グディニャにおけるモダニズムの名所 ―― 100年の歴史を持つ街で見られる重要な建築物10選
1926年2月10日、グディニャは市制を施行した。それは、漁村が近代都市へと変貌を遂げたという史実において、象徴的な瞬間だった。この出来事の100周年を記念して、歴史が刻まれたグディニャの建築物を巡る散策へとご案内しよう。
1926年に海洋・河川連盟支部(Oddział Ligi Morskiej i Rzecznej)から発行されたガイドブック『Polskie morze: informator wybrzeża morskiego(ポーランドの海 ―― 海岸情報ガイド)』の中で、グディニャ(Gdynia)は「海岸の特色」と題した第4章に登場した。新しい港の建設、そしてそれに伴う近代都市の建設は、当時としては目新しく、政治的な出来事でもあった。「グダンスクが自由都市となったことで、ポーランドはグダンスク港の利用において頭を抱える事態に陥った。このような状況がもたらす弊害については、既に1920年、我々ポーランドにとって最も危険な時期であったボリシェヴィキ(訳注:ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派)による侵攻の際に、痛感する機会があった。その時、ポーランドの発展、さらにはポーランドの存続にとっても、何ものにも妨げられない自由な海へのアクセスがいかに重要であるかが表面化したのである。このことを理解し、経験から教訓を得た下院議会は、1922年9月23日、ポーランド沿岸、すなわちグディニャに、商港および軍港を建設することを可決した。この歴史的な決定のおかげで、ポーランドは広い世界へと自由に出入りできるようになった」 ―― 前述のガイドブックにはこのように記されていた。
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1919年に調印されたヴェルサイユ条約に基づき、ポーランドは全長147km(ヘル半島(Półwysep Helski)74km、外海24km、プツク湾(Zatoka Pucka)沿岸49km)に及ぶバルト海沿岸へ出入りする権利を獲得した。国境内に海岸線を有することは、戦略的、防衛的、経済的に極めて重要な意味を持っていた。 ―― これを最大限に活用すべきであることはすぐに明らかになった。しかし、ポーランドの港がグディニャに建設されることは、当初から決まっていたわけではなかった。政府がこのような投資をすることを決定した際、いくつかの候補地が検討された。その中にはプツク湾沿岸や、グダンスクと運河で結ばれる予定だったトチェフ(Tczew)などが含まれていた。各案を分析したのは、政府から沿岸地域へ派遣された交通工学者のタデウシュ・ヴェンダ(Tadeusz Wenda, 1863-1948)で、各候補地の利点を評価した。1920年、ヴェンダは「軍港(必要に応じて商港としても使う)を建設するのに最も適した場所はグディニャだ。より正確に言うならば、グディニャとオクスィヴィエ(Oksywie)の間にある低地で、グダンスクのノヴィ・ポルト(Nowy Port)地区から16kmの距離に位置するところである」との判断を下した。1921年、グダンスクの北に位置する人口1268人の漁村で起工式が行われ、その5年後、この集落で市制が施行された。その出来事の前日には1万人だったグディニャの人口が、10年後の1936年12月には、もう10万2千人に達していた。
グディニャは、多面的なプロセスを経て造られた。この開発において鍵となったのは、港の建設とそれに伴う技術的インフラの整備であったが、産業施設を建設するのに続けて、街自体を発展させなければならなかった。グディニャへは、急速に発展しているこの地で仕事を見つけようというビジョンに魅せられた人々が、ポーランド全土から集まってきた。グディニャの「民間的な」部分を形成するに当たっては、2つの側面があった。1つは、非常に印象的なモダニズム建造物や豪華な住宅によって記録された、プロパガンダ的で公的な側面であり、もう1つは、貧困地区やスラム街に隠され、語られることのなかった側面である。というのも、低階級層の人々には、手頃な価格の住宅が不足していたからである。海辺の都市建設の光と影については、建築家のグジェゴシュ・ピョンテク(Grzegorz Piątek, 1980年生まれ)が著書『Gdynia obiecana. Miasto, modernizm, modernizacja 1920-1939(約束の地グディニャ ―― 都市、モダニズム、近代化1920年~1939年)』の中で書いている。その中で、印象的で近代的な都市空間の建設が、前例のない規模とスピードで進められたこと、それにそのプロセスが複雑でテンポが速かったために社会問題が生じたという両方の面に着目している。
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そんな出来事から100年が経ち、グディニャは「住みやすい街」ランキングのほとんどで首位を獲得し、そこに戦間期に建設された建造物は、ユネスコの世界遺産への登録が申請されている。2015年以降、街の中心部は「歴史記念物」という地位を誇っている。それはポーランドにおいて、文化財が得られる最高の保護形態である。都市建設の過程で様々な論争や社会的課題が生じたことを忘れずに、今日、当時築かれた建造物の価値を高く評価しないわけにはいかない。1920年代から30年代にかけては、この事業の近代性と進歩性を強調するためにも、モダニズムの様式が取り入れられた。戦間期のモダニズム建築がこれほど豊富に残る街としては、グディニャはカトヴィツェに次いでポーランドで2番目の大都市である。しかし、上シロンスク(上シレジア)県の県都であるカトヴィツェでは、革新的な様式を採用することが多かったのは民間投資家であったのに対し、この海辺の街グディニャでは、船舶をモチーフにしたモダニズム様式が、公共建築によく見られた。つまり、今日に至るまで誰もが利用可能な建築物だ。グディニャが創設されてから100年経った今も、それらの建築物を訪れる価値は十分にある。
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社会保険庁・ポーランド海洋ライン・グディニャ市役所のオフィスビル。写真:Sebastian Góra/Getty Images
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現在「2月10日(10 Lutego)通り」という名を持つ、この新しい街のメインストリート沿いに、1935年から1936年にかけて社会保険庁(Zakład Ubezpieczeń Społecznych, ZUS)の拠点が建設された。独立回復後に再生しつつあった国家において、住民の将来を保障する役割を担うこの機関には、それにふさわしい立派な拠点が必要とされていた。7階建てのこの建物は「L」字型の平面図に基づき、2つの通りの交差点に建てられた。設計を担当した建築家のロマン・ピョトロフスキ(Roman Piotrowski, 1895-1988)は、大変意識的にこの立地を活用した。角部分をこの建物の目印としたのだった。高く、すらりと伸び、丸みを帯び、均等な窓の帯が貫くその姿は、波を裂いて走っていく船の船尾を連想させる。しかもその効果は意図的に生み出されたものであった。蒸気と電気の時代の産物である、船舶や軍艦の造船にインスピレーションを得たこの種のモダニズムが、グディニャでは特に好んで採用されていたのである。ガラス張りで、わずかに切り込まれた1階部分は、堂々とした建物に軽やかさを与え、白い外壁がその近代的な側面を際立たせている。第二次世界大戦後、この建物にはポーランド海洋ライン(Polskie Linie Oceaniczne, PLO)の本社が置かれていたが、現在はグディニャ市役所の一部、市観光案内所、およびグディニャ起業支援センターが入っている。
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ポーランド開発銀行(BGK)年金基金住宅。写真:Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Poland
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これは、戦間期にグディニャで建設された最大の住居用建築物である。ポーランド開発銀行(Bank Gospodarstwa Krajowego = BGK)年金基金住宅は、この新都市で切実に必要とされていた公務員たちのことを考えて建設された。1935年から1938年にかけて建築家スタニスワフ・ジョウォフスキ(Stanisław Ziołowski, 1892-1940)の設計に基づき建設されたこの住宅には、当時最先端の鉄筋コンクリート構造が採用された。しかし、建物のスタイリッシュさと優雅さを際立たせるため、外壁はポーランド南部のピンチュフ(Pińczów)産石灰岩のパネルと高級な漆喰で仕上げられた。今日でも、その内部にはこれと引けを取らないほどの豪華な素材が見られる。すなわち、テラコッタの床、大理石の壁面仕上げ、石造りの手すり、オーク材の寄木張り床、真鍮製のドアノブなどが現存しているのである。この巨大な建物(長い方の外壁は全長90メートルにも及ぶ)は、豪華なマンションへと生まれ変わり、専用の地下駐車場さえ備えていたが、飾り立てた都市型宮殿を模倣したものではなかった。厳かで、細部が省かれたシルエットをしており、モダニズムの簡素さの中にも、高級感あふれる表現が可能であることを証明している。
ポーランド船乗りの家(Dom Żeglarza Polskiego)
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ポーランド船乗りの家、グディニャ海洋大学航海学部。写真:Konrad Maćkowiak/https://www.gdynia.pl
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グディニャは当初から港湾都市であったので、海に関連する施設が建設されたのも不思議ではなかった。南桟橋(Molo Południowe)の中心部、その水辺に建つ「船乗りの家(Dom Żeglarza)」は、ポーランドセーリング界の中心となるはずだった。ここには会議室、クラブ室、屋内プールが備わっていた。この近代的なモダニズム様式の建物は、1938年から1939年にかけて建築・都市計画エンジニアのボフダン・ダミェンツキ(Bohdan Damięcki, 1906-1994)と建築家のタデウシュ・シェチュコフスキ(Tadeusz Sieczkowski, 1907-1973)によって設計され、船舶を彷彿とさせる形が取り入れられた。建築家たちがこの建物の目印としたのは、テラスとひさしで覆われ、丸みを帯びた出窓だった。それは船上の船橋を思わせた。第二次世界大戦の勃発により、この建物を発案した者たちの計画は頓挫し、船員たちがここに引っ越すことは叶わなかった。現在、この建物はグディニャ海洋大学航海学部の本館となっている。1970年代にはプラネタリウム棟が併設された。
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海の駅、現在は移民博物館。写真:Leszek Żurek/Muzeum Emigracji w Gdyni
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グディニャの港は、主に貨物港として建設されたものの、当初から旅客輸送の機能も兼ね備えていた。旅客の中には移民、つまり他国に移住するために祖国を離れるポーランド人(1918年から1938年の間に、200万人以上の人々がポーランドを離れた)も含まれていた。アメリカ合衆国や南米諸国へ向かうことを許可された大西洋横断客船がここに停泊していたのである。そこで、海路を旅する人々のために、港の桟橋近くに駅が建設された。1933年12月8日、盛大に開業式が行われ、この式典には政治家で、外交官でもあったユゼフ・ベック(Józef Beck, 1894-1944)将軍やフェルディナント・ザジツキ(Ferdynand Zarzycki, 1888-1958)産業・通商大臣らが出席した。建物の設計は、ベルリンの工学事務所「ディッカーホフ&ヴィトマン(Dyckerhoff & Widmann)」のカトヴィツェ支社が手掛けた。建築家たちは鉄筋コンクリート構造を採用し、正面には広大な3階建ての旅客ロビーを、その奥には、いわゆる「トランジット倉庫」と呼ばれる細長い建物(これは一連の小さな区画に分割され、各区画はそれぞれ独立した樽型の屋根で覆われている)を設計した。戦間期、「海の駅」は船舶の乗客に利用されていたが、第二次世界大戦後はその機能を失い、港湾管理局(Kapitanat Portu)などがここに入っていた。そして2015年、「海の駅」の建物内に移民博物館(Muzeum Emigracji)が開館した。
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グディニャの地方裁判所庁舎。写真:Ewa Jaros/Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Poland
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行政機関や主要な官公庁の拠点 ―― それは、地域社会が機能するのに不可欠な建造物であるというだけでなく、都市の個性を形作り、その格を高める代表的な建物でもある。1936年、グディニャに地方裁判所の建物が完成した。建築家のズビグニェフ・カルピンスキ(Zbigniew Karpiński, 1906-1983)、タデウシュ・シェチュコフスキ、ロマン・ソウティンスキ(Roman Sołtyński, 1907-2006)により設計されたものだ。近代的なイメージを築き上げようとしていたこの街にふさわしく、この建物も当時としては斬新な形をしていた。司法関連の建築物の場合、今日に至るまで、一般的に厳粛さや威厳を連想させる、列柱や壮大なポルチコ(訳註:建物の玄関に設置された、屋根付きの回廊)、重厚なコーニス(訳註:壁の上部に見られる帯状の突出した装飾)といった古典的な建築要素が取り除かれることはめったにない。グディニャの裁判所を設計した建築家たちは、勇気があった。それ相応に、堂々とした建物を創り上げたが、その印象はむしろ、調和のとれたプロポーションと、細部を排した厳格なフォルムによってもたらされるものだったのだから。建物の主棟は円弧状の平面図に基づいて設計され、細く高い帯状の窓が穿たれた出窓によって、入口部分のみが強調されている。この前衛的な建物は、当時ポーランドで建設されていた、裁判所と同様の機能を果たす他の建造物と比較して、その近代的なシルエットで際立っていた。
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ポーランド郵便局、グディニャ。写真:Łukasz Dejnarowicz/Forum
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郵便・電信局(現在の中央郵便局(Poczta Główna))もまた、住民にとっても、近代的な都市のイメージを形作る上でも、欠かせない公共建築物の一つである。この建物にもモダニズム的な幾何学が採用されているが、ここでは直角が基調となっている(角が丸みを帯びたグディニャの多くの建物とは対照的だ)。1928年から1929年にかけて建設されたこの建物は、ワルシャワ出身の建築家ユリアン・プテルマン=サドウォフスキ(Julian Puterman-Sadłowski, 1892-1953)の作品であり、同じく建築家のアントニ・ミシェフスキ(Antoni Miszewski, 1891-1957)が協力して造られた。2つの通りが交差するところに位置するこの建物は、当初、高さの異なる2つの棟から構成されていた。その重厚さと荒々しい形状は、特徴的な、密に配置された窓の格子を持つ巨大なガラス面によって和らげられていた。1938年には、郵便局の低い方の棟の上に2階分が増築され、もう一方の棟と同じ高さになった。
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鉄道駅、グディニャ、1929年。写真:Biblioteka Narodowa Polona
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グディニャで最初の鉄道駅は、既に1926年には利用できるようになっていた。当時、鉄道は最も重要な交通手段であり、全国から大勢の新しい住民を惹きつけていたこの街の発展に欠かせないものであった。この駅を設計したのは、建築家のロムアルト・ミレル(Romuald Miller, 1882-1945)。ミレルは1918年からポーランド国鉄(Polskie Koleje Państwowe, PKP)ワルシャワ支局の建設部長を務め、多くの駅舎を設計した人物でもある。同建築家は自身の設計において、とりわけ邸宅様式を好んで採用していた。それは、国民的建築様式とみなされるこの様式が、通常規模は小さいものの、大きな意義を持つ建造物に特に適しているという考えに基づいていたからだ。そして、新しくできたこの街の駅にも同様の様式を取り入れた。彼自身の言葉によれば、グディニャ駅の形にはカシューブ地方の建築から得たインスピレーションが込められているということだ。
鉄道駅、グディニャ中央駅(Gdynia Główna)。写真:Dominik Sadowski/AW
しかし、この駅舎は第二次世界大戦中に破壊されてしまった。戦後すぐに仮設的な形で再建されたものの、1950年から1955年にかけて新しい建物に建て替えられた。その設計を担当したのは建築家のヴァツワフ・トマシェフスキ(Wacław Tomaszewski, 1884-1969)だった。当時は社会主義リアリズムの教義が義務付けられていたにもかかわらず、この建築家は建物の形態にモダニズムに由来する多くの要素を取り入れることに成功した。2010年から2012年にかけての改修工事の際、長年の間忘れられていた、稀に見る1950年代の建築物の宝が発見された。それはその内装だ。修復されたのは、天井や壁面を彩る大判の壁画、そして木や石でできた細部装飾などである。
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マーケットホール複合施設、グディニャ。写真:Bartosz Bańka/AW
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1936年から1938年にかけて、グディニャに商業複合施設が建設された。市営マーケットホールを設計したのは、建築家のイェジィ・ミュレル(Jerzy Müller, 1889-1963)とステファン・ライヒマン(Stefan Reychman, 1908-1939)で、ここでその技術力が発揮された。メインホールの構造は、高さ18メートル、スパン(支点間距離)35メートルの鉄筋コンクリート製のアーチでできており、その間にはガラス張りの屋根が架けられた。この技術的に極めて革新的な作品は、新聞で大々的に報じられた。鉄筋コンクリートという新しい素材を巧みに活用したその技術だけでなく、売り手と買い手双方のニーズに合わせて設計された、施設の機能的な設計図も高く評価されたのだった。
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グディニャにあるYMCAの建物。写真:https://www.gdynia.pl
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キリスト教青年会(Young Men’s Christian Association, YMCA) ―― この国際的な組織は、当初は若い男性のみを集め、その青少年の育成・教育活動を行なっており、1923年にポーランド支部を開設した。その初代名誉会員には、ポーランド初代国家元首ユゼフ・ピウスツキ(Józef Piłsudski, 1867-1935)元帥が就任した。組織の発展に伴い、ポーランドのYMCAは各地に支部を建設し始めた。 ―― 最初にワルシャワに、次いでウッチに設立された。グディニャにYMCAの建物が建設されたのは、ようやく1948年になってからのことだったが、その形は戦前に市内を圧倒していたモダニズム様式との関連性を保ったものとなった。設計を担当したのは建築家のステファン・コジンスキ(Stefan Koziński, 1902-1976)と「船乗りの家」を設計したボフダン・ダミェンツキである。この建物は、国際組織によって課された一連の基準を満たさなければならなかったものの、切り取られ、細い柱の上に持ち上げられた角部分や、ガラスブロックでできた壁といった、独創的な外観を作り出した。そのファサードは、斜めに積み上げられたレンガによって作られた細部や、船の舷窓を思わせる丸い窓に彩りを添えている。
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プレンチュコフスキ家のカミェニツァ(Kamienica Pręczkowskiego)、グディニャ。写真:Jerzy Ochoński/PAP
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1920年代から30年代にかけて、近代的で斬新とも言える公共建築が建ち並ぶ一方で、グディニャの街並みには、市民階級の家々、賃貸のカミェニツァ(kamienica、石造りの共同住宅)、海運業者や商人の邸宅が次々と現れ始めた。所有者たちはそれぞれ出自が異なっていたものの、建造物という投資においては皆一貫してモダニズム様式を取り入れていた。この近代的な潮流は、民間建築においてもこの街のシンボルとなった。
アルビンとマリアンナ・オルウォフスキ夫妻のカミェニツァ。写真:Jerzy Ochoński/PAP
ポーランド木材輸出庁(Polska Agencja Eksportu Drewna, Paged)の代表的なオフィス兼住宅用カミェニツァ、アルビンとマリアンナ・オルウォフスキ夫妻(Albin Orłowski, Marianna Orłowska)所有の豪華なカミェニツァ兼デパート「ボン・マルシェ(Bon Marche)」、エンジニアであったスタニスワフ・プレンチュコフスキ(Stanisław Pręczkowski)のために建てられた壮大な6階建ての住居、商人であったイズラエル・ライヒ(Izrael Reich)とヴォルフ・ビルンバウム(Wolf Birnbaum)、弁護士アントニ・オゴンチク=ブロフ(Antoni Ogończyk-Bloch)、木材業界の実業家マリアン・クレンスキ(Marian Krenski)らのカミェニツァを始め、グディニャにあるその他多くの、大抵は豪華な都市型住宅は、全てモダニズム様式に保たれていた。幾何学的な形状、平らな屋根、水平に並ぶ窓の帯、丸みを帯びた角、時に波打つような形状のバルコニー、あるいは店舗が入る1階部分を支える石柱 ―― これらは、グディニャの裕福な新興市民のために働く建築家たちが、様々なバリエーションを加えて用いたモチーフの一式なのである。
執筆:アンナ・ツィメル(Anna Cymer)、2026年2月7日、最終更新:2026年2月9日
日本語訳:スプリスガルト友美(Tomomi Splisgart)