アニメーションの街
2026年、初の「ポーランド文化の首都」になった南部の街、ビェルスコ=ビャワにはアニメーション映画スタジオがあり、その存在価値がよく理解されている。街のブランドイメージが、スタジオとともに築かれてきたからだ。
2024年末、シロンスク大学出版会(Wydawnictwo Uniwersytetu Śląskiego)から、数多くの図版が掲載された大型の研究書『Nie tylko dla dzieci. Studio Filmów Rysunkowych(SFR)Bielsku-Białej 1947-2021(子どもだけのものではない――ビェルスコ=ビャワ·アニメーション映画スタジオ(SFR)1947-2021年)』が出版された。著者のパトリク·オチュコ(Patryk Oczko)は、この有名な映画制作スタジオの歴史を始まりから解説し、創設に携わった人々の経歴とともに、子ども向け映画というジャンルを超えて制作されてきた映画作品を紹介している。
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パトリク·オチュコ著『Nie tylko dla dzieci. Studio Filmów Rysunkowych(SFR)Bielsku-Białej 1947-2021』。写真:国立シロンスク大学(カトヴィツェ)
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この機関の始まりは、第二次大戦後まもなくという創設当時の現実と同じく、波瀾に満ちたものだった。「ビェルスコ制作スタジオの歴史、いやむしろその前史は、すべてカトヴィツェで始まった。1945年、アニメーション映画に魅了された若き芸術家、ジヂスワフ·ラフル(Zdzisław Lachur, 1920-2007)が、そこに居を構えたのだ」――オチュコはこう書いている。今日、アニメーション映画スタジオ(Studio Filmów Rysunkowych, SFR)として知られる映画製作所の物語では、発展の原動力となる情熱を持つ人々の運命と、その運営に影響を与えた政治的な背景や決断とが絡み合っていた。
そんな中、まず1947年に、SFRの前身である実験的アニメーションスタジオが、カトヴィツェに設立されることになった。もともとスタジオとつながりがあった日刊紙『Trybuna Robotnicza』枠内に広告が掲載されたのを機に、漫画家のチームが結成され、初の映画『Czy to był sen?(これは夢だったの?)』(現存せず)の制作が開始された。
始めの数年、漫画家チームの活動と言えば、比喩的、つまり組織的·資金の観点からも、また文字通りの意味でも、自分たちの場所を見つけることだった。スタジオ設立の1年後には、新しい拠点を探さなければならなかった。カトヴィツェの南約70キロの町、ヴィスワ(Wisła)で数年を過ごし、幾度も名称の変更やスタッフの異動を経たのち、チームはウッチ長編映画スタジオ(Wytwórnia Filmów Fabularnych w Łodzi)のアニメーション映画部門となり、ビェルスコ=ビャワがその拠点となった。
その後も名前やディレクター、また制作する映画のテーマがたびたび変更されたが、ベスキディ山脈(Beskidy)麓のこの街にある、チェシンスカ通り24番地(ul. Cieszyńska 24)の旧ロート邸(Willa Rotha)に落ち着くことになり、ここで1956年1月1日、アニメーション映画スタジオと称する独立した機関が誕生した。
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ビェルスコ=ビャワの旧市街広場。写真:Piotr Tumidajski / Forum
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パトリク·オチュコの本にはSFRで制作された子ども向け·一般向け双方の映画のスケッチやイラスト、パネルが満載で、作画スタイルの発展とともに、映画テーマの変遷を垣間見ることができる。1950年代前半のSFRのアニメーションと当時のウォルト·ディズニーが制作した映画には、驚くほどの類似が見られる。
ズビグニェフ·レングレン(Zbigniew Lengren, 1919-2003)が週刊誌『Przekrój(断面)』の漫画欄に描いていた有名な「フィルテク教授」のアニメ化も、特筆に値するだろう。SFRでは教育映画(たとえば禁酒映画)や社会的なテーマを扱った映画も制作されたが、政治的なプロパガンダ作品はほとんど作られなかった。
オチュコの本ではスタジオの歴史と業績が丁寧に、段階を追って解説され、そこから何十もの様式の世界観が立ち上る。ビェルスコ=ビャワで制作された映画は、伝統的な子ども向けのアニメーション映画から、芸術的で先見性のある実験的な映画まで、実に幅広いアイディアを表現していた。作者たちはこれらの映画において、水彩画、民芸の切り絵、抽象的な形態を用いた幾何学的構成、長編映画の断片や、シュルレアリスム的な技法の混合など、非常に多様な表現方法を取り入れていた。
チームでは一人ひとりが自らのビジョンを持ち、それぞれ異なる表現手段を探究しつつ、独立した作家として実験を行っていた。スタジオの芸術面での発展は1960年代に頂点に達し、とりわけ独創的·実験的な作品が数多く生み出された。ヴワディスワフ·ネフレベツキ(Władysław Nehrebecki, 1923-1978)、ヴァツワフ·ヴァイセル(Wacław Wajser, 1923-1981)、ジヂスワフ·クドゥウ(Zdzisław Kudł, 1937- )、ブロニスワフ·ツェマン(Bronisław Zeman, 1939- )、イェジー·ジツマン(Jerzy Zitzman, 1918-1999)、ミロスワフ·キヨヴィチ(Mirosław Kijowicz, 1929-1999)といった面々は、当時、独自の芸術スタイルを発展させていったアニメーション映画スタジオのチームメンバーのわずか一部である。
観客は映画館でSFRの映画を見ることができた。ビェルスコ=ビャワの作品は1950年代から本編映画の前に上映されるようになり、ポーランド記録映画(Polska Kronika Filmowa)〔本編の前に上映される10分間のニュース映画で、共産主義政権のプロパガンダ手法の一つだった〕と組み合わせられることもあった。子ども向けの映画は「朝の映画」として、幼い観客用の午前中の上映枠を割り当てられた。オチュコが解説するように、SFR作品の上映についての1960年代の議論は、これらの作品がいかに多くの人々の関心を集めていたかを示している:
映画館で上映されるビェルスコ=ビャワ作品が増えたことで、それまでの制作状況全体について議論が巻き起こった。『Film』誌はこう書いている:「本編の前に流され、観客に常に喜ばれるような、楽しい短編作品が明らかに不足している。アニメーション映画は、芸術面では既に高い水準に達している。しかしその大部分が “大人向け”で、メランコリックな雰囲気の作品となっている。一方、娯楽映画の類はとりわけ映像が優れているとは言えず、“ギャグ”、つまり観客の注意を引いて楽しませるアイディアに欠けている」
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アニメシリーズ『Bolek i Lolek』の作者、ヴワディスワフ·ネフレベツキ、アニメーション映画スタジオ、1972年。写真:Stanisław Jakubowski / PAP
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アニメーション映画スタジオの作品は映画祭でも上映され、国外の上映会で受賞されたり、国際映画祭でも高い評価を受けた。アニメーション映画スタジオは発展を続けた。オチュコは次のように書いている:
1960年代末、一般向けオリジナル映画の革新的な作品が減少し、子ども向けの映画作品が大幅に増加したことにより、制作スタッフの増員と刷新が必要となった。若い世代の作家がデビューしやすくなり始めたのはこの時だった。「新鮮な血」つまり新人の登用が不可欠だったのは、何よりもシリーズ作品の制作、そしてその次に、引き続き実験の場とされるとともに、映画コンクールや映画祭でSFRを代表する「顔」とも言える存在である、単発作品の制作だった。
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『Bolek i Lolek na Dzikim Zachodzie』(ボレクとロレクの西部開拓)の1コマ、写真:広報資料
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スタジオの発展は2方向に進んでいった。一つは芸術的で「映画祭向け」とも言えるオリジナル作品で、高く評価され、数多くの賞を受賞した。もう一つは、今日までスタジオの代名詞となっている作品群である。1963-1964年に初の『Bolek i Lolek(ボレクとロレク)』シリーズが誕生し、2話ごとにスタニスワフ·デュルツ(Stanisław Dülz, 1927-2006)、アルフレト·レドヴィク(Alfred Ledwig, 1929-2006)、レシェク·ロレク(Leszek Lorek, 1922-1977)、レホスワフ·マルシャウェク(Lechosław Marszałek, 1922-1977)、ヴワディスワフ·ネフレベツキ、ヴァツワフ·ヴァイセル、エドヴァルト·ヴォントル(Edward Wątor, 1929-1992)がそれぞれ監督を務めた。1967年にはレホスワフ·マルシャウェクが新たに「Reksio(レクショ)」という犬のキャラクターを作り出し、60年代末から70年代にかけ『Porwania Baltazara Gąbki(バルタザール·ゴンプカの誘拐)』の各エピソードが生まれる。1975年には『Pampalini łowca zwierząt(動物ハンター、パンパリーニ)』が作られた。これらの最もよく知られた作品のほか、長短で何十ものシリーズが制作された。
1970年代末には、このリストに長編作品が加わる。最初の作品『Wielka przygoda Bolka i Lolka(ボレクとロレクの大冒険)』は1977年に作られた。
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ビェルスコ=ビャワのインタラクティブ·フェアリーテイル·アニメーション·センター “OKO”(設計:ミロスワフ·ニジョ Mirosław Nizio)。写真:Marcin Czechowicz / https://nizio.com.pl
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アニメーション映画スタジオは、設立当初から資金不足を始めとする様々な問題に直面してきたが、最も困難な時期は体制転換、そしてその直後のデジタル革命とともにやってきた。また、著作権の相続をめぐる紛争や、映画界全体を揺るがすことになったアート映画の危機も状況を悪化させた。
2011年、国営映画機関を商業化する決定がなされた。ビェルスコ=ビャワのSFRはウッチのセ·マ·フォル(Se-ma-for)スタジオ、またクラクフやポズナンのアニメーション映画スタジオとは異なり、幸いにも混乱期を乗り越えて国営企業となり、その3年後、この種の機関として明らかにより望ましい形である、国営文化機関へと変容した。オチュコはこう述べている:
技術的な変化と制作プロセスのコンピュータ化により、広大な施設は不要になった。新条件下では2つか3つ部屋があれば事足りるため、維持費を削減し、新たな機能のために広い空間を獲得することが可能になった。スタジオ内に、映画制作を娯楽とメディア教育の活動と融合させる構想が出現したのはその時である。
2016年、アニメーション映画スタジオ内に、インタラクティブ·フェアリーテイル·アニメーション·センター “OKO”(Interaktywne Centrum Bajki i Animacji)の設計を目的とする建築コンペが開催された。EUを始めとする各機関の資金援助により、このような大規模プロジェクトの実現が可能になった。2018年には長年のブランクを経て、SFRはアート映画の制作を再開。オチュコが言うように、スタジオの活動は新たな段階に入った。
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ヴァヴェルの竜と『Porwanie Baltazara Gąbki』に登場するコック、バルトリーニの像。写真:Monkpress/East News
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アニメーション映画スタジオがビェルスコ=ビャワのチェシンスカ通りに拠点を据えたのは1952年のことだが、長年、街の性格には特に大きな影響を与えてこなかった。おそらく、このスタジオが常に全国的な視野や意図を持った機関で、官僚による上からの決定の結果、ビェルスコ=ビャワにはある意味、偶然「落ち着く」ことになったためだろう。しかし今日、都市ブランドや地域アイデンティティを築くことは、街のイメージ向上はもちろん、住民の生活の質を改善し、観光客の評判を高めるためにも必要である。
ビェルスコ=ビャワは、これと言った名所や歴史的な建築を持たない産業都市とは異なり、アイデンティティをゼロから構築する必要はなかった。もっとも、山間の谷間に広がる絵のように美しいこの街は、その発展を産業に負ってきた。19世紀に織物工場と機械工場が建設され、その跡地に、石造りの住宅建築とともに、壮麗な公共建造物や工場の本部が建てられた(こうした建物は現在まで公共の機能を果たしている)。ビェルスコ=ビャワが「小ウィーン」と呼ばれるのは、産業革命の時期に由来する建築のおかげだ。
街を歩くと戦前のモダニズムの興味深い例が見られる。中心部には歴史的な都市計画が残され、広場や遊歩道が整備されている。
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クリスマス仕様のビェルスコ·ビャワ。写真:Paweł Sowa / ビェルスコ·ビャワ市庁舎
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ビェルスコ=ビャワの素晴らしい建築の大部分は改修工事を終え、広場や通りはかつての輝きを取り戻している。ベスキディ山脈の麓に位置するこの街の、堂々たる歴史的な建築や、山々に囲まれた景観には感嘆せずにはいられない。街の名所リストには既に10年以上前に、アニメーション映画スタジオが加わった。
始まりはひそやかだった。2009年、ストヤウォフスキ通り(ul. Stojałowski)と11月11日通り(ul. 11 Listopada)の間にある小さな広場に、高さ90 センチメートルのレクショのブロンズ像が建てられた。その2年後、中央駅近くのショッピングセンターの脇に、ボレクとロレクが現れた。
その後、ヴァヴェルの竜と彼の親友で紋章「緑パセリ」のコック、バルトリーニ·バルトウォミェイ(Bartolini Bartłomiej)、彼らの宿敵つまり「雨の国」のスパイで陰鬱なドン·ペドロ(Don Pedro)、そして下手な動物ハンター、パンパリーニ(Pampalini)(とカバ)の像が立つことになった。これらのアニメキャラクターをめぐる散歩コースは、年齢に関係なく、観光客の必見ポイントになっている。
ここ数年、レクショとボレク·ロレクはクリスマス·イルミネーションの主役となり、彼らの巨大な光の像が、街の中心部の空間を彩る。最も有名なアニメキャラクターが各イベントのパトロンを務め、その姿は数えきれないほどたくさんの土産品やグッズになって、街にあふれている。
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ビェルスコ=ビャワのインタラクティブ·フェアリーテイル·アニメーション·センター “OKO”(設計:ミロスワフ·ニジョ)。写真:映画アニメーションスタジオ/ https://www.sfr.pl/
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2024年5月にはインタラクティブ·フェアリーテイル·アニメーション·センター “OKO”が開館。チェシンスカ通りの旧ロート邸に隣接し、1970年代に漫画家のために建てられた小さな別館があった場所である。新しい建物は、建築コンペで選ばれたNizio Design International事務所の設計に基づいて建設された。カフェ、ショップ、映画館、そして何より、アニメーション作画の歴史と技術を紹介し、来館者が自分でアニメーションを作ることもできる、常設展の大きな空間がある。センターの建物はポーランド建築協会(Stowarzyszenie Architektów Polskich)コンクール·文化施設部門で佳作の表彰を受け、週刊誌『Polityka』2025年度建築賞の最終選考にも残った。インタラクティブ·フェアリーテイル·アニメーション·センター “OKO” は、開館から1年の間におよそ10万人が訪れた。建設プロジェクトの際、旧ロート邸の改修工事も行われた。
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ビェルスコ=ビャワのインタラクティブ·フェアリーテイル·アニメーション·センター “OKO”(設計:ミロスワフ·ニジョ)。写真:映画アニメーションスタジオ/ https://www.sfr.pl/
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自治体側は新投資の成功に誇りを持っており、ビェルスコ=ビャワの都市空間で、アニメーションは観光名物として存在感をいよいよ増し、アニメキャラクターは歴史的建築物のライバルではなく、街の名所の長いリストを見事に補完している。これは今後も継続する価値があるだろう。何よりアニメーションは明るく、物議を醸すこともない。年齢に関係なく、誰しもを笑顔にさせてくれる。
アニメーション映画スタジオそのものを取り上げた本は、実は2冊ある。パトリク·オチュコの研究書のほかにも、2020年にレシェク·K·タルカ(Leszek K. Kalka)とカロル·ヴェセリー(Karol Vesely)による『Królowie bajek. Opowieść o legendarnym Studiu Filmów Rynukowych(おとぎ話の王たち――伝説的なアニメーション映画スタジオの物語)』が出版されている。スタジオが今後、街の助成を受けて成長を続け、子どもも大人も楽しめる、新たなカルト的映画が次々と作られていくことを願いたい。
執筆:アンナ·ツィメル(Anna Cymer)、2025年7月3日、改訂:2026年1月16日
日本語訳:柴田恭子(Yasuko Shibata)、2026年4月