年齢、性格、顔や声の巧みな変化だったが、劇団全体としても、リズム、規律、そして身体の使い方が称賛された。ある評論家はそれでも、日本の演劇の伝統はポーランドでよく知られておらず、作品の意味を完全に理解することはできないと論じた。一方、他の評論家たちは、筋書きだけでは不可能な観衆とのコミュニケーションが、身体と感情によって可能になったという、正反対の結論を引き出した。日本の作品が、日本という「異質さ」の証としてではなく、演劇として議論されたひと時であった。
東京の早稲田小劇場に関する記事、1975年。写真:著者提供の資料
観世銕之丞家を中心とする演能団体、銕仙会(てっせんかい)による1980年のポーランド訪問は、地謡や囃子方を伴わない形とは言え、ポーランドの観客に直接、純粋な能の舞台を鑑賞する機会を与えた。ワルシャワのスタジオ劇場(Teatr Studio)では、公演に先立ち、能面と舞台技法が紹介された。しかし新聞・雑誌の反応は驚くほど少なかった。長い批評を寄せたのはパヴェウ・ヒノフスキ(Paweł Chynowski)のみで、このイベントを、抑制された動き、リズム、そして言葉・歌・踊りの不可分性について、その理解に多くを要する学びとして紹介した。他の評論家たちは、能という形式の地位と歴史を認識しながらも、理解が不可能なのは避けられないと述べた。彼らが苦労したであろうことは想像できる。当時、ポーランド語で書かれた、日本の演劇に関する文献は、信頼できるものはほとんどなかったからだ。
太田省吾は1983年にポーランドを再び訪れた時、まったく異なる形の集中力を見せた。『Stacja wodna(水の駅)』(1981)は2時間の間、ひと言も発せられないまま上演された。淡い光が水道の蛇口、積み上げられた靴と、がらくたと化した自転車の残骸を照らし出す。旅人、亡命者や難民たちが、非常にゆっくりと舞台を横切りながら水場で足を止め、水を飲み、身体を洗い、戦い、愛し合い、そして回復してから、先へと歩みを続ける。評論家たちは作品を称賛し、おなじみの「日本的なるもの」や異国情緒といった決まり文句は姿を消した。しかし観客席には空席が目立った。戒厳令は緩和されつつあったが、形式的には依然として敷かれたままだった。人々は政治危機や前衛芸術、またはその双方に、疲れ切っていたのかもしれない。
日本の演劇は、共産主義時代のポーランドに、レビュー、オペラ、実験、そして、古典的な演劇作品を簡略化したものの紹介といった形で、断片的に入ってきた。これらは日本の舞台芸術の伝統をバランス良く描き出すものではなかった。信頼できる批評の基盤となる、判断の基準点が欠如していたのだ。評論家たちは異国趣味と、世界的な前衛演劇との間で戸惑い、いつ、何を書いてよいか定かでなかった上、ジャーナリズムの決まったレールを外れることもできなかった。評論家たちを導くべき日本という文脈は、ポーランドの資料にはまったく見当たらない。しかしほとんどの場合、何らかの理由で、パフォーマンスを「エキゾチック」したがって理解不可能なものと捉えようとする衝動を克服できず、純粋な芸術として称賛することはできなかった。
※本記事の元となった学術論文「Japanese Theatre in Communist Poland 1967-1988: History, Political Context and Reception(共産主義時代の日本の演劇 1967-1988年――歴史、政治的文脈と受容)」は、George T. Sipos and Irina Holca (eds.), Japan Behind the Iron Curtain(鉄のカーテンの向こうの日本〔仮題〕, Routledge社からの出版を検討中)に収録される予定。同稿はズビグニェフ・オシンスキ(Zbigniew Osiński)教授が2巻の研究書『Polskie kontakty teatralne z Orientem w XX wieku(20世紀ポーランドの「東洋」との演劇的接触)』(Studia i Kronika, Słowo, obraz terytoria, Wrocław 2008)にまとめた、ポーランドと日本を含む「東洋」の演劇関係の先駆的な研究の流れを汲み、それに貢献するものである。
執筆:イガ・ルトコフスカ(Iga Rutkowska)博士、ワルシャワ大学 アジア・アフリカ文化学部日本学科
日本語訳:柴田恭子(Yasuko Shibata)、2026年9月4日