ポーランド君主の奇妙なあだ名8選
中世ポーランドの統治者は、変わったあだ名を持っていることが多かった。たとえば、「もつれた足」「細長い足」「巻毛」などである(本当です!)。歴史を辿りながら、どうしてこのような不思議なあだ名がついたのか、お話ししましょう。
ボレスワフ・クシヴォウスティ(Bolesław Krzywousty)――曲唇公
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ボレスワフ・クシヴォウスティ、1703年の作品、写真:国立図書館、Polona.pl
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1085年生まれのポーランド王子のあだ名は「曲がった口」という意味だ。このあだ名がついたのは、早口言葉が好きだったからではなく、ただ口が曲がっていた、あるいは「しかめていた」からだった。1970年代にプウォツク大聖堂で、考古学者らが王のものと思われる頭蓋骨を発見した。分析したところ、下顎がはっきりと左に傾いており、おそらく出生時の合併症によるものだということが判明した。ボレスワフが噛んだり、話したりすると、非対称性がより顕著になっただろう。
しかし、かれの行いを知れば、誰も王をからかおうという気にはならないはずだ。このあだ名は、異母兄のズビグニェフの失明と関係があるらしい。権力争いの最中、ズビグニェフは支援を求めて外国に出た。ボレスワフが勝利し、異母兄に無事に帰国させることを約束したが、この約束は守られなかった。ボレスワフはズビグニェフを失明させ、投獄し、死に至らしめたのである。
ポーランド語では「偽証」のことを「曲がった宣誓(krzywoprzysięstwo)」という。だから「口の曲がった(krzywousty)」というあだ名は、信用ならない人物にふさわしい。曲唇公の前では、軽口を叩かずに、口を慎むのが賢明なようだ。
ボレスワフ・ケンジェジャヴィ(Bolesław Kędzierzawy)――巻毛公
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ボレスワフ・ケンジェジャヴィ、1703年の作品、写真:国立図書館、Polona.pl
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兄弟の争いがいかに醜いものになるか思い知った曲唇公は、一族内での流血が二度と起こらないように一計を案じた。1138年、死に際した曲唇公は遺言書を書き、息子たちに領土を分割相続させた。5人の息子がそれぞれ受け取った分け前の大きさについては、歴史家の間でいまだに議論が続いているが、確実なのは、その息子たちのなかに「巻毛公」ことボレスワフ・ケンジェジァヴィ(1121年生まれ)がいたことだ。この変わったあだ名は、その見事な巻毛にちなんだものと言われている。民族誌学者のジグムント・グロゲル(Zygmunt Gloger)は、20世紀初頭の『Encyklopedia staropolska ilustrowana(図解・古ポーランド百科事典)』のなかで以下のように書いている。
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「ヴワディスワフ・ヘルマン(Władysław Herman)[曲唇公の父]とボレスワフ大胆王(Bolesław Śmiały)[ヘルマンの兄]のコインでは、これらの君主には、高位の自由民のような、後ろになでつけた長い髪しか描かれていない。ボレスワフ巻毛公のコインでは、ややぎこちなくはあるが、鋳造者がその巻毛を表そうとしている。」
ミェシュコ・プロントノギ(Mieszko Plątonogi)――跛足公
ミェシュコ・プロントノギ、写真:Wikipedia
王家の平和を保とうとした曲唇公の試みは、無駄に終わった。男の子は男の子とことわざにも言うが、曲唇公が亡くなると、息子たちは権力争いを始めた(巻毛公がもっとも優勢だった)。やがて、ポーランドの地方支配者の間で権力争いが常態化し、国の封建的分裂が進み、10余りの公国に分かれてしまった。そして、これらの公国の新しい君主たちは、自らを区別するためにあだ名が必要になった。歴史家のウカシュ・プシビウェク(Łukasz Przybyłek)は2016年にポーランドラジオの番組「Zaklinacze Czasu(時間の魔術師たち)」でこう解説している。
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「昔、名字がなかった時代には(略)、支配者を区別するものが必要でした。オラフやロマンという名前ばかりだと、違いをつけなければなりません。初期につけられた、ごく基本的なあだ名は、身体の特徴に言及していました(略)。 [他のあだ名は]その人物に、人々が従った理由を示しています。これには『強健王』『大胆王』『勇敢王』などがあります。」
一公国の支配者であったミェシュコ・プロントノギ(1146年頃生まれ)のあだ名は、かれの特徴の一つを強調している。足の麻痺である。「プロントノギ」は「もつれた足」と訳すことができる。
ヴワディスワフ・ラスコノギ(Władysław Laskonogi)――細足公
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ヴワディスワフ・ラスコノギ、ヤン・マテイコの作品、写真:国立図書館、Polona.pl
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これもまた「足のあだ名」である。「ラスコノギ」とは「細長い足」のことだ。中世の歴史家で年代記作者のヤン・ドゥウゴシュ(Jan Długosz)は、このヴィエルコポルスカ公(1161-66年生まれ)について、『有名なポーランド王国に関する年代記』のなかでこう書いている。
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「高身長だったので『大王』呼ぶ者もいた。そのとりわけ長い足から『細足公』と呼ぶ者もいた。」
どちらが定着したかは、ご存じのとおりだ。想像してみてほしい。「大王」として歴史に名を残すはずが、「細足公」として人々の記憶に刻まれるとは......。
ボレスワフ・ロガトカ(Bolesław Rogatka)――角王
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ボレスワフ・ロガトカ、ヤン・マテイコの作品、写真:国立図書館、Polona.pl
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ボレスワフ・ロガトカ(1220-1225年生まれ)はシロンスクの王で、その残虐非道な行いで知られている。かれは、シロダ・シロンスカの町の教会に火を放ち、かれから逃れて避難していた500人の人々を殺したと言われている。ヤン・ドゥウゴシュによれば、ロガトカというあだ名は「ポーランド語で『角(róg)で突く』ような、大胆な人を意味している」。だから「角の生えた人」と訳すことができる。非道な性格にふさわしい悪魔のようなあだ名である。
ボレスワフ・フスティドリヴィ(Bolesław Wstydliwy)――純潔王
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ボレスワフ・フスティドリヴィ、1703年の作品、写真:国立図書館、Polona.pl
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こちらも、性格に基づいた意外なあだ名だ。サンドミェシュ公ボレスワフが「シャイ(Wstydliwy)」というあだ名を得たのは、かれとその妻が生涯の貞操を誓ったからである。1226年生まれのボレスワフは、ハンガリー王女キンガと結婚したとき、わずか13歳だった。キンガにいたってはたったの5歳だった(今日的視点からいうと、とんでもないことだが、中世の王家の政策ではこれが現実だった)。子供同士で結婚したならば、シャイなのも無理はない。
プシェミスウ・ポグロボヴィエツ(Przemysł Pogrobowiec)――忘れ形見公
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プシェミスワフ・ポグロボヴィエツ(プシェミスウ2世)、1730年の作品、写真:国立図書館、Polona.pl
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1257年にプシェミスウが誕生したとき、かれの父親はすでに亡くなっていたので、「ポグロボヴィエツ(父親の死後に生まれた子供)」というあだ名がついた。19世紀の作家ユゼフ・イグナツィ・クラシェフスキ(Józef Ignacy Kraszewski)は、このポーランド王に着想を得て、歴史小説『Pogrobek(父親の死後に生まれた子供)』を書いた。そのなかに登場する道化師のクルスカは、王子についてこう語る。
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「殿下は美しい!若くて魅力的だ!金を豊富に持ち、土地も多く持つだろう。でも幸運も同じだけ手にするだろうか?彼は父親の死後に生まれた子供だ。そしてそのような子は、順調にいくとは限らない。」
ざんねんながら、プシェミスウは幸運にあまりめぐまれなかった。国の再統合をかけて1295年にポーランド王となったが、翌年に暗殺されている。この卑劣な行為の真相はほとんど明らかになっていない。おそらく、プシェミスウが王に上り詰める過程で作った、複数の強力な敵が犯人だと考えられている。
ヴワディスワフ・ウォキェテク(Władysław Łokietek)――短身王
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ヴワディスワフ・ウォキェテク、1878年の作品、写真:国立図書館、Polona.pl
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「エル(łokieć, ウォキェチ)」は昔の長さの単位だが、国によって違っており、当時のポーランドでは、約60cmとされていた。「小さなエル」「背の低い」「ひじまでの高さ」というあだ名は、150cmに満たなかったという王の身長に言及している。かれの戴冠は、曲唇公の遺言書に始まる182年に及んだ封建的分裂時代に終止符を打ったのだが、ヴワディスワフはこのあだ名で記憶されている。
プシェミスウの死後にまた分裂していたポーランドを、ついに再統合した人物ならば、歴史上に「大王」や「賢王」として名を残してしかるべきだと思われるかもしれない。しかし、そうではない。ヴワディスワフが1320年にポーランド王として戴冠したときには、すでに「ウォキェテク(ひじまでの高さ)」というあだ名で知られていたのである。
執筆:マレク・ケンパ(Marek Kępa)2018年3月5日
日本語訳:YA、2022年3月