ウクライナの魂をめぐる戦争
モスクワ当局は、ロシア人とウクライナ人は同じ民族に属していると主張している。キーウはこれに対し、同じ文明にさえ属していないと答えている。
アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンは、大きな反響を呼んだ著書『文明の衝突』(1996年)のなかで、共産主義崩壊後、世界で支配的となる新たな紛争は、冷戦時代のようなイデオロギーにではなく、文明に基づくものになると論じた。長期的に見れば、文明的にハイブリッドな国家は存在できないとも主張した。これは二つの文明モデルに内部から引き裂かれている国々を意味していた。かれによると、これらの国々は二つに分裂するか、どちらかの側につくことになる。
著書のなかで、このようなハイブリッドの例を二つ挙げている。一つ目はトルコだ。そこでは政治家、軍人、知識人のエリートたちが世俗化・西側化した一方で、人口の大多数は主に田舎に住み、宗教性の高い生活を送っていた。前者のグループは西側文明を代表し、後者のグループはイスラム教を代表している。ハンチントンは、この状態は長くは維持できないとした。政治学者の予想は的中し、レジェップ・エルドアン大統領の指導の下、トルコはケマル・アタテュルクが築いた世俗的な国家モデルを放棄し、イスラムのルーツへ回帰したのである。
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サミュエル・ハンチントン、写真:Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0
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二つ目の例がウクライナであった。ハンチントンは、二つの異なる文明モデルに同時に基づく国家を建てることは不可能であるから、ウクライナは近いうちに戦略的選択を迫られることになるだろうと述べた。政治評論家たちが「二つのウクライナ」について書いていた時代である。つまり、西側の、国家意識が高く反共産主義のウクライナと、東側の、ロシア化・ソビエト化したウクライナだ。しかしハンチントンは、民族・言語・体制という表面的な区分の下には、もっと深い文明的な区分があると考えていた。かれによれば、ウクライナは西側文明と正教会文明に分裂していたという。しかしそれは、本当に正確な区分なのだろうか。
ジョチ・ウルスの継承者――大トゥーラーンの影
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《ルーシの洗礼》Petro Andrusiv画、写真:Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
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ハンチントンから遡ること100年前、ポーランドの歴史家フェリクス・コネチュヌィ(コネチュニ)(Feliks Koneczny)もまた世界を文明に区分していた。当時、ウクライナはヨーロッパの地図上になかった。その土地は、西部はオーストリア・ハンガリー帝国、東部はロシア帝国の領土になっていた。コネチュヌィによると、前者はラテン文明に、後者はトゥーラーン文明に属するという。ロシアのトゥーラーン性とは何を意味するのだろうか。
それは、1240年から1480年までの240年間、モスクワ大公国(モスクワ・ルーシ)がモンゴル・タタールの支配下にあり、この出来事が永続的な影響を残したことを指している。モスクワ大公国は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)から政治・社会の構造と仕組み、特に体制の概念や統治モデルを引き継いだ。これらは、東ローマ帝国のものとは似ておらず、むしろアジアのサトラップに近い。権力・法・所有に対する考え方がとりわけ特徴的だった。
モスクワ大公国が採用したモンゴルモデルでは、権力者(ハーン、ツァーリ、党書記長、大統領)は絶対的な支配者であり、国家のあらゆる物と人の所有者である。どんな法にも縛られないばかりか、支配者の意志が法になる。
この文明の掟は、深く内面化され、日常の言葉にも反映されている。ロシア語には、たとえば「私の名前は…(私は…と名乗っている)」「私は…を持っている」「私は…する必要がある」といった言葉がない。その代わりに「меня зовут(直訳:かれらが私を…と呼ぶ)」「у меня есть(直訳:私のところに…がある)」「мне нада(直訳:私は…を与えられた)」という言い方をする。つまり語源にこだわるなら、アイデンティティ・所有・意志の主体は個人ではなく、それを上から与える誰かということになる。なにしろ、ロシア語には「プライバシー」という言葉がない。存在しない領域を表す言葉を使うのは困難だからである。
ルーシの統一――キーウをめぐる戦い
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《ルブリン合同》ヤン・マテイコ画、1869、写真:Wikimedia Commons
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コネチュヌィがトゥーラーン文明と名づけたこのアジアの文明モデルは、モスクワ大公国に引き継がれた。この国はやがて、当時ルーシと呼ばれていた他の国々を征服し始めた。ルーシとは、正教会を信仰する東スラブ人が多く住む領土を意味した。キリスト教化の初めから、この地域の中心はキーウ・ルーシ(キエフ大公国)であった。というのも、988年にキーウでウラジーミル1世大公が洗礼を受け、ルーシにキリスト教が国教として導入されたからである(ルーシの洗礼)。
しかし、11世紀には地域の分裂が起こり、ノヴゴロド、ロストフ、スーズダリ、ポラツク、チェルニーヒウ、ハールィチ、ウラジーミルなどの都市を中心とする多くの国が誕生した。それらの一部は、独自の政治体制を持っていた。たとえば、ノヴゴロドは商人共和国だった。また支配者のなかには、ラテン世界に接近し、カトリックと教会連合を結ぼうとする者もいた。たとえばルーシの王でハールィチ・ヴォルィーニ大公ダヌィーロ1世は、ローマ教皇インノケンティウス4世から戴冠を受けている。
キーウ府主教区が最も栄えていた頃、現在のモスクワには沼地と森が広がっていた。しかし、1240年のモンゴルの侵攻はキーウ大公国を完全に破壊し、その勢力を奪った。この打撃の後、国が復興することはなかった。
この状況を利用したのが、モスクワ・ルーシ(モスクワ公国)だった。この国は12世紀に成立したばかりだったが、ジョチ・ウルスに取り入り、その権威を認めることで支持を得ることに成功した。
14世紀、モスクワ・ルーシは東スラブ地域の中心勢力となり、すべてのルーシの地を統合しようとした。それは、段階的な征服という手段で行われた。征服した土地は、統治するだけではなく、支配者を絶対君主とするツァーリズム体制下に置いた。キーウがルーシ発祥の地である以上、この都市抜きには完全な統一はありえなかった。ロシア帝国の首都は、モスクワやペテルブルクなどさまざまでありえたが、「宗教地理学」的な中心地はたったひとつ、「すべてのルーシ都市の母」、キーウだったのだ。
そしてキーウこそが、何世紀にもわたって、モスクワとその文明モデルに対抗しうる唯一の真の別の可能性になった。
東と西の狭間――引き裂かれた国
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ウクライナ大飢饉、ハルキウ、1932、写真:Alexander Wienerberger / Wikimedia Commons
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複数の学者によれば、歴史的連続性を欠いたウクライナの歴史は、パリンプセストのようだという。つまり、さまざまな(互いに隔たっていることもある)歴史的時代のテキストが重なり、層になった写本のようだと。そのなかでも特に目立っているのが、キーウ大公国、コサックのヘーチマン国家、そして20世紀のウクライナだ。それぞれの主体はモスクワに対抗し、モスクワとは異なる別個の文明的理念を代表していた。それにはビザンティン文化、コサックの自由、直接民主主義、地方自治、代議制などがあった。
このモスクワとの対立には、同じくモスクワと激しく衝突していたリトアニアとポーランドも巻き込まれている。ポーランドの歴史家アンジェイ・ノヴァク(Andrzej Nowak)教授は以下のように指摘している。
カジミェシュ大王は現在のウクライナ西部領を継承し、ポーランド王国(王冠領)の国境を東にずらした。しかし、この文脈でさらに重要なことは、ポーランド・リトアニア合同がもたらした影響である。というのも、リトアニアはルーシ西部の大部分、すなわち事実上、現在のウクライナ領の大部分とベラルーシ領全体を編入したのである。ポーランド・リトアニア合同の結果、これらの土地はその後数世紀の間、西側諸国の強い影響を受けるとともに、ポーランド特有の政治的・市民的自由文化の影響下に置かれることになった。もちろん、ウクライナはこれを独自に発展させた。注意したいのは、コサックの自由は、共和国のシュラフタ(貴族)の自由とは同じではなかっただろうということだ。しかし、コサックの政治共同体の最も重要なアイデンティティであった「自由」に言及することは、非常に重要である。
19世紀、ヨーロッパで近代国家の概念が形成されつつあった頃、ウクライナ領は二つの強国の間で引き裂かれていた。西部は、オーストリアがヴォルィーニ、ポジーリャ、最大の都市リヴィウがあるガリツィア(ハルィチナー)を占領していた。さらに州都ウージュホロドがあるザカルパッチャ、州都チェルニウツィーを含むブコヴィナも支配していた。この地域の主な宗教は、ローマ教皇を首長とするギリシャ・カトリックであった。一方、東部はツァーリ専制の支配下にあり、ロシアに従属する正教会が主流であった。このように二つの方向から、二つの文明の影響が浸透していた。つまり、西側文明とトゥーラーン文明である(フェリクス・コネチュヌィの定義による)。
第一次世界大戦を経ても、この点では大きな変化がなかった。オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊後、現在の西ウクライナの土地はポーランド共和国に組み込まれ、引き続き西側文化の影響を受けることになった。一方、東ウクライナは、さらに過酷な、全体主義的な専制の支配下に置かれた。ロシア支配の次の段階は共産主義となり、ホロドモール(人為的な大飢饉)やエリートの大量殺戮など、ウクライナ人に対するジェノサイドの犯罪が実行された。ソ連当局の目的は、これらの土地を無条件に征服するだけでなく、新しい人間「ソビエト人」(homo sovieticus)、もっと言えば、これまでの文明的・文化的・宗教的アイデンティティを抹消した新しい民族を作ることであった。
ウクライナ人は自由を選ぶ――ツァーリズムの終焉
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オレンジ革命、2004年11月29日、写真:Maciej Jeziorek / Forum
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第二次世界大戦後、ウクライナの全領土がソビエト連邦に取り込まれると、多くの専門家は、ウクライナ人のロシア化・ソビエト化は避けられないだろうと予想した。全体主義国家のローラーで押しつぶされ、自分たちの圧制者と似た姿に作り変えられてしまうだろうと。公式の見解では、ウクライナ国民というものは存在せず、実際はロシアという巨大な勢力の一部だとされた。ウクライナ人は「小ロシア人」つまり、ある種の地域的な差異や独自の方言、独特のフォークロアをもったロシア人とされたのである。
こうしたことが、一方ではウクライナ人に劣等感を、他方ではロシア人にウクライナ人に対する優越感を生んだ。ソ連時代には、ウクライナ語を使うことは、社交マナーの欠落、不作法、教養のなさとして扱われた。逆に、ロシア語を話すことは高尚なことであり、より高位の知識人階級に属していることの証となった。
このような政治的・文化的圧力の下では、ウクライナ人は、ロシア勢力に取り込まれてしまうと思われた。しかし、多くの政治家や政治学者が予想したよりも、ウクライナ人は大きな抵抗力とバイタリティを備えていた。
1991年にソビエト連邦が崩壊し、ウクライナの独立が宣言された。当時のジャーナリストたちは、ウクライナは二つに分裂していると書いた。わずか6つの地域と人口の17%から成る小さく不十分な西部と、国のその他すべてを含む広大な東部である(この二つの領域の境界は、1939年のソ連の国境と一致していた)。
2005年のオレンジ革命後には、まだ「二つのウクライナ」について書かれていたが、その大きさと形は変化していた。東西の境界線は大幅に東に移動し、おおよそドニエプル川に沿い、18世紀のポーランドとロシアの国境線とほぼ重なっていた。
2014年の尊厳の革命(マイダン革命)後にも、「二つのウクライナ」についてのテキストは見られたが、東西の割合はすでに1991年とは逆になっていた。ロシア化した東部は主にドンバスまでにとどまり、それ以外のドニプロ、オデッサ、ポルタヴァ、ザポロージャ、ヘルソン、ハルキウ、チェルニーヒウ等の都市を含む国の残りの部分は西の文明の側についていた。
現在のウクライナでの戦争は、このプロセスを完了すると見られている。ロシア戦車がなければ維持できないユーラシアモデルの政治文化やそれに付随する政治体制に対して、国全体で大規模な拒否反応が起こっている。いま、1996年のサミュエル・ハンチントンの予想が現実のものとなりつつある。ウクライナ人は、ツァーリズムではなく、自由を選んでいる。
執筆:グジェゴシュ・ゴルニー(Grzegorz Górny)、2022年3月
日本語訳:YA、パヴェウ・パフチャレク(Paweł Pachciarek)2022年4月