写真の考古学イェジィ・レフチンスキを巡って
ポーランドの現代写真家について、ワルシャワで調査する機会が2年前にあった(1)。そのときに繰り返し耳にした名前がイェジィ・レフチンスキ。
イェジィ・レフチンスキ(Jerzy Lewczyński、1924-2014)とは誰か
ポーランド語の名前に馴染みのない私にとっては呪文のような響きで、はじめはそれが同一の人物を指していることさえわからなかった。次第にそれがポーランドを訪れる前に目にしていたカタログ(2)にも出ていた写真家であることは理解できたものの、複数の文脈のなかで立ち上がっては消えていく彼の名から、一つの像を結ぶことは難しい。彼には様々な顔があるようだった。
最初にその名に出くわしたのは、アシメトリア・ギャラリーで行われていた展覧会「ポーランド写真のネオリアリズム1950-1970/脱構築」(3)。この展覧会は1950年代にシレジア地方のグリヴィツェで活動していたグリヴィツェ写真ソサエティーのメンバーたちの写真を、イタリアの「ネオリアリズム」との関係から読み解いたもので、レフチンスキはこのソサエティーの中心メンバーだった。壁に映ずる光と影のなす形を、コントラストの強い、象徴的とも構成的ともいえるような形で写した写真や、暗い影となった天使像。1968年にポーランドでも展覧会が開催され、大きな影響を与えたというオットー・シュタイナートらの主観主義写真に通じるところもある。アヴァンギャルドとシュルレアリスムの伝統に連なるような、どこか不穏な気配の漂う写真だった。
この展覧会にはソサエティーのメンバーによる当時の写真の他に、現代の写真家が撮影したレフチンスキ亡き後のアトリエの写真があった。写真家のアトリエと聞いて思い浮かべがちなイメージとは違い、棚には資料類が詰まったボックスが並び、学者の書斎を思わせるものだった。聞けば、レフチンスキはポーランド初の写真アンソロジー(4)の編者だという。これは通例のように芸術写真の歴史を年代順に追うのではなく、アマチュアの写真や、コマーシャルフォト、ヌードにいたるまで、ハイ、ローの区別ないイメージを混在させた革新的なもので、掲載写真は彼自身が集めていた写真アーカイヴから選ばれている。そこにはコレクター、研究者としての顔があった。
次にその名前を聞いたのが、写真考古学財団(5)を訪れたとき。2008年に創設されたこの団体は、レフチンスキを含む故人の写真家10人ほどの、作品やアーカイヴの管理・調査を担っている。ポーランド写真史のなかで重要な位置を占めるものの、公共の美術館などでの収蔵は難しく、遺族にも管理しきれない写真家たちのアーカイヴの散逸を防ぐ活動のほか、遺族らの許可を得て、現代アーティストにコミッション作品の制作を依頼し、展覧会を開いたりもしている。管理する作品、アーカイヴをデッドストックとするのではなく、リビング・アーカイヴとして創造的に利用する方法を模索し、ギャラリーや出版物などを通じて積極的に発信していた。この財団の名前の由来がレフチンスキにあるという。「写真考古学」を唱えた理論家としての顔がそこにはあった。
次にまた彼の名前を聞いたのが、若手写真家のアンナ・オルオーヴスカとクシシュトフ・ピヤルスキのアトリエ。両者ともレフチンスキにオマージュを捧げた作品を制作しており、彼をリスペクトする様子がうかがえた。
短い滞在期間にも関わらず、行く先々で名前が挙がる。これほどまでに後世に影響を与えているレフチンスキとは何者だろうか。
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写真の考古学
まずは略歴をあげてみよう。1924年生まれのレフチンスキは、第二次大戦中からアマチュアで写真を撮りはじめ、ピクトリアリスム風の作品を作っていた。1950年代後半から、後に画家として活躍するズジスワフ・ベクシンスキの影響を受け、グリヴィツェ写真ソサエティーの中心メンバーとして、「反写真的」とも評される作品を生む。60年代後半からは、自分が撮影したのではないファウンド・フォトなどに注目を向けはじめ、90年代にその考えを「写真の考古学」と名付ける。レフチンスキの評価を高めることになったのが、ポーランド国内をいくつか巡回した「写真の考古学」展(2005年)と、クラクフ写真月間の一環として開催され、海外でも評価を受けた「イメージの記憶」展(国立クラクフ美術館、2012年)。人生の大半をポーランド西部にあるグリヴィツェで過ごし、2014年に死去。
調べていくなかでわかったのが、写真家、コレクター、研究者、理論家といった、いくつもの顔をもつように思われたレフチンスキだが、60年代後半以降の活動の核には、「写真の考古学」に連なる考えがあることだった。
「写真の考古学」とは何なのだろうか。
レフチンスキは「写真の考古学」について、こう記している。
「写真の考古学は、いわゆる「写真的過去」に起こった出来事、事実、状況について発見、調査、解説することを目的とした行為である。」(6)
レフチンスキが「写真の考古学」という言葉を使いはじめたのは晩年の90年代だが、60年代後半から、歴史、記憶の問題に意識的に目を向け、古いネガを集め、現像し、忘れられた人々、出来事、場所の記憶を再発見しようとする試みを続けていた。
「考古学」と聞くと、ミシェル・フーコーが頭に浮かぶ。フーコーは「知の考古学」(1969年、ポーランド語版は1977年)を世に出す10数年前、国内外を移動しながら多産な執筆活動を行っており、58年にはワルシャワ大学に職を得て、ポーランドにも短期間ながら滞在している。当時からグリヴィツェを拠点に活動していたレフチンスキとは直接的な接点はなかったようだが、その名前からしても「写真の考古学」は「知の考古学」を下敷きにしていると考えるのが順当だろう。フーコーが「知の考古学」で、資料の集積体としてのアーカイヴから一つの起源や秩序を導き出すのではなく、それらを縦横に横断することで、表立っては現れていない社会や文化の無意識的な構造を見出そうとしたように、レフチンスキもまた昔の写真をもとに、そこから一つの真実ではなく、複数の声を引き出そうとしている。
レフチンスキが昔の写真を用いはじめた頃の作品に「屋根裏で見つかったトリプティク」(1971年)がある。知人の家族が住む家の屋根裏で見つかったガラスネガに写る、おそらく大戦前にはすでに亡くなっていたと思われるユダヤ人の女性三人のポートレイト。彼女たちの来歴を調べようにも、目ぼしい資料も見つからない。レフチンスキはこの三人をネガからプリントし、トリプティックとして提示した。そして、それだけでは満足いかず、名前もわからない彼女たちの、光によって留められた存在の証に近づくため、同じネガを使って何度も違うバージョンの写真を作る。眼のクローズアップを経て、写真の粒子に拡散するまでに引き伸ばされたプリント。レフチンスキは写真を通していかに彼女たちを再発見し、関係をもつことができるのかを問いつづけた。
レフチンスキがファウンド・フォトを用いはじめたのは、コンセプチュアル・アートの文脈で写真がとりこまれはじめた時期とも重なる。だが、写真の社会的参照性をアプロープリエーションやサンプリングの手法で作品にとりこんだコンセプチュアル・アートとは違い、彼はあくまでも写真に写された人物や事象に対する「人間的な関心」をもとに写真に向き合おうとした。それは、アラン・セクーラが再創案しようとしたドキュメンタリー、抑圧され、搾取されている人々の多声的な証言に耳を傾けようとしたアーカイヴ論に通じるところがあるだろう。セクーラは写真イメージに内在する意味の自立性の神話を否定し、どんな写真にも時間的、文化的、社会的といった複数の文脈が合わさって生まれる「影のアーカイヴ」があると考えていた。レフチンスキが試みたのも、時に持ち主もわからず遺された写真の背後に潜む記憶や意味、出来事をできるかぎり救い上げ、たとえ事実がわからなかったとしても、そこにある写真を介して事物を再発見したり、別のイメージとの接合による新たな意味の到来を図ることだった。写真という物的資料があることによって、はじめて存立しうる意味作用がある。そうした両者の創造的な「交通」を図ることが、写真の考古学でも試みられている。
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アーカイヴに抗う/戯れる
レフチンスキは、誰にも知られることのない群衆、悲嘆にくれ、行方もわからぬ人々のなかにこそ、人間の本当の努力はうかがい知ることができると考えて、持ち主や写っている人もわからなくなった未詳のポートレイトをアーカイヴに集め、作品によく取り入れた。「ニサ、1945ー我々の引き伸ばし」(1971年)では、屋根にまで人が溢れた電車の写真から、人の顔、身振りを抽出し、引き伸ばして電車の周りにコラージュし、電車に群がる「群衆」を、一人一人の存在として浮き上がらせている。撮影者もわからない昔の写真に新たな光(文字通りに引き伸ばし機からの物理的な光でもある)を当てることで、名もなき者たちが匿名性のもとに葬り去られることに抗い、その声を救い上げ、復権を図ろうとする。
一方で、レフチンスキは個人を「市民」や「労働者」として登録、管理するアーカイヴのもつ権力性には抵抗していた。代表作である「ヴァヴェルの頭部」(1959)シリーズは、顔をシャベルで隠した労働者を写したもので、労働者を顔写真とともにナンバリングしていく社会主義システムや、特定の労働者を英雄として祭りあげ、プロパガンダとして利用する政府への批判が込められている。
また、アトリエに保管されたアーカイヴも、システム化されたアーカイヴ的理性とは縁遠いもので、年代順による整理はもちろん、作品と資料の区別もなく、自分が写した写真の他に、ファウンド・フォトや、録音、様々な紙資料が一緒になって山と積まれていた。オリジナルプリントが他のプリントより上位におかれることもなく、写真は必要に応じてカメラで複写されたり、コピー機で複製される。レフチンスキにとって写真は「作品」というよりは「イメージ」であり、だからこそ、どんな人も自由に所有することができる民主的なメディアであった。それらは必要に応じて場所を入れ替え、付け加えられ、時間をかけて生成変化する。
こうしたレフチンスキの考えに共鳴し、作品を制作しているのが前述のクシシュトフ・ピヤルスキだ。ピヤルスキは晩年のレフチンスキと親交を結び、グリヴィツェのアトリエを幾度も訪れている。アトリエでの対話のなかで、レフチンスキはアーカイヴから自在に写真や資料を取り出し、対話を進める。資料体はその都度、新たな文脈のなかに位置づけられ、意味を変え、読み直される。ピヤルスキは、そうした体験をもとに、レフチンスキのアーカイヴから自由に写真を選び、複写、プリントする。そして、アビ・バールブルクの連想的思考の可能性に賭した「ムネモシュネ・アトラス」の試みのように、テーマに応じた12枚のパネルを制作し、「JL-KP / アーカイヴで戯れる」(2011)として発表した。
ピヤルスキは写真の選定にあたり、顔の問題を重要視している。レフチンスキは名もなき顔にいかに応答するかを問い続けながら、自身のポートレイトも数多く撮影していた。ナポレオンを真似た顔、ライオンの銅像の顔の部分に自分の顔をコラージュした写真、フォトグラムで作った顔に向き合う姿、おどけた表情など、ピヤルスキはレフチンスキのセルフポートレイトを中心に、作品「ヴァヴェルの頭部」や、銅像の顔をシャベルで隠した写真、吹き出物で顔が覆われた昔の医学写真、デモや祭典に集まる群衆、英雄の銅像などの写真を、明らかに複写とわかるような形でプリントし、モンタージュしている。それらのイメージは相互にゆるやかな連関をもちながら、ポリフォニックな声をあげる。個人を特定する顔とは何か、自と他の違い、統制された肉体と自由な身体の違いはどこにあるのか、記念碑や公共彫刻の役割は何かなど、幾通りもの読みと問いを投げかけている。
ピヤルスキはレフチンスキの仕事を、真剣で、ユーモアに富んだ、創造的で、パフォーマティブな写真ゲームのようなものだと評価する。そして、彼のアーカイヴに向き合うには、自分も同じような態度でのぞむ必要があると考える。ピヤルスキはアーカイヴと真剣に戯れながら、レフチンスキ自身も意図しなかったような独自の方法で、写真をパネルにモンタージュし、レフチンスキの唱える写真の考古学へと一歩を踏み出す。
ジョルジュ・ディディ=ユベルマンはモンタージュについてこう記していた。
「モンタージュは、除去することによって、言い換えるならば、空白、中断、間隙を創出しながら進められ、そうした空白、中断、間隙が、開かれた道として、人間の歴史や事象の配置についての新たな思考法へと向かう道として機能することになる。」(7)
ピヤルスキの試みも、レフチンスキのアーカイヴをモンタージュし、イメージの間に間隙を創出することで、その配置についての新たな思考を見るものに誘う。アーカイヴはいつも新たな息をふきこまれ、読み解かれることを待っているのだ。
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記憶の戸口
レフチンスキを巡って、その様々な顔を見てきた。こうして思うのは、彼の名をこれほど耳にしたのは、それが単に彼個人ではなく、過去に向けられた新たな思考法、埋もれたアーカイヴに差し伸べられた手を指していたからかもしれないということだ。レフチンスキの名がつぶやかれるとき、人は封印された過去、行方もわからぬ人たちに想いを馳せる。
レフチンスキの名がこだまするなか、ワルシャワでは過去を新たな目で読み解こうとする多くの写真家の作品に出会った。
シレジア地方にかつて存在したものの、歴史や記憶から忘れ去られた庭園の路の模型を、昔の地図をもとに制作し、写真にしたアンナ・オルオーヴスカの「生垣迷路(ヴィンクラーの庭)」(2016年)。ヴォイチェフ・ヴィルチクによる、ナチスによって作られた最大規模のユダヤ人収容所であるワルシャワ・ゲットーの跡地を写真に撮りおさめ、今は存在しない場を指し示した「別の都市」(2011-12)や、現在では廃墟になったり、映画館やコミュニティセンターなど別の用途に使われている、以前のシナゴーグや祈祷所を撮影した「無垢な眼などない」(2006-08)シリーズ。共産主義時代に写真家組合から派遣された写真家たちが地方都市を撮影した記録写真と、その現在の状況を対比的に見せたミコワイ・ドゥゴスの写真集『都市の夏』(2016)。時に暴力的な形で塗り替えられてきたワルシャワの歴史を、モニュメントやパブリック彫刻を通じたビジュアル・アルケオロジーとして考察した、ピヤルスキの「神聖でないものたちの生」(2009-12)シリーズなど。それぞれにまったく違ったアプローチをとりながらも、現在と共に在る過去の痕跡を見いだし、提示しようとする作品だ。
レフチンスキが開いた「写真の考古学」という戸口に導かれて、過去を見つめる写真家たちの手探りの活動が、ここ10数年の間に実を結びつつあるように思われた。
大国に翻弄され、幾度となく地理や歴史が上書きされてきたポーランドという国自体が、過去の記憶を細部に宿したアーカイヴとして存在しているともいえるだろう。そして、ポーランドに限らず、すべての場所が種々の記憶を宿している。写真の考古学の試みを、私たちの身近な場所でも、少しずつ実践していければよい。
(初出:芸術批評誌『REAR』41号)
(1)写真の町東川賞海外作家賞リサーチのために訪れ、滞在中はポーランドの国立文化機関であるアダム・ミツキエヴィッチ・インスティテュートにスタディプログラムを組んでもらった。
(2)ポーランド国立ウッチ美術館所蔵「ポーランド写真の100年」展(渋谷区立松濤美術館、2006年)
(3)“Neorealism in Polish Photography 1950-1960 / Deconstruction”, Galeria Asymetria, 23rd September – 29th October, 2016。出品作家はZdzisław Beksiński, Jerzy Lewczyński, Marek Piasecki, Błażej Pindorの4人。
(4)“Anthology of Polish Photography 1839-1989”, Bielsko-Biała, 1999
(5)Archeology of Photography Foundation(http://faf.org.pl/en)
(6)“Archaeology of Photography”, Pusta Gallery, 1997
(7)ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージが位置をとるとき』(宮下志朗、伊藤博明訳、ありな書房、2016年)p117
キャプション
クシシュトフ・ピヤルスキ Krzysztof Pijarski
《JL-KP》#3, 50x70cm, 2011
《JL-KP》#7, 50x70cm, 2011
著者:楠本亜紀(写真批評)
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