一方1972年に、この絵画はポーランド人民共和国時代において初めて、外国へと旅に出た。モスクワのプーシキン美術館で1972年10月から11月にかけて開催された、15世紀から20世紀までのヨーロッパにおける肖像画を一堂に会した大規模な展覧会において、この作品は「ファーストレディー(第一の“貴婦人”)」という名の主役を務めたのであった。モスクワでの展覧会に先立ち、この絵画はワルシャワへ運ばれ、木箱に収められて、車で到着した。モスクワへは飛行機で運ばれた ―― 絵の作者であるダ・ヴィンチ自身がその製作を夢見ていた乗り物で。空港から車で美術館に到着した際、ポポフ文化芸術大臣自らが深々とお辞儀をして出迎えた。その後毎日、1日8000人の観客が鑑賞した。1か月後、絵画は列車でクラクフに戻った ―― 一等車のコンパートメントで、2人の警察官に護衛されて。2年後、《白貂を抱く貴婦人》はワルシャワの国立美術館で開催された「Panorama 30-lecia PRL(ポーランド人民共和国30周年パノラマ)」展(1974年11月~12月)で再び展示された。
それでは、より現代の時代へと話を移そう。すでにポーランド民主化運動が起こり、アメリカ合衆国ではクリストファー・コロンブスが初めて航海に出てから500周年を祝う準備が進められていた。ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートは、この機会に「Circa 1492. Art in the Age of Exploration(1492年頃のこと。大航海時代の芸術作品)」と題された大規模な展覧会を企画しており、大航海時代に制作された何か特別な作品を必要としていた。ちょうど崩壊したばかりの鉄のカーテンの向こうから届いた、目新しい作品を。選ばれたのはガッレラーニの肖像画だった。ヤン・クシシュトフ・ビェレツキ(Jan Krzysztof Bielecki, 1951年生まれ)政権で文化芸術大臣に就任したばかりのマレク・ロストフォロフスキの抗議にもかかわらず、決定は下された。1991年3月、ジョージ・H・W・ブッシュ米大統領は、当時ワシントンを訪問中だったレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)(Lech Wałęsa, 1943年生まれ)大統領に対し、《白貂を抱く貴婦人》の貸与を要請し、承諾を得た。アダム・カロル・チャルトリスキはその頃、クラクフ国立美術館に付随させてチャルトリスキ公爵財団を設立した。彼は、ダ・ヴィンチの作品を含む一族のコレクションを同財団に譲渡した。こうして1991年10月、この絵画は「個人用パスポート」を手に、再び空へと舞い上がった。特別に空調設備を備えた木箱に入れられ、ファーストクラスの客室で運ばれたのである。ワシントンのギャラリーでは、同じくダ・ヴィンチ作の《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》のそばという、名誉ある場所に展示された。ワシントンでの展覧会に際し、最先端の手法を用いてパネルが詳細に調査された。
ブダペストでの展覧会に向けたレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画《白貂を抱く貴婦人》の準備風景、クラクフ国立美術館、2009年、写真:Grzegorz Kozakiewicz/Forum
ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートの館長が、いかにして2人の大統領を陰謀の渦に巻き込んだかという議論が冷めやらない10月25日の朝、チャルトリスキ美術館の入り口前にフォードのバンが到着し、その後にサイレンを鳴らしたパトカーの列が続いた。防弾チョッキを着た警官たちが建物の入口を取り囲み、車に背を向けて見物人たちに機関銃を向けていると、警備員たちは建物から、光る金属製の重い箱を載せた特別な台車を運び出した。彼らはそれを急いでフォードに積み込むと、車の隊列はサイレンを鳴らして空港へと走り去った。1億ドルの保険がかけられた《白貂を抱く貴婦人》は、スウェーデンへと向かったのである。マルメとストックホルムでは、奇妙な展覧会「I ponti di Leonardo」(「レオナルドの橋」、1993年10月~1994年6月)が開催された。7か月の間、《白貂を抱く貴婦人》は、レオナルド・ダ・ヴィンチの橋、機械、建造物の模型30点に囲まれて設置された、特製の展示ケース内の防弾ガラスによって守られていた。そこで“貴婦人”は財団のために39万ドルを稼いだ ―― スウェーデン側がこの傑作の貸し出しにこれだけの金額を支払ったのである。クラクフで約束されていた「レオナルドの橋」展は、結局開催されることはなかった。ガッレラーニの肖像画は、スウェーデンとデンマークを隔てるエーレスンド海峡に、全長16キロメートルの橋を建設する許可を、スウェーデン政府から得るための駆け引きにおいて、切り札として利用されたのである。ロストフォロフスキは、「この論争において、我々の《白貂を抱く貴婦人》は“橋の上の少女”として利用されたのだ」と嫌悪感を露わにして記している。
1998年10月13日、イタリアのオスカル・ルイージ・スカルファロ大統領が、ローマのクイリナーレ宮殿にあるいわゆる「旗の広間」で、衛兵の警護の下に展示された《白貂を抱く貴婦人》を訪れた最初の観客となった。これは、この絵画が制作された国での4か月間にわたる「感傷的な」訪問であった(1998年5月~1999年1月)。ポーランドとイタリア両政府により、作品の安全が保障された。《白貂を抱く貴婦人》はさらにフィレンツェとミラノへ向かった。ブレラ絵画館では、「貴婦人」の愛人ルドヴィーコ・イル・モーロとその妻ベアトリーチェ(この二人はいわゆる《スフォルツァ家の祭壇画》に描かれている)と向かい合わせに展示された。ダ・ヴィンチ作品の代わりとして、イタリア側はクラクフとワルシャワで、ラファエロの《ラ・ヴェラータ(ヴェールを被る婦人の肖像)》とティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》を披露した。世界は既に「貸し借り可能な傑作」の存在を知ったのだった。
ローマにあるレオナルド・ダ・ヴィンチ体験博物館の常設展示で公開されている《白貂を抱く貴婦人》(左)とジネーヴラ・デ・ベンチの肖像(右)の複製。2017年2月16日、写真:Angelo Carconi/EPAPAP
2001年8月、財団は最も貴重な絵画を8か月間、日本へ送り出した。京都、名古屋、横浜の各美術館で開催された「レオナルド・ダ・ヴィンチ《白貂を抱く貴婦人》チャルトリスキ・コレクション展」(京都市美術館、2001年9月~10月;松坂屋美術館(名古屋)、2001年12月~2002年1月、横浜美術館、2002年1月~4月)で公開されたのだった。
この長旅の目的は、表向きには博物館の宣伝だったが、《白貂を抱く貴婦人》は、その金額は秘密にされているものの、財団に収益をもたらしている。4月13日、500年の時を経たこのキャンバスは、16時間の旅を経てクラクフに降り立った。クラクフ・バリツェ空港には、対テロ部隊の姿も警察の姿もない。午後8時40分、16分前にフランクフルト・アム・マインから到着した定期便から、武装した博物館の警備員たちが重い金属製の箱を運び出す。彼らは専用のリフトを使って、その箱を、何の印もない白い車に積み込む。その車は、2台の普通の車に護衛されながら、チャルトリスキ美術館の前に到着。門の前に警察官の姿はない。警備員と2人の配達員が、衝撃、火、湿度の変化に耐性のあるその箱を館内へと運び込んだ。
2011年11月9日、チェチーリア・ガッレラーニの肖像画が展示された「The Lady with an Ermine(白貂を抱く貴婦人)」展の開場前に、ロンドンのナショナル・ギャラリー前にできた行列、写真:Andy Rain/EPA/PAP
《白貂を抱く貴婦人》があちこちへ旅していることには、外国の美術館関係者も驚いている。日本の国宝は国外へ持ち出されることはないからだ。ワシントンの美術館は、所蔵する《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》をポーランドで展示することには承諾しなかった。また、ルーヴル美術館は《モナ・リザ》の国外持ち出しを禁じている。1960年代にシャルル・ド・ゴールが《モナ・リザ》をアメリカへ移送するにあたり、大騒動が巻き起こった。抗議の意を表して、ルーヴルの美術専門家たちが辞任すると脅迫したのだ。その後、1974年に東京とモスクワでも展示されたが、それ以来、《モナ・リザ》はもう自身の館を離れていない。高額な保険さえも安全を保障したことにはならない。むしろ危険を招くことさえある。
ダ・ヴィンチの傑作《白貂を抱く貴婦人》を貸し出すにあたり、財団はセキュリティ上の懸念を理由にこれを差し止めることはなかった。2002年8月末、この絵画は「Leonardo da Vinci and the Splendor of Poland: A History of Collecting and Patronage(レオナルド・ダ・ヴィンチとポーランドの輝き ―― 収集と後援の歴史)」(ミルウォーキー美術館、2002年9月~12月、ヒューストン美術館、2002年12月~2003年2月、サンフランシスコ美術館、2003年3月~5月)展に向けて米国へ送られた。アメリカ側は財団に《白貂を抱く貴婦人》の貸出料を支払った(その金額は? これもまた秘密だ)。そして、政府保証を付したのだった。ミルウォーキー美術館とヒューストン美術館では、5か月間で15万人の観客が鑑賞した。これは決して多い数字ではない ―― 日本では約70万枚のチケットが売れたのだから。《白貂を抱く貴婦人》が外国で頻繁に展示されることに反対する抗議活動の影響を受け、財団は、この計り知れない価値を持つ絵画が米国から帰国した後は、10年間は国内に留めることを決定した。1992年から2003年にかけて、ポーランドのコレクションにおいて間違いなく最も価値のあるこの油彩画作品は、5回もの外国巡回展を行い、そのうち2回は海を渡ったのだった。これは、世界中の同クラスの芸術作品の中で、他に例を見ない回数である。クラクフ以外で過ごした期間は、合計2年半に及んだ。
アダム・チャルトリスキ(左)、妻のジョセット・カリル(Josette Calil)、そして美術修復家のヤヌシュ・チョプ(Janusz Czop、右)が2011年5月31日、マドリードの王宮にて《白貂を抱く貴婦人》を披露しているところ、写真:Fernando Alvarado/EFE/Forum
アダム・チャルトリスキ(左)、妻のジョセット・カリル(Josette Calil)、そして美術修復家のヤヌシュ・チョプ(Janusz Czop、右)が2011年5月31日、マドリードの王宮にて《白貂を抱く貴婦人》を披露しているところ、写真:Fernando Alvarado/EFE/Forum
専門家の見解によれば、こうした移動には、損傷、破損、盗難といった大きなリスクが伴っていた。世界のどこにおいても、国宝をこれほど危険にさらすことはあり得ない。ダ・ヴィンチの作品が不在の間、チャルトリスキ美術館への来場者数は大幅に減少したものの、財団は、こうした巡回展がコレクションとクラクフの素晴らしい宣伝になっていると主張している。米国への旅からわずか6年しか経っていないにもかかわらず、《白貂を抱く貴婦人》はブダペストへと向かった。そこで2009年10月から2010年2月にかけて、セーペムヴェーシェティ美術館(Szépművészeti Muzeum)で開催された「From Botticelli to Titian(ボッティチェリからティツィアーノへ)」展で展示されたのである。財団理事会の声明にある通り、これは「第二次世界大戦勃発後にポーランド難民に示された支援に対する、ポーランド国民からハンガリー国民への感謝の表れ」であった。しかし、この展覧会は来場者数が少なく、宣伝も不十分で、警備体制も手薄だった。帰国後、チャルトリスキ美術館は改修工事をしていたため、《白貂を抱く貴婦人》はワルシャワに置かれた。そこで2010年5月から2011年4月にかけて、ワルシャワ王宮で開催された「レオナルド・ダ・ヴィンチ――《白貂を抱く貴婦人》およびクラクフのチャルトリスキ美術館所蔵のその他の傑作」展にて展示された。この長期滞在は一種の罰のようなものだった。なぜなら文化省が、美術館の改修をする資金となる収益をもたらす《白貂を抱く貴婦人》のさらなる巡回展への許可を出さないと脅していたからだ。2011年4月、寄贈者のアダム・カロル・チャルトリスキは覚書に署名した。これに基づき、この肖像画はマドリード、ベルリン、ロンドンへの数ヶ月にわたる巡回展に出発するが、帰国後は少なくとも10年間は貸し出しを行わず、クラクフの国立美術館で展示されることとなった。
《白貂を抱く貴婦人》がマドリードへ運ばれたのは、アダム・カロル・チャルトリスキの主張によれば、彼のいとこであるスペイン国王がそう頼んできたからであり、「国王の頼みを断ることはできない」からであった。こうして、2011年6月から8月にかけてマドリード王宮のスペイン国家遺産局(Patrimonio Nacional)で開催された「Poland, Treasures and Art Collections(ポーランドの至宝と美術コレクション)」展で展示され、7万3千人が鑑賞した。軍用機「CASA」で輸送することで、作品の安全は保障されたのだった。しかし、この絵画の巡回展に対する抗議に再び火が付いたのである。
「共和国黄金時代」展での《白貂を抱く貴婦人》、マドリード王宮、マドリード、2011年、写真:Javier Lizon/EPA/PAP
2011年8月から11月にかけて、《白貂を抱く貴婦人》はベルリンのボーデ博物館で開催された「Gesichter der Renaissance. Meisterwerke Italienischer Portrait-Kunst(ルネサンスの顔――イタリア肖像画の傑作)」展にお目見えし、観客やメディアから好評を博した。この一連の巡回展の結果、同作品は「今年のメディアの顔」と称賛される一方で……背景が塗り直された箇所や衣装に見られる数か所の修正を取り除くべきだという声も次第に高まっている。2011年11月から2012年2月にかけて、この絵画はロンドンを訪れ、ナショナル・ギャラリーで開催された「Leonardo da Vinci. Painter At the Court of Milan(レオナルド・ダ・ヴィンチ。ミラノ宮廷の画家)」展で展示された。そこでも絵画の前には長蛇の列ができたが、外国ではますます多くの学者や美術館関係者が、絵を“旅させる”ことに抗議するようになった。そこで文化省は、今後《白貂を抱く貴婦人》が巡回展を行うことを禁止した。ポーランドに戻った後は、ヴァヴェル王城の個室に展示されており、1日最大600人の観客が鑑賞できる。2019年中にこの絵画がチャルトリスキ美術館に戻る可能性もあるが、それまでの間、2017年5月19日から、ダ・ヴィンチのこの傑作はクラクフの国立美術館本館内の別個の空間で展示されることになっている。
執筆:カタジナ・ビク(Katarzyna Bik)、2017年7月6日、最終更新:2026年5月21日
日本語訳:スプリスガルト友美(Tomomi Splisgart)