歌舞伎の魂とドストエフスキー ――アンジェイ・ワイダ『ナスターシャ』誕生の背景
アンジェイ・ワイダはなぜ、ドストエフスキー『白痴』を日本語で映画化したのだろうか。ポーランド映画でもっとも独創的なプロジェクトの一つに数えられるこの作品が、歴史の表舞台にとどまらず、その奥底に隠れることになった理由とは?アンジェイ・ワイダ『ナスターシャ』の物語を始めよう。
ポーランド映画のファンにアンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda, 1926-2016)〔ポーランド語の発音に近い「Wajda」の表記は「ヴァイダ」〕の作品を挙げるよう頼むと、『ナスターシャ(Nastazja)』(1994)はおそらく、リストの最後の方に来るだろう。公開された年に既に、評論家から驚くほど素っ気ない反応を受け、数年後にはワイダの忘れ去られた作品の一つになった。ポーランド映画は2010年代に再発見の時代を迎え、マレク・ピェストラク(Marek Piestrak, 1938- )のホラー映画やアンジェイ・ジュワフスキ(Andrzej Żuławski, 1940-2016)の『ワルシャワの柔肌(Szamanka)』(1996)など、それまで過小評価されてきた作品や「異色の」作品にスポットライトが当たり、映画マニアには至福の時だったが、『ナスターシャ』はそのような機会を得なかった。
しかしポーランド映画において、これほど特異で独創的なプロジェクトは少ない。アンジェイ・ワイダがフョードル・ドストエフスキーの長編小説『白痴』の翻案を決めたのは1993年のこと。より正確には、『Nastazja Filipowna(ナスターシャ・フィリポヴナ)』と『Nastazja(ナスターシャ)』という、二つの舞台作品の原作となった、同小説の一部
の映画化である。映画は日本語で撮影され、主役であるナスターシャとムイシュキンの一人二役に、深遠な女性像を創り出す、歌舞伎界随一の立女形、坂東玉三郎が起用された。
最初のナスターシャ
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フョードル・ドストエフスキー『悪霊』のリハーサルを行うアンジェイ・ワイダ、スターリ劇場、クラクフ、1971年。写真:Wojciech Plewiński / Forum
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Andrzej Wajda na próbie przedstawienia "Biesy" według Fiodora Dostojewskiego, 1971, Teatr Stary w Krakowie, fot. Wojciech Plewiński / Forum
全ては舞台から始まった。1977年、ワイダはクラクフのスターリ劇場(Stary Teatr)で『Nastazja Filipowna』を上演する。ドストエフスキーの『白痴』をワイダ自ら翻案した作品で、ロゴージン役のヤン・ノヴィツキ(Jan Nowicki, 1939-2022)、ムイシュキン役のイェジー・ラジヴィウォヴィチ(Jerzy Radziwiłowicz, 1950- )の名演が記憶に残る。その成立については、独立した記事のテーマとなるだろう。ワイダは興味深い実験を行うことにした。本上演の前にリハーサルを一般公開してチケットを販売し、観客が生みの過程を観察できるようにしたのだ。プロジェクトは「『白痴』27のリハーサル」と名付けられ、1977年1月8日から2月16日まで続いた。これは監督のみならず、何より、観客の眼にさらされた俳優たちにとって非常な負担となった。演じる役の陰に隠れることはできず、自分が役作りを行う、もっともパーソナルな瞬間を露わにしなければならなかったのだ。しばらくして、ワイダが公開リハーサルを中止したのもこのためだった。
この舞台はスターリ劇場の歴史に刻まれた。演劇史研究者のヨアンナ・ヴァラシェク(Joanna Walaszek)は、季刊誌『Konteksty』で次のように書いている:
ワイダは前衛的な舞台を模倣したり、機械的な方法でコピーしたりすることはしなかったが、『Nastazja Filipowna』は紛れもなく、その土壌から生まれた。舞台と観客の関係をどう形作るか――ワイダはその問いに対する自らの答えを探していた。当時、多くの芸術家たちを魅了した、演劇の境界、芸術の境界の領域を、彼なりの方法で、そしてレパートリー劇場の枠内で探究していた。
ワイダにとって、これがドストエフスキーとの「関わり」の終わりではなかった。その12年後、ワイダ監督はまったく別の状況下でドストエフスキーと再び対峙し、東京でこの舞台作品のリメイク版、『ナスターシャ』を実現することになる。
東京、夢の旅
1989年冬に実現した東京での公演は、ワイダを完全に虜にした俳優との出会いの結晶だった。その俳優とは、歌舞伎役者・当代一の女形の坂東玉三郎である。ワイダが玉三郎を初めて見たのは京都の南座で、舞台『椿姫』でマルグリット役を演じる姿だった。イレネウシュ・エングレル(Ireneusz Engler)監督のドキュメンタリー映画『Kreacje Tamasaburo Bando(坂東玉三郎の芸術)』で、ワイダの妻、クリスティナ・ザフヴァトヴィチ(Krystyna Zachwatowicz)は、その瞬間を次のように思い起こしている:
舞台はすべて、ヨーロッパ演劇の通常の慣習にしたがって制作され、ほかの女性の役は女性が演じていたが、それは見るに耐えないものだった。彼女たちの演技は、たとえ良い俳優であったとしても、玉三郎と比べると話にならず、どこか偽りが感じられた。〔……〕玉三郎は真の女性であり、絶対的な神秘とでもいうべきものがそこにあった。
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ワイダは玉三郎に新たなナスターシャを見出した。前述のドキュメンタリーでは、こう述べている:
玉三郎は、これまで私が出会った中でもっとも優れた俳優の一人です。彼の演技には、伝統的な舞台でも映画でも、驚くべきものがあります。歌舞伎の女形でヨーロッパ演劇の傑作の女性役を演ずる、数少ない、ひょっとすると唯一の人物かもしれません。これまでマクベス夫人、ギリシャ悲劇『メディア』のメディア、『ロミオとジュリエット』のジュリエットやナスターシャ・フィリポヴナ、その他多くの女性役を演じています。男性の役を引き受けることを決意したのは『ナスターシャ』が初めてでした。これを果たして演じるべきか、長年にわたってたゆまず築いてきた、演劇界における自らのイメージを損なうのではないかと、案じていました。まして彼は、日本では、アメリカで言えばリズ(エリザベス)・テイラーと同じぐらいの人気を誇る俳優なのです。
ワイダは玉三郎を、ナスターシャとムイシュキンの一人二役に起用した。男性の役が提案される――これは歌舞伎界きっての女形である玉三郎にとっては挑戦である。自ら演技の基盤を壊すようなことはしたくなかったと、玉三郎自身がテレビのインタビューで述べている。しかしワイダの前ではすべてを出し切り、ワイダは彼の無意識の領域を、可能な限りに押し広げたという。
ワイダの演出のもと、ムイシュキン公爵は、執着心にとらわれたロゴージンが見つめる中、突如としてナスターシャに変身する。玉三郎はこの二役を融合させた。ワイダはこう語る:
これは私たちが舞台で実現することができた、もっとも霊的なことだと思います。少なくとも、私はそう思います。というのも、これが純粋な演劇だからです。男性から女性へと変わる瞬間は、観客にとっても私たちにとっても(リハーサルとその後の本番を何回も見ているのにかかわらず)、その度に、これを自分の目で見ているとは信じがたいものでした。
日本版の舞台『白痴』の演出にあたり、ワイダは自分が信頼する協力者をことごとく集めた。舞台美術と衣装はクリスティナ・ザフヴァトヴィチ、のちに映画『ナスターシャ』の共同脚本家になるマチェイ・カルピンスキ(Maciej Karpiński)が助手を務めた。彼らとともに、クラクフ版とは根本的に異なる舞台が制作される。ヨアンナ・ヴァラシェクは、この舞台についてこう評している:
公演の最中にようやく、この二つの舞台がいかに異なるものかがわかった。驚くべき違いである。その違いは、詩情、小説の翻案の仕方、役者の演技を始め、あらゆる面で明らかだった。二つの舞台はそれぞれ、演劇に対する異なるビジョンから生まれている。そこにはポーランドと日本の文化の隔たりだけでなく、1960年代末~1970年代初頭の演劇界が探究していたものと、現在の隔たりも感じられた。ワイダの舞台作品の探究の多様性と進化が、実に明確に見て取れた。
ミューズたちの決闘
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日本美術技術センター「Manggha」館の定礎式で礎石を据える、京都クラクフ基金設立者、アンジェイ・ワイダとクリスティナ・ザフヴァトヴィチ。写真:Jacek Bednarczyk / PAP
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1989年の東京での舞台は、ワイダが日本との関係をさらに深める一歩となった。その2年前、ワイダは稲盛財団京都賞を受賞し、その賞金をクラクフの日本美術技術センター「Manggha(マンガ)」館(Centrum Sztuki i Techniki Japońskiej „Manggha”)の建設に充てた。しかし1994年に博物館の建物が公開される前、ワイダはもう一度ドストエフスキーに立ち戻り、玉三郎とともに映画版『ナスターシャ』を制作しようと決意する。近年出版された『Notesy 1942-2016(ノート1942-2016年)』で、映画制作の過程がつづられている。1992年11月7日にはこう記している:「ナスターシャの映画は作られねばならない。撮影は信頼するエデルマン(Paweł Edelman)、さらにマチェク・シレシツキ(Maciek Ślesicki)をセカンド・カメラ(オペレーター)に起用しようと考えている。彼なら脚色がより映画的になるよう、助けてくれるだろう」。
舞台の台本を映画向けに変えるという課題は、彼を繰り返し悩ませた。ワイダはマチェイ・カルピンスキとともに、脚本に映画の生命とリズムを吹き込むよう努めた。前述の『Notesy』では、こう書いている:「〔……〕はっきりしているのは、ここから作るべきは映画で、舞台の録画ではないことだ」。一方、1992年12月末には次のように記している:
舞台作品『ナスターシャ』を映画のスクリーンに移すという施術は、何を意味するのか?演劇では、すべては最後まで一貫していた。屋内の一室、そして二人の俳優だ。ナスターシャはいわば、ムイシュキンの身体の中に彼女を見る、ロゴージンの心の幻影だった。一方、映画はペテルスブルクの屋外の現実へと私たちを連れ出し、俳優やエキストラなど、他の人々を引き入れる。あの舞台の古い秩序を乱すわけだが、では新しい秩序は作り出し得るのか?屋外での撮影はおそらく映画の支えとなり、神秘さを加えることもできるだろう。だが玉三郎の、ムイシュキンからナスターシャへの変身についてはどうだろうか?
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アンジェイ・ワイダ監督『ナスターシャ』、1994年。写真:H.I.T. / TV Tokyo
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当代一の歌舞伎俳優は、この時期、自分の人生を見つめ直していた。映画の撮影現場には、疑念と不安を抱えた状態で足を踏み入れることになる。
1993年2月24日、ワイダはこう記している。
40歳を過ぎ、玉三郎は自分の年齢を深く感じていた。新たな出発を試み、自ら監督として2本の映画を作った。その一つ目はいわば習作で、二つ目は俳優を起用した、よくできた映画だったが、ベルリンの映画祭に送ったところ、何も得ることはできなかった。〔……〕もちろん、彼自身について赤裸々な映画を作れば成功を収めただろうが、そうしたら未来を奪うことになる。なんと言っても、歌舞伎の舞台で彼を遠くから見ることしかできない観客にとって、玉三郎は非現実的な人物である。そのような助言は、切腹せよと勧めるようなものだ。
テスト撮影の折、既に玉三郎は、俳優の身体性が劇場の舞台より鮮明に露わにされる、映画のスクリーンで女性を演ずることへの不安を口にしていた。スクリーン上の姿については、撮影された映像の断片を進んで見ることはせず、カメラが玉三郎に焦点を合わせたショットを飛ばすよう、ワイダに頼むほど過敏だった。「それは照れや媚びではなかった。彼は自分が何を求めているか知っており、何がうまくいかなかったかもわかっていた」――ワイダはノートにこう記している。
ハッピーエンドでは終わらない
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アンジェイ・ワイダ監督『ナスターシャ』、1994年。写真:H.I.T. / TV Tokyo
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1993年3月30日、ワルシャワで映画の撮影が始まり、4月8日に撮影期間が終わった。劇場の舞台と同様、ワイダは永島敏行が演じるロゴージンと、玉三郎が創り出すムイシュキン・ナスターシャの関係を映画の軸に据えた。立女形は男性から女性へ、そして女性から男性へと見事な変身を披露した。しかし映画の演出は、ワイダの構想に埋め込まれていた間違いを露呈することになる。屋外での撮影によりスクリーン上の世界が広がったにもかかわらず、映画版『ナスターシャ』には、未だ演劇の性格が色濃く残されていた。映画が日本語で制作された事実もまた、ポーランド人観客の意識に強く印象づけられないことにつながった。ワイダにとって頼りだったのは、玉三郎に魅了され、またワイダをも愛する日本の観客だった。映画が東京で公開されるにあたり、ワイダはファンに向けて手紙を書いた:
ロシアの文豪、フョードル・ドストエフスキーと、素晴らしい日本の俳優、坂東玉三郎との出会いに、ポーランド人監督が映画『ナスターシャ』を発案し、立ち会いました。皆さんがスクリーン上で成果を評価する、この稀有な出会いは、単なる偶然の産物ではありません。芸術に国境はありません。今も偉大な過去を常に記憶し、現在と同じぐらい過去から糧を得て、永遠で普遍的なテーマを探求しています。私はこの素晴らしい事業に携わることができ、幸せを感じています。そしてこの映画によって、日本の映画史に、自分の名前が刻まれることを誇りに思います。
残念ながら、ワイダのこの映画は日本でも商業的な成功を収めることはなく、芸術的な意味を持つ大胆な実験というよりは、単発の珍しい作品とみなされた。ポーランドではテレビ演劇と並べて評された。その少し前に西欧で『コルチャック先生(Korczak)』(1990)最終場面の描写が反ユダヤ主義的との批判を受けたワイダ監督にとって、再び辛い経験となった。しかし、三島由紀夫の近代能の戯曲を翻案した舞台とテレビ劇『Mishima』(Teatr Telewizji, 1997)が示すように、このことによってワイダの日本文化への愛情が弱まることはなく、そして坂東玉三郎に対して彼が長年抱いてきた敬愛の念も、変わることがなかった。
執筆:バルトシュ・スタシュチシン(Bartosz Staszczyszyn)、2025年6月13日、改訂:2026年3月6日
日本語訳:柴田恭子(Yasuko Shibata)、2026年8月