ボウイの東欧旅行についてポッドキャストを聞くには、下の画像をクリックしてください(英語)
デヴィッド・ボウイは1973年と1976年、二度ワルシャワを訪れている。どちらも西ヨーロッパからモスクワに向かう旅の途上、列車が駅に停まる間だけの短い滞在だった。どちらの滞在が『ワルシャワの幻想』のきっかけとなったのかはボウイの伝記研究家の間で意見が分かれているので、両者を尊重して二つのイントロダクションを用意した。
飛行機嫌いのデヴィッド・ボウイ
1970年代初め、デヴィッド・ボウイはひどい飛行機恐怖症だった。
「飛行機には乗らないよ。虫が知らせるんだ。乗ったら飛行機事故で死ぬ。1976年まで何も起こらなかったら、また乗ってもいい。」
イントロA
1973年の2月から5月にかけてボウイは地球を丸一周している。まず大西洋を船で渡ると、アメリカを車と電車で横断。太平洋を船で移動し、日本へ公演に向かった。1973年4月、日本でのコンサートツアーを終えると、ソ連を列車で横断してロンドンに戻ることを決める。モスクワまでのおよそ1万キロの道のりをシベリア鉄道に乗り、モスクワでパリに向かう伝説のOst-West Expressに乗り換えた。この列車は技術的な理由で、ワルシャワに通常1時間ほど停車することになっていた。
イントロB
別のボウイの研究家によると、一度目のワルシャワ訪問時は、厳しい入国審査のため、ボウイはほとんど列車から出ることができなかったという。つまり車両の窓から町をちらりと見ただけだった。しかし1976年「シン・ホワイト・デューク」は再びワルシャワに戻ってくる。今度はイギー・ポップIggy Popも一緒だった。列車は駅に数時間停まり、その間乗客は自由に町に出ることができた。
ボウイの足跡を辿る:1970年代のワルシャワ(Culture.pl on Vimeo)(英語)
ワルシャワでの途中下車
1973年と1976年のどちらにせよ、デヴィッド・ボウイは停車の機会を利用して列車を離れると、ワルシャワ・グダンスク駅周辺を散策した。北へ向かい、パリ・コミューン広場(現ウィルソン広場)まで歩き、近くのレコードショップに立ち寄った。店に入ると、店員がポーランド国立民族歌舞団シロンスクPaństwowy Zespół Ludowy Pieśni i Tańca "Śląsk"のレコードを客に見せているところだった。ボウイはこの音楽を聞き、レコードを買うと、ワルシャワ・グダンスク駅に戻って列車に乗り、旅を続けた。ボウイの短いワルシャワ滞在は、もし、この一見なんてことのないレコードがなかったなら、誰にも知られることはなかっただろう。
「ベルリン三部作」の始まり
1976年、薬物依存を克服しつつあったボウイは「世界のコカイン中心地」(ボウイはロサンゼルスのことをこう呼んでいた)から一時的にベルリンに移住し、11枚目のアルバム『ロウLow』のレコーディングを始めた。これは後に「ベルリン三部作Berlin Trilogy」と呼ばれることになる作品群の第一弾で、ボウイのアルバムの中でも極めて影響力が強く、大成功を収めた。ボウイはこのアルバムを有名な二人の共同制作者、作曲家のブライアン・イーノBrian Enoとプロデューサーのトニー・ヴィスコンティTony Viscontiと作り上げた。
『ワルシャワの幻想』器楽パート
ある日、デヴィッド・ボウイが前マネージャーとの訴訟の審問に出席するためフランスへ行っていた時、ヴィスコンティの4歳の息子がスタジオにあったピアノで短い旋律を繰り返し弾き始めた。イーノはその旋律がとても気に入り、長い旋律に展開した。それからヴィスコンティと共にこの主旋律をシンセサイザーで実験的に演奏した。このようにして二人は最初の二楽章を作った。数分間の器楽曲は非常に劇的で暗く荘厳だった。ボウイが戻ると、すぐにその曲を聞かせた。
『ワルシャワの幻想』ヴォーカル・パート
ヴィスコンティの回想によれば、ボウイはこの曲の雰囲気とテクスチュアにとても感銘を受けた様子だったという。ヴォーカル部分を完成させるためにインスピレーションを探していたボウイは、鉄のカーテンの共産主義側を旅した時の記憶を思い出した。ポーランドの雑誌『ティルコ・ロックTylko Rock』のインタビューに答えて、ボウイはこう回想している。
「『ワルシャワの幻想』では、自由を渇望する人たちの気持ちを表現したかった。自由の匂いはする…でも彼らはそれに手が届かないんだ。」
ボウイはワルシャワで買ったレコードを思い出すと、Helokanie(ヘロカニェ)の曲に着想を得て、コーラス・パートの録音に取り掛かった。ボウイ自身の声を何層も重ねて作った。
歌詞はポーランド語だと信じている人もいるが、実はボウイの発明で、人類に知られている言語では何も意味しない。
Mmmm-mm-mm-ommm
Sula vie dilejo
Mmmm-mm-mm-ommm
Sula vie milejo
Mmm-omm
Cheli venco deho
Cheli venco deho
Malio
Mmmm-mm-mm-ommm
Helibo seyoman
Cheli venco raero
Malio
Malio
先のインタビューで、ボウイは「歌詞の音声は、本当は何も意味していないけれど、感情を表現し、メッセージを伝えていると信じている」と語っている。ボウイが正しかったことは『ワルシャワの幻想』が証明している。コーラス・パートはこの曲の荘厳で陰鬱な性格に完璧に合っており、ポップ・ミュージックの中で、自由への渇望をこれほど見事に表した作品は他にはないだろう。
『ワルシャワの幻想』の遺産
『ワルシャワの幻想』はアルバムの中のベスト曲として広く称賛され、1978年と2002年のボウイのコンサートツアーはこの曲で幕を開けた。
『ワルシャワの幻想』に心酔していたジョイ・ディヴィジョンJoy Divisionのイアン・カーティスIan Curtisは、初め自分のバンドに「ワルシャワWarsaw」と名付けていた。Joy Divisionに改名したのは、ロンドンを拠点とするWarsaw Paktという別のバンドとの混同を避けるためだったに過ぎない。