昔のピェルニクはどんなものだったのでしょうか。さきほど、祝祭のご馳走の一つだったという話がありましたが、他にはどのようにとらえられていたのでしょうか。また、典型的なピェルニクのレシピはありますか。生地の食感やスパイスの配合など、種類によってそれぞれ大きな違いがありますね。
百科事典によると、ピェルニクという名称は「pierny(ピェルヌィ)」つまり「pieprzny(ピェプシュヌィ)」(胡椒のような、スパイスの効いた)という単語に由来し、刺激のあるスパイスを加えて作られることを意味しています。ただ、ヤロスワフ・ドゥマノフスキ教授の研究では、ピェルニクは必ずしもこれらの香辛料を必要としなかったとされています。多様な作り方があり、ピェルニクを決まった枠に押し込むのは困難です。今では、私たちはピェルニクはどれも同じような重さで、特定の材料が用いられ、同じ形をしているのが当たり前と思っていますが、これは製品登録の制度がもたらした結果です。このような標準化は中世や近世には存在せず、ヨーロッパ中、またはある地域で生産されていたピェルニクを1種類だけ挙げることは難しいのです。
ピェルニクの多様な用途も、これが理由です。ピェルニクはおやつとして、プレゼントとして、飾りとして、そして薬としても機能していました。たとえば、消化を促す効果があるとされていた。そのほか、皮膚のかぶれにも適用され、ワインに浸したものは滋養強壮の効能があり、身体をあたためると考えられていました。ピェルニクと言えば秋や冬が連想され、地域によってはこの季節のみ生産・販売されています。血行をよくするスパイスが含まれているので、ピェルニクがよく冬と結びつけられるのは単なる偶然ではないでしょう。トルンでは1年中ピェルニクが出回っており、これも「ピェルニクの街」の特徴になっています。
レシピは様々です。たとえばニュルンベルク風ピェルニク、つまりレープクーヘンの生地はかなりゆるいため、くずれてしまわないよう型で成形する必要があります。トルン風ピェルニクは、最も古いレシピは17世紀に遡りますが、初めて活字で記述されるのは1725年の『Compendium medicum auctum…(医学大全)』です。18世紀の百科事典には、トルンをピェルニクで有名な街と説明する記述も見られます。また、それより前の17世紀、詩人フリデリク・ホフマン(Fryderyk Hoffmann, 1627-1671)による名言にも登場しています:「グダンスクの火酒(ウォッカ)、トルンのピェルニク、クラクフの乙女、ワルシャワの靴――これらポーランド最上のもの」。
トルンではピェルニクの伝統をなぜ継承できたのでしょうか。初めはパン職人や菓子職人がピェルニクを焼いていましたが、その後、グスタフ・ヴィーゼ(Gustav Weese, 1801-1874)によってかの有名なピェルニク工場が建設されます。
はい、ここでは技術の進歩も注目に値します。中世や近世において、トルン風ピェルニクは生地を発酵させてから休ませる方法で作られてきました(生地を休ませるのは今も同じです)。十分に休ませた生地は重さを計って均等に分け、木型を使って型押ししてから、かまどへと送られます。温度の調整なしに「生きた」火の力で焼き上げるため、かなりの経験と鋭い勘が必要でした。マイスター試験の際、他の地域からやって来た者も、規定通りの重さのトルン風ピェルニクを焼き上げる能力を証明する必要がありました。時とともに技術も変わり、工房は製造所へ、そして工場へと変化して行きます。このような生産の発展を示す例が、トルンの会社、ヴィーゼです。
1763年2月14日、ピェルニク作りの親方、ヨハン・ヴィーゼ(Johann Weese, 1731-1775)が、自身の師匠であったメルヒオル・フリーべ(Melchior Friebe, ?-1757)の未亡人、エリザベートと結婚してトルンのピェルニク一族を創始し、彼らに続く世代が家族経営の会社を発展させました。1885年、ラインハルト・エブリック(Reinhard Übrick, 1844-1917)が設計した工場の建物がストゥルムィコヴァ通り4番地(ul. Strumykowa 4)に完成します。現在はここがトルン地方博物館の分館であるトルン・ピェルニク博物館(Muzeum Toruńskiego Piernika)の所在地となっています。その後、トルン旧市街にあったこの工場では生産が十分に回らなくなったため、1909年から1915年に郊外のモクレ(Mokre)に新しい工場施設が建てられ、生産が開始されます。工場は今もジュウキェフスキ通り34番地(ul. Żółkiewskiego 34)で操業を続けています。1939年にはヴィーゼ家の所有者がこの工場を消費者協同組合「スポウェム」(Powszechna Spółdzielnia Spożywców „Społem”)」に売却しました。ヴィーゼ家の工場だけがトルンでピェルニク生産を行っていたのではありません。1857年に設立されたヘルマン・トマス(Hermann Thomas, 1831-1899)の大規模な工場があったほか、ヤン・ルフニェヴィチ(Jan Ruchniewicz)の工場も1907年から操業していました。また、より小さな工房やパン屋・菓子店も、季節になるとピェルニクを焼いていました。
第二次世界大戦後、社会主義政権下のポーランドにおいて、ワルシャワの製菓産業協会(Zjednoczenie Przemysłu Cukierniczego)が工場を吸収し、1951年に名称がピェルニク・菓子工場「コペルニク」(Fabryka Pierników i Wyrobów Cukierniczych „Kopernik”)に変更されます。工場では、ヴィーゼ家の会社やその他の工房で以前働いていた従業員が雇われました。そして体制転換後の1991年、株式会社へと形を変え、菓子工場「コペルニク」が設立されるに至ったのです。ピェルニク製造の技術と産業は、歴史の変遷や所有者の変化をくぐり抜け、トルンに生き続けています。トルンのピェルニク製造という有形遺産を保護するため、工場長、特にミハウ・サムルスキ氏(Michał Samulski, 1909-1990)や博物館の職員たち(型や包装紙、書類の収集、展示会の企画運営を担当)が尽力してきました。歴史的な型押しピェルニクなど、ピェルニク製法の知識は、職人たちにより何世代にもわたって受け継がれてきました。職人それぞれが皆、新しい形や味を探し求めていたことは、特筆に値するでしょう。トルンの街に住む人々は、ピェルニク作りに重要な意味を見出してきた。彼らのこのような意識が、スパイスの効いたこのお菓子とトルンを結びつけてきた理由の一つかと思います。ここで、トルンという街のシンボルとなり、最も知られるようになったのが、カタジンカ(katarzynka)です。