アーカイヴに抗う/戯れる
レフチンスキは、誰にも知られることのない群衆、悲嘆にくれ、行方もわからぬ人々のなかにこそ、人間の本当の努力はうかがい知ることができると考えて、持ち主や写っている人もわからなくなった未詳のポートレイトをアーカイヴに集め、作品によく取り入れた。「ニサ、1945ー我々の引き伸ばし」(1971年)では、屋根にまで人が溢れた電車の写真から、人の顔、身振りを抽出し、引き伸ばして電車の周りにコラージュし、電車に群がる「群衆」を、一人一人の存在として浮き上がらせている。撮影者もわからない昔の写真に新たな光(文字通りに引き伸ばし機からの物理的な光でもある)を当てることで、名もなき者たちが匿名性のもとに葬り去られることに抗い、その声を救い上げ、復権を図ろうとする。
一方で、レフチンスキは個人を「市民」や「労働者」として登録、管理するアーカイヴのもつ権力性には抵抗していた。代表作である「ヴァヴェルの頭部」(1959)シリーズは、顔をシャベルで隠した労働者を写したもので、労働者を顔写真とともにナンバリングしていく社会主義システムや、特定の労働者を英雄として祭りあげ、プロパガンダとして利用する政府への批判が込められている。
また、アトリエに保管されたアーカイヴも、システム化されたアーカイヴ的理性とは縁遠いもので、年代順による整理はもちろん、作品と資料の区別もなく、自分が写した写真の他に、ファウンド・フォトや、録音、様々な紙資料が一緒になって山と積まれていた。オリジナルプリントが他のプリントより上位におかれることもなく、写真は必要に応じてカメラで複写されたり、コピー機で複製される。レフチンスキにとって写真は「作品」というよりは「イメージ」であり、だからこそ、どんな人も自由に所有することができる民主的なメディアであった。それらは必要に応じて場所を入れ替え、付け加えられ、時間をかけて生成変化する。
こうしたレフチンスキの考えに共鳴し、作品を制作しているのが前述のクシシュトフ・ピヤルスキだ。ピヤルスキは晩年のレフチンスキと親交を結び、グリヴィツェのアトリエを幾度も訪れている。アトリエでの対話のなかで、レフチンスキはアーカイヴから自在に写真や資料を取り出し、対話を進める。資料体はその都度、新たな文脈のなかに位置づけられ、意味を変え、読み直される。ピヤルスキは、そうした体験をもとに、レフチンスキのアーカイヴから自由に写真を選び、複写、プリントする。そして、アビ・バールブルクの連想的思考の可能性に賭した「ムネモシュネ・アトラス」の試みのように、テーマに応じた12枚のパネルを制作し、「JL-KP / アーカイヴで戯れる」(2011)として発表した。
ピヤルスキは写真の選定にあたり、顔の問題を重要視している。レフチンスキは名もなき顔にいかに応答するかを問い続けながら、自身のポートレイトも数多く撮影していた。ナポレオンを真似た顔、ライオンの銅像の顔の部分に自分の顔をコラージュした写真、フォトグラムで作った顔に向き合う姿、おどけた表情など、ピヤルスキはレフチンスキのセルフポートレイトを中心に、作品「ヴァヴェルの頭部」や、銅像の顔をシャベルで隠した写真、吹き出物で顔が覆われた昔の医学写真、デモや祭典に集まる群衆、英雄の銅像などの写真を、明らかに複写とわかるような形でプリントし、モンタージュしている。それらのイメージは相互にゆるやかな連関をもちながら、ポリフォニックな声をあげる。個人を特定する顔とは何か、自と他の違い、統制された肉体と自由な身体の違いはどこにあるのか、記念碑や公共彫刻の役割は何かなど、幾通りもの読みと問いを投げかけている。
ピヤルスキはレフチンスキの仕事を、真剣で、ユーモアに富んだ、創造的で、パフォーマティブな写真ゲームのようなものだと評価する。そして、彼のアーカイヴに向き合うには、自分も同じような態度でのぞむ必要があると考える。ピヤルスキはアーカイヴと真剣に戯れながら、レフチンスキ自身も意図しなかったような独自の方法で、写真をパネルにモンタージュし、レフチンスキの唱える写真の考古学へと一歩を踏み出す。
ジョルジュ・ディディ=ユベルマンはモンタージュについてこう記していた。
「モンタージュは、除去することによって、言い換えるならば、空白、中断、間隙を創出しながら進められ、そうした空白、中断、間隙が、開かれた道として、人間の歴史や事象の配置についての新たな思考法へと向かう道として機能することになる。」(7)
ピヤルスキの試みも、レフチンスキのアーカイヴをモンタージュし、イメージの間に間隙を創出することで、その配置についての新たな思考を見るものに誘う。アーカイヴはいつも新たな息をふきこまれ、読み解かれることを待っているのだ。